建久三年(1192)壬子九月
建久三年(1192)九月大四日癸酉。於鶴岡上宮西壇所。被始行長日聖觀音供養法并法華講讃。供僧等奉仕之云々。 |
読下し つるがおかじょうぐうにしだんしょ をい ちょうじつ しょうかんのんくようほう なら ほっけこうさん
しぎょうされ
建久三年(1192)九月大四日癸酉。鶴岡
上宮 西壇所に於て、長日@の聖觀音供養法并びに法華講讃Aを始行被る。
ぐそうら これ ほうし うんぬん
供僧等を之を奉仕すと云々。
参考@長日は、一日中切れ目なくお経を続ける。
参考A講讃は、仏教で、経文の意味・内容を講義し、その功徳をたたえること。Goo電子辞書から
建久三年(1192)九月大五日甲戌。右馬權頭公佐朝臣献書状。去月廿日。依人之讒口被除籍。於身無其科。賜一行欲愁申云々。仰云。雖讒者。以一向虚言。不可達天聽。内々有懈緩事之條。無異儀歟。以親昵輙不能執申之由云々。 |
読下し うまごんのかみきんすけ あそん
しょじょう けん さんぬ つきはつか ひとのざんこう
よつ じょせきされ
建久三年(1192)九月大五日甲戌。右馬權頭公佐@朝臣書状を献ず。去る月廿日、人之讒口に依て除籍被る。
み をい そ とが
な いちぎょう たま うれ もう ほつ うんぬん
身に於ては其の科無く、一行を賜はりA愁ひ申さんと欲すと云々。
おお い ざんしゃ いへど いっこう きょげん もつ てんちょう
たつ べからず
仰せて云はく、讒者と雖も、一向の虚言を以て、天聽に達する不可。
ないない けかん こと あ
のじょう いぎ な か しんでい
もつ たやす しつ もう あたはずのよし うんぬん
内々に懈緩Bの事有る之條、異儀無からん歟C。親昵を以てD輙く執し申すEに不能之由Fと云々。
参考@右馬權頭公佐は、三条宗定の甥。阿野流藤原氏。妻は阿野全成の娘。この家から後に阿野康子が出る。
参考A一行を賜はりは、頼朝の取り成しの手紙が欲しい。
参考B懈緩は、何か怠けてしまった。
参考C異儀無からん歟は、たぶん間違いないんじゃないの。
参考D親昵を以ては、親戚だからといって。
参考E輙く執し申すは、簡単に取り成す訳には。
参考F不能之由は、そうはいかないんじゃない。
現代語建久三年(1192)九月大五日甲戌。右馬権頭阿野流藤原公佐さんが手紙をよこしました。
先月の二十日に、誰か人の告げ口によって朝廷の役職からはずされてしまいました。自分では何の落ち度も無いので、取り成しの手紙を貰って朝廷に訴えたいのだそうだ。
頼朝様がおっしゃられるのには、「告げ口とは言っても、全くの嘘が天皇に伝わるわけが無い。何か怠けてしまったのだろう。たぶん間違いないと思う。親戚だからといって、簡単に取り成す訳には、いかないんじゃないかなー。」だとさ。
建久三年(1192)九月大十一日庚辰。靜玄立堂前池石。 將軍家自昨日御逗留行政宅。爲覽此事也。汀野埋石。金沼汀野筋鵜會石嶋等石。悉以今日立終之。至沼石并形石等者一丈許也。以靜玄訓。畠山次郎重忠一人捧持之。渡行池中心立置之。觀者莫不感其力云々。 |
読下し じょうげんどうまえ いけ
いし た しょうぐんけ きのう よ ゆきまさ たく ごとうりゅう
建久三年(1192)九月大十一日庚辰。靜玄堂前@の池の石を立つ。將軍家昨日自り行政の宅に御逗留。
こ こと み ためなり
此の事を覽ん爲也。
みぎわの
うめいし きんしょうみぎわのすじ うかい いしじまら いし ことごと もつ きょう
これ た おえ
汀野の埋石A、金沼汀野筋B、鵜會石嶋C等の石、悉く以て今日之を立て終る。
ぬまいし なら
かたちいし ら
いたり は いちじょうばか なり
沼石D并びに形石E等に至て者一丈F許り也。
じょうげん おし もつ はたけやまのじろうしげただ ひとり これ ささ も いけ
ちゅうしん わた
ゆ これ た お
靜玄の訓へを以て、
畠山次郎重忠 一人で之を捧げ持ち、池の中心に渡り行き之を立て置く。
みるもの
そ ちから かんぜず な うんぬん
觀者其の力を感不は莫しと云々。
参考@堂前は、二階堂の前。
参考A汀野の埋石は、不明。
参考B金沼汀野筋は、不明。
参考C鵜會石嶋は、不明。
参考D沼石は、不明。不明の石はたぶん文字の通りだと思われる。
参考E形石は、景石。
参考F一丈は、約3m。本当に一人で持ち上がるのか疑問。1.5mは土に埋まり、0.5mは水面下で1mが水面上に見える。
現代語建久三年(1192)九月大十一日庚辰。静玄が、二階堂の前の池に石を立てます。
将軍頼朝様は、昨日から主計允藤原行政の屋敷にお泊りです。それは、この作業を見るためです。
汀に埋め並べる石、金沼の汀をたどるように並んだ筋石、鵜が留まっているような島形の石など、全て今日中に立て終えました。
沼石や形石に至っては、一丈(3m)ほどもあります。
静玄の教えの通りに、畠山次郎重忠が一人で抱え持って、池の真ん中まで運んで、これを立てて置きました。
見ている人達は、その力持ちに感心しない人はありませんでしたとさ。
建久三年(1192)九月大十二日辛巳。小山左衛門尉朝政先年募勳功浴恩澤。常陸國村田下庄也。而今日賜政所御下文。其状云。 |
読下し おやまのさえもんのじょうともまさ せんねん くんこう つの おんたく よく
ひたちのくに むらたしもしょうなり
建久三年(1192)九月大十二日辛巳。小山左衛門尉朝政、先年の勳功に募り恩澤に浴す。常陸國
村田下庄@也。
しか きょう まんどころ おんくだしぶみ たま そ じょう い
而して今日政所の御下文を賜はる。其の状に云はく。
將軍家政所下す 常陸國
村田下庄〔下妻宮等〕
じとうしき ぶにん こと
地頭職補任の事
さえもんのじょうふじわらともまさ
左衛門尉藤原朝政
みぎ さんぬ じゅえいにねん さぶろうせんじょうよしひろ むほん
はつ とうらん くはだ
右は、去る壽永二年、三郎先生義廣、謀叛を發し鬪乱を企つ。
ここ ともまさひとへ ちょうい
あお ひと あいふさ ほつ
爰に朝政偏に朝威を仰ぎ、獨り相禦がんと欲す。
すなは かんぐん ま ぐ どうねんいがつにじうさんにち しもつけのくに のぎのみや へん をい
かっせんのとき ぬきん もつ ぐんこう いた をはんぬ
則ち官軍を待ち具し、同年二月廿三日、
下野國 野木宮A邊に於て合戰之刻、抽で以て軍功を致し畢。
よつ か とき じとうしき
ぶにん ところなり しょうかんよろ しょうち いしつ べからずのじょう おお
ところくだん ごと もつ くだ
仍て彼の時、地頭職を補任する所也。庄官宜しく承知し遺失す不可之状、仰せる所件の如し。以て下す。
けんきゅうさんねんくがつじうににち あんず
ふじい
建久三年九月十二日 案主
藤井
りょう みんぶのしょうじょうふじわら ちじけ なかはら
令 民部少丞藤原 知家事
中原
べっとう さきのいなばのかみなかはらあそん
別當 前因幡守中原朝臣
しもふさのかみみなもとのあそん
下総守源朝臣
参考@常陸國村田下庄は、茨城県筑西市村田、旧真壁郡明野町村田字下町。後に村田上中下は纏められ村田庄となり北条時政のものとなる。
参考A野木宮は、は、栃木県下都賀郡野木町大字野木に野木神社。
参考B彼の時、地頭職を補任する所は、あのときの勲功に募り地頭職を与えた。
この記事により二巻治承五年(1181)閏二月大廿日等の記事の配置の間違いが確かめられる。
現代語建久三年(1192)九月大十二日辛巳。小山左衛門尉朝政は、以前の手柄により褒美を与えられました。それは常陸国村田下庄(茨城県筑西市村田)です。そして今日、その政務事務所「政所」の命令書を戴きました。その内容は、
将軍家政務事務所「政所」が命令する 常陸国村田下庄〔下妻宮などです〕
地頭職に任命する事
小山左衛門尉朝政
右の事は、去る寿永二年(1183)に、志田三郎先生義広が謀反を表わして戦いを始めました。そしたら、小山朝政は一途に朝廷を守るため、一人で立ち上がって防ごうとしました。すぐに幕府の軍隊を待って一緒に引き連れて、その年の二月二十三日に、下野国(栃木県)野木神社(野木町)の辺りで戦闘をして、ずば抜けて手柄をたてました。それで、その時の褒美に地頭職に任命しました。荘園の管理者は、その辺りを良く承知して、遺漏のないようにとの命令するのはこのとおりです。
建久三年九月十二日 案主 藤井(新藤次俊長)
令 民部少丞藤原行政(二階堂) 知家事 中原(小中太光家)
別当(長官) 前因幡守中原朝臣(大江広元)
下総守源朝臣(邦業)
説明野木宮合戰は幻の寿永二年(1183)参照。
建久三年(1192)九月大十七日丙戌。來月一條黄門依可被參熊野山。白布五十端可調献之由。被仰遣佐々木中務丞經高。此上被送龍蹄二疋。今曉。雜色鶴次郎。御厩舎人仲太相具之上洛云々。 |
読下し らいげ ついちじょうこうもん くまのさん まいられ べ よつ
しらふ ごじったん ととの けん べ のよし
建久三年(1192)九月大十七日丙戌。來月、一條黄門、熊野山に參依る可きに依て、白布五十端を調へ献ず可し之由、
ささきのなかつかさのじょうつねたか おお つか
され こ うえ りゅうていにひき おくられ
佐々木中務丞經高に
仰せ遣は被る。此の上、龍蹄二疋を送被る。
こんぎょう ぞうしきつるたろう みんまやのとねり
ちゅうた これ あいぐ じょうらく うんぬん
今曉、雜色鶴次郎、御厩舎人
仲太 之を相具し上洛すと云々。
現代語建久三年(1192)九月大十七日丙戌。来月、中納言(黄門)一条能保が、熊野大社へお参りに行くので、白い絹の反物五十反を揃えて渡すように、佐々木中務丞次郎経高に命じられました。それに加えて、立派な馬二頭を送られました。
今朝の夜明けに、雑用の鶴次郎と、厩務員の仲太がこれを連れて京都へ上りましたとさ。
説明一条能保は、頼朝の姉の亭主でこの頃関東申し次をしていた。
建久三年(1192)九月大廿五日甲午。幕府官女〔号姫前〕今夜始渡于江間殿御亭。是比企藤内朝宗息女。當時權威無雙之女房也。殊相叶御意。又容顔太美麗云々。而江間殿。此一兩年。以耽色之志。頻雖被消息。敢無容用之處。 將軍家被聞食之。不可致離別之旨。取起請文。可行向之由。被仰件女房之間。乞取其状之後。定嫁娶之儀云々。 |
読下し ばくふ かんじょ 〔ひめのまえ ごう 〕 こんや えまどの おんていに
はじ わた
建久三年(1192)九月大廿五日甲午。幕府の官女〔姫前と号す〕今夜江間殿が御亭于始めて渡る。
これ ひきのつないともむね そくじょ とうじ けんいむそうのにょぼうなり こと ぎょい あいかな また ようがんはなは びれい
うんぬん
是、比企藤内朝宗が息女。當時權威無雙之女房也。殊に御意に相叶う。又、容顔太だ美麗と云々。
しか えまどの こ いちりょうねん
いろ ふけ のこころざし もつ しきり しょうそこされ いへど
あへ ようよう な のところ
而して江間殿、此の一兩年、色に耽る之志を以て、頻に消息被る@と雖も、敢て容用無き之處、
しょうぐんけ
これ き めされ りべついた べからずのむね きしょうもん と
ゆ むか べ のよし
將軍家之を聞こし食被、離別致す不可之旨、起請文を取り、行き向う可し之由、
くだん にょぼう おお られ のあん そ じょう こいと ののち かしゅの ぎ
さだ うんぬん
件の女房に仰せ被る之間、其の状を乞取る之後、嫁娶之儀を定むと云々。
参考@消息被るは、手紙を出す。
現代語建久三年(1192)九月大二十五日甲午。幕府の女官の「姫の前」が、今夜初めて江間義時の屋敷へ嫁ぎました。
この人は、比企藤内朝宗の娘で、比べる者の無い力の有る女官です。しかも容貌はとても美人なのでだそうです。それなので、義時はこの一二年、惚れてしまい、何度も手紙を送ったのですが、全然相手にされませんでした。
将軍頼朝様はこの話を聞いて、絶対離れることは無いとの誓の手紙を取って嫁に行くように、例の女官に言ってくれたので、その誓の手紙を請求し、受け取ったので、嫁になるように決めたんだそうです。