吾妻鏡入門第十二巻   

建久三年(1192)壬子十月大

建久三年(1192)十月大十五日甲寅。佐女牛若宮領土佐國吾河郡。京都大番役之外被停止公事。但件役猶爲別當季嚴〔惟光子廣元舎弟〕沙汰可催勤者。以其旨下知守護人中務丞經高云々。行政。盛時等奉行云々。

読下し               さめがいわかみや りょう  とさのくにあがわぐん  きょうとおばんやく の ほか   くじ   ちょうじされ
建久三年(1192)十月大十五日甲寅。佐女牛若宮@領の土佐國吾河郡A、京都大番役B之外は公事Cを停止被る。

ただ くだん  やく    なお べっとうすえみつ 〔これみつ こ   ひろもと  しゃてい〕     さた   な   もよお きん  べ  てへり
但し件の役は、猶、別當季嚴〔惟光が子、廣元の舎弟〕が沙汰と爲し催し勤ず可し者、

 そ  むね  もつ  しゅごにん なかつかさのじょうつねたか げち   うんぬん  ゆきまさ  もりときら ぶぎょう  うんぬん
其の旨を以て守護人D中務丞經高Eに 下知すと云々。行政、盛時等奉行すと云々。

参考@佐女牛若宮は、六条若宮で爲義の屋敷跡で神社になっている。
参考A土佐國吾河郡は、高知県吾川郡仁淀川町本村、旧吾川郡吾川村本村と思われる。
参考B京都大番役は、清盛が関東武士を靡かせる為に決めた制度で、手弁当で3年間京都の警護に当たる制度。三年とは承久の乱の際の政子の演説で分かる。これを頼朝は半年にし、時頼は三ヶ月にした。
参考C公事は、年貢税の米の他の副税で雑事役務をする。例は芥川龍之介の小説「いもがゆ」での芋を山ほど提出させたこと。
参考D守護人は、土佐の守護と分かる。守護の大犯三か条は、大番催促、謀反取締り、殺害取締り。泰時の頃には山賊、海賊、盗賊の取締りが追加される。
参考E中務丞經高は、佐々木次郎經高で
、旗揚げ時の佐々木四兄弟の次男。

現代語建久三年(1192)十月大十五日甲寅。六条佐女牛若宮の領地である土佐国吾川郡(高知県吾川郡仁淀川町)は、京都警備役の大番役以外の国衙などへの勤労奉仕を免除しました。
但し、その大番の役は、若宮筆頭の季厳〔惟光の子供で(大江)広元の弟〕の指示に従って勤めるようにとおっしゃいました。その内容で佐々木中務丞次郎経高に命じましたとさ。民部大夫藤原行政と平民部烝盛時が担当だそうです。

建久三年(1192)十月大十九日戊午。御臺所并新誕若公自名越濱御所入御幕府。北條五郎時連。里見冠者義成。新田藏人義兼。小山左衛門尉朝政。同七郎朝光。三浦左衛門尉義連。同兵衛尉義村。八田兵衛尉朝重。梶原左衛門尉景季。同兵衛尉景茂等供奉云々。

読下し               みだいどころなら   しんたん  わかぎみ なごえはま  ごしょ よ   ばくふ   にゅうぎょ
建久三年(1192)十月大十九日戊午。御臺所并びに新誕の若公、名越濱の御所自り幕府へ入御す。

ほうじょうのごろときつら さとみのかじゃよしなり  にったのくらんどよしかね  おやまのさえもんのじょうともまさ おなじきしちろうともみつ  みうらのさえもんのじょうよしつら
北條五郎時連、里見冠者義成、新田藏人義兼、 小山左衛門尉朝政、 同七郎朝光、 三浦左衛門尉義連、

おなじきひょうえのじょうよしむら はったのひょうのじょうともしげ かじわらのさえもんのじょうかげすえ おなじきひょうえのじょうかげもちら ぐぶ    うんぬん
 同兵衛尉義村、  八田兵衛尉朝重、 梶原左衛門尉景季、  同兵衛尉景茂等 供奉すと云々。

現代語建久三年(1192)十月大十九日戊午。御台所政子様と新しく生まれた若君(後の実朝)とが、名越の浜御所から幕府へ移られました。
北条五郎時連、里見冠者義成、新田蔵人義兼、小山左衛門尉朝政、小山七郎朝光、三浦左衛門尉義連、三浦平六兵衛尉義村、八田兵衛尉知重、梶原源太左衛門尉景季、梶原三郎兵衛尉景茂等がお供をしましたとさ。

建久三年(1192)十月大廿五日甲子。二階堂被立惣門云々。

読下し               にかいどう  そうもん  た   られ   うんぬん
建久三年(1192)十月大廿五日甲子。二階堂@の惣門Aを立て被ると云々。

参考@二階堂は、永福寺。神奈川県鎌倉市二階堂216。
参考A総門は鎌倉宮脇の字四つ石のあたりとの説もある。

現代語建久三年(1192)十月大二十五日甲子。二階堂永福寺の総門を建てられましたとさ。

建久三年(1192)十月大廿九日戊辰。永福寺扉并佛後壁畫圖終功。修理少進季長畫之。是被摸秀衡建立圓隆寺。至于畫圖。一事已上如彼云々。

読下し               ようふくじ  とびら なら  ほとけ うしろかべ しょが こう  おえ    しゅりのしょうしんすえなが これ えが
建久三年(1192)十月大廿九日戊辰。永福寺@の扉并びに佛の後壁の畫圖功を終る。 修理少進季長 之を畫く。

これ  ひでひら こんりゅう えんりゅうじ  も され    しょが に いた        いちじ いじょう か   ごと    うんぬん
是、秀衡が建立の圓隆寺Aを摸被る。畫圖于至りては、一事已上彼の如しBと云々。

参考@永福寺は、頼朝が平泉中尊寺毛越寺を模倣し神奈川県鎌倉市二階堂216に建立した寺院。廃寺。その見かけが二階建てに見えたので「二階堂」と呼ばれ、それが地名となり、その地に住んだ藤原行政の子孫が「二階堂氏」となった。
参考A圓隆寺は、毛越寺の金堂。
参考B一事已上彼の如しは、全て毛越寺のようになった。

現代語建久三年(1192)十月大二十九日戊辰。永福寺の扉と仏壇の後ろの壁の絵描きが終わりました。修理少進季長がこれを描きました。
この寺は、藤原秀衡が建立した円隆寺(毛越寺金堂)を真似ました。絵については、全て毛越寺のようになりましたとさ。

建久三年(1192)十月大卅日己巳。南風烈。亥剋。武者所宗親濱家燒亡。宗親折節在他所。見煙向走。欲取出箏之間。燒左方鬚云々。唐國大宗之鬚施賜藥之仁。和朝宗親之鬚顯惜絃之志。所燒雖同。所用相異者歟。

読下し             みなみかぜはげし いのこく むしゃどころむねちか はま いえしょうぼう
建久三年(1192)十月大卅日己巳。 南風 烈。亥剋。武者所宗親@が濱の家燒亡す。

むねちか おりふし たしょ  あ     けむり み   むか  はし    そう  と   い         ほつ  のかん  さほう  びん  や     うんぬん
宗親、折節他所に在り。煙を見て向い走り、箏Aを取り出ださんと欲す之間、左方の鬚を燒くと云々。

とうのくにたいそうのびん  くすり たま     のじん  ほどこ   わちょう  むねちかのびん   げん  おし のこころざし あらは
唐國大宗B之鬚は、藥を賜はる之仁に施しC、和朝の宗親之鬚は、絃を惜む之志を顯す。

や  ところおな   いへど   もち    ところ あいことな ものか
燒く所同じと雖も、用うる所は相異る者歟。

参考@武者所宗親は、牧三郎宗親で北條時政の後妻牧の方の兄。
参考Aは、琴。
参考
B
大宗は唐朝の第2皇帝世民(せいみん)。高祖李淵の次男で、李淵と共に唐の創建者とされる。末の混乱期に李淵と共に太原で挙兵し、長安を都と定めて唐を建国した。太宗は主に軍を率いて各地を転戦して群雄を平定し、626にクーデターの玄武門の変にて皇太子の李建成を打倒して皇帝に即位し、群雄勢力を平定して天下を統一した。ウイキペディアから
参考C唐國大宗之鬚は、藥を賜はる之仁に施しは、李勣がかつて病気になった時、「髭の灰が良く効く。」と聞いた太宗は、自らの髭を切って煎じて薬を調合した。ウイキペディアから

現代語建久三年(1192)十月大三十日己巳。南風が激しいのです。午後十時頃に、牧武者所三郎宗親の浜の家が燃えてしまいました。牧宗親は、ちょうどよそに行っていて、この煙を見て走って帰り、琴を取り出そうとして、左の頬の毛を焼いてしまったそうです。
中国の大宗の頬の毛は、薬をくれた人に義理を施し、日本の牧三郎宗親の頬の毛は、琴の弦を惜しんだ証拠を表わしています。同じところを焼いたとは言え、目的は全く違いました。

説明後の二行は唐の逸話。書いた人が教養をひけらかしている。金沢流貞顯の匂いがする。

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