吾妻鏡入門第十三巻   

建久四年(1193)癸丑三月小

建久四年(1193)三月小一日戊辰。若公万壽於由比浦射小笠懸給。結城七郎朝光奉扶持之。

読下し             わかぎみまんじゅ  ゆいのうら  をい  こがさかけ  いたま    ゆうきのしちろうともみつ これ  ふち  たてまつ
建久四年(1193)三月小一日戊辰。若公万壽、由比浦@に於て小笠懸Aを射給ふ。結城七郎朝光 之を扶持し奉る。

参考@由比浦は、鎌倉市由比ガ浜2丁目3地先の発掘された大鳥居跡の辺りまで浦が入っていたものと思われる。
参考A小笠懸は、笠懸は弓手の藁笠を射るが、小笠懸は馬手側(右側)の足元に置いた笠を射る。

現代語建久四年(1193)三月小一日戊辰。若君の万寿丸様(後の頼家)が、油井の浦で、右手下に置いた笠を射る「小笠懸」をしました。
結城七郎朝光がお手伝いをしました。

建久四年(1193)三月小二日己巳。東大寺造營料米事。殊可致精誠沙汰之旨。被仰周防國地頭云々。

読下し              とうだいじぞうえいりょうまい  こと  こと  せいせい  さた  いた  べ   のむね
建久四年(1193)三月小二日己巳。東大寺造營料米@の事、殊に精誠の沙汰を致す可き之旨、

すおうのくに  ぢとう  おお  られ   うんぬん
周防國の地頭に仰せ被ると云々。

参考@造營料米は、東大寺再建用の一種の目的税。

現代語建久四年(1193)三月小二日己巳。東大寺建設の人夫の食料用に使う年貢米について、特にきちんと処理するようにとの命令を、周防国の地頭に通知させましたとさ。

建久四年(1193)三月小三日庚午。鶴岡法會。將軍家御參。舞樂如例。但當宮別當供僧等門弟并御家人子息等。爲舞童也。

読下し              つるがおあかほうえ しょうぐんけ ぎょさん   ぶがく れい  ごと
建久四年(1193)三月小三日庚午。 鶴岡法會。 將軍家御參す。舞樂例の如し。

ただ  とうぐうべっとう ぐそうら   もんていなら    ごけにん     しそくら    ぶどう   な   なり
但し當宮別當供僧等が門弟并びに御家人の子息等、舞童を爲す@也。

参考@御家人の子息等、舞童を爲すは、二月七日から練習させていた。

現代語建久四年(1193)三月小三日庚午。鶴岡八幡宮で上巳の節句の法要です。将軍頼朝様はお参りしました。
奉納の舞楽は予定通りです。但し今回は、先月七日から練習させていた八幡宮の長官・お供の坊さん達の弟子や御家人の子供達が踊りの役をしました。

建久四年(1193)三月小四日辛未。來十三日。法皇御周闋也。仍被供養千僧之間。臨當日各可參上之由。被觸仰寺々云々。俊兼奉行之。
 若宮  勝長壽院 永福寺 伊豆山
 筥根山 高麗寺  大山寺 觀音寺

読下し              きた  じうさんにち  ほうおう  ごしゅうけつなり
建久四年(1193)三月小四日辛未。來る十三日。法皇の御周闋也。

よつ  せんぞう  くようされ   のかん  とうじつ  のぞ おのおの さんじょうすべ のよし  てらでら ふ   おお  られ    うんぬん  としかねこれ ぶぎょう
仍て千僧を供養@被る之間、當日に臨み 各、 參上可き之由、寺々に觸れ仰せ被ると云々。俊兼之を奉行す。

  わかみや   しょうちょうじゅいん  ようふくじ   いずさん
 若宮A  勝長壽院B 永福寺C 伊豆山D

  はこねやま   こまでら       だいせんじ  かんのんじ
 筥根山E 高麗寺F  大山寺G 觀音寺H

参考@千僧を供養は、千人の坊さんにお経を上げさせる。
参考A
若宮は、鎌倉市雪ノ下二丁目1鶴岡八幡宮。
参考B勝長壽院は、鎌倉市雪ノ下四丁目20廃寺。
参考C永福寺は、鎌倉市二階堂216廃寺。
参考D伊豆山は、静岡県熱海市の走湯神社
参考E
筥根山は、神奈川県足柄下郡箱根町の箱根神社
参考F高麗寺は、中郡大磯町高麗2丁目9高来神社の別当寺だったが廃寺。
参考G大山寺
は、伊勢原市大山の阿夫利神社、神仏分離後雨降山大山寺と分かれた。
参考H觀音寺は、平塚市南金目896光明寺金目觀音。

現代語建久四年(1193)三月小四日辛未。今度の十三日は、後白河法皇の一周忌です。
そこで、千人の坊さんによる法要をするので、その日のためにそれぞれ鎌倉御所へ参加するように、寺々に知らせさせましたとさ。筑後権守俊兼がこの担当です。

 鶴岡八幡宮  勝長寿院 永福寺 伊豆山走湯権現
 箱根権現神社 高麗寺(来神社)大山寺(阿夫利神社) 金目観音

建久四年(1193)三月小九日丙子。那須太郎光助@拝領下野國北條内一村。是來月於那須野可有御野遊之間。爲其經營被宛行之云々。

読下し              なすのたろうすけみつ  しもつけのくにほうじょうない いっそん はいりょう
建久四年(1193)三月小九日丙子。那須太郎助光、下野國 北條内Aの一村を拝領す。

これ  らいげつ なすの   をい  おんのゆう あ   べ   のかん  そ   けいえい な   これ あておこなはれ  うんぬん
是、來月那須野に於て御野遊有る可し之間、其の經營と爲し之を宛行被ると云々。

参考@那須太郎光助は、資光。
参考A下野國北條内は、栃木県那須郡内。

現代語建久四年(1193)三月小九日丙子。那須太郎助光が、下野国の那須郡内北条の内の一村を与えられました。
これは、来月那須野で狩猟のお遊びをなさるので、その費用のために与えられたんだとさ。

説明那須の惣領家は平家方だった。氏資┬
                □□
├宗隆(与一)
□               □□└頼資─資光

建久四年(1193)三月小十二日己夘。江間殿自伊豆國被歸參。此間依病氣在國云々。

読下し                えまどの  いずのくに よ   きさん さる   こ   かん びょうき  よつ  ざいこく    うんぬん
建久四年(1193)三月小十二日己夘。江間殿伊豆國自り歸參被る。此の間病氣@に依て在國すと云々。

参考@病氣は、脚気らしい。江戸時代にも江戸病と呼ばれ、国許へ帰ると治った。国許では玄米を食べるかららしい。

現代語建久四年(1193)三月小十二日己卯。江間殿北条義時が伊豆国から戻られました。先日来病気のために国許におられたのだそうな。

建久四年(1193)三月小十三日庚辰。迎舊院御一廻忌辰。被修御佛事。千僧供養也。御布施。口別白布二端。藍摺一端。象(原文鹿于章)牙一袋也。武藏守義信爲行事。其儀。被定宿老僧千人。所爲頭也。仍各相具百僧。點便宜道塲。爲沙汰饗祿等。毎百口被相副二人奉行云々。
 一方頭〔百僧從之〕
  若宮別當法眼
   奉行
   大和守重廣    大夫屬入道善信
 一方頭〔百僧從之〕
  法橋行慈
   奉行
   主計充行政    堀藤太
 一方頭〔百僧從之〕
  法眼慈仁
   奉行
   筑後守俊兼    廣田二郎
 一方頭〔百僧從之〕
  法橋嚴耀
   奉行
   法橋昌寛     中四郎惟重
 一方頭〔百僧從之〕
   法橋宣豪
   奉行
   民部丞盛時    小中太光家
 一方頭〔百僧從之〕
  密藏房賢
   奉行
   左近將監能直   前武者所家經
 一方頭〔百僧從之〕
  阿闍梨行實
   奉行
   藤判官代邦通   九郎藤次
 一方頭〔百僧從之〕
  阿闍梨義慶
   奉行
   比企藤内朝宗   玄番助成長
 一方頭〔百僧從之〕
  阿闍梨求佛
   奉行
   足立左衛門尉遠元 法橋成尋
 一方頭〔百僧從之〕
  阿闍梨專光
   奉行
   善隼人佑康C   前右馬允家長

読下し               きゅういん  ごいっかい  きしん  むか    おんぶつじ  しゅうされ   せんぞうくようなり
建久四年(1193)三月小十三日庚辰。舊院の御一廻の忌辰@を迎へ、御佛事を修被る。千僧供養也。

 おんふせ    くべつ  しらふ にたん   あいずり いったん  しょうげ ひとふくろなり  むさしのかみよしのぶ ぎょうじ な
御布施は、口別に白布二端、 藍摺一端、 象牙A一袋也。 武藏守義信 行事と爲す。

 そ  ぎ   すくろう  そうせんにん  さだ  られ  とう  な ところなり

其の儀、宿老の僧千人を定め被、頭を爲す所也。

よつ おのおの ひゃくそう あいぐ    びんぎ   どうじょう てんきょうろくら   さた    ため
仍て 各、百僧を相具し、便宜の道塲を點じ、饗祿B等を沙汰せん爲、

ひゃっくごと  ふたり  ぶぎょう  あいそ   らる    うんぬん
百口毎に二人の奉行Cを相副へ被ると云々。

参考@舊院の御一廻の忌辰は、後白河法皇の一周忌。
参考A象牙は、白米。
参考B饗祿は、接待。
参考C二人の奉行は、文武両人でやる。

  いっぽう  とう 〔 ひゃくそうこれ したが 〕
 一方の頭〔百僧之に從う〕

    わかみやべっとうほうげん
  若宮別當法眼

      ぶぎょう
   奉行

      やまとのかみしげひろ       たいふさかんにゅうどうぜんしん
   大和守重廣    大夫屬入道善信

  いっぽう  とう 〔 ひゃくそうこれ したが 〕
 一方の頭〔百僧之に從う〕

    ほっきょうぎょうじ
  法橋行慈

      ぶぎょう
   奉行

      かぞえのじょうゆきまさ      ほりのとうた
   主計充行政    堀藤太

  いっぽう  とう 〔 ひゃくそうこれ したが 〕
 一方の頭〔百僧之に從う〕

    ほうげん じじん
  法眼慈仁

      ぶぎょう
   奉行

      ちくごのかみとしかね       ひろたのじろう
   筑後守俊兼    廣田二郎

  いっぽう  とう 〔 ひゃくそうこれ したが 〕
 一方の頭〔百僧之に從う〕

    ほっきょう げんき
  法橋嚴耀

      ぶぎょう
   奉行

      ほっきょうしょうかん         なかのしろうこれしげ
   法橋昌寛     中四郎惟重

  いっぽう  とう 〔 ひゃくそうこれ したが 〕
 一方の頭〔百僧之に從う〕

    ほっきょうせんごう
  法橋宣豪

      ぶぎょう
   奉行

      みんぶのじょうもりとき       こちゅうたみついえ
   民部丞盛時    小中太光家

  いっぽう  とう 〔 ひゃくそうこれ したが 〕
 一方の頭〔百僧之に從う〕

    みつぞうそうけん
  密藏房賢

      ぶぎょう
   奉行

      さこんしょうげんよしなお      さきのむしゃどころいえつね
   左近將監能直   前武者所家經

  いっぽう  とう 〔 ひゃくそうこれ したが 〕
 一方の頭〔百僧之に從う〕

    あじゃりぎょうじつ
  阿闍梨行實

      ぶぎょう
   奉行

      とうのはおうがんだいくにみち   くろうとうじ
   藤判官代邦通   九郎藤次

  いっぽう  とう 〔 ひゃくそうこれ したが 〕
 一方の頭〔百僧之に從う〕

    あじゃり ぎけい
  阿闍梨義慶

      ぶぎょう
   奉行

      ひきのとうないともむね       げんばのすけなりなが
   比企藤内朝宗   玄番助成長

  いっぽう  とう 〔 ひゃくそうこれ したが 〕
 一方の頭〔百僧之に從う〕

     あじゃり ぐぶつ
  阿闍梨求佛

      ぶぎょう
   奉行

      あだちのさえもんのじょうとおもと  ほっきょうじょうじん
   足立左衛門尉遠元  法橋成尋

  いっぽう  とう 〔 ひゃくそうこれ したが 〕
 一方の頭〔百僧之に從う〕

     あじゃり せんこう
  阿闍梨專光

      ぶぎょう
   奉行

      ぜんのはやとのすけやすきよ  さきのうまのじょういえなが
   善隼人佑康C   前右馬允家長

現代語建久四年(1193)三月小十三日庚辰。後白河法皇の一周忌を迎えたので、法事を行いました。千人の坊さんがお経を上げるのです。布施は、一人づつに白い布一反、藍色に染めた布一反、米一袋です。武蔵守大内義信が仕切りました。
この式典のため、長老の坊さん千人を決めて、指導者(リーダー)も決めました。それで、それぞれが百人の坊さんをつれて、ちょうど良い仏教道場を指定して、接待や布施の手配をするために、百人ごとに二人の担当者を付けられたそうです。

 一組の僧〔百人の坊さんが従います〕 若宮別当法眼円暁  担当は、大和守山田重弘 と 大夫属入道三善善信
 一組の僧〔百人の坊さんが従います〕 法橋行慈      担当は、主計允藤原行政 と 掘藤太
 一組の僧〔百人の坊さんが従います〕 法眼慈仁      担当は、筑後権守俊兼  と 広田次郎邦房
 一組の僧〔百人の坊さんが従います〕 法橋厳耀      担当は、法橋一品房昌寛 と 中四郎惟重
 一組の僧〔百人の坊さんが従います〕 法橋宣豪      担当は、平民部烝盛時  と 小中太光家
 一組の僧〔百人の坊さんが従います〕 密蔵房賢      担当は、大友左近将監能直と 前武者所家経
 一組の僧〔百人の坊さんが従います〕 阿闍梨行実     担当は、大和判官代邦道 と 九郎藤次
 一組の僧〔百人の坊さんが従います〕 阿闍梨義慶     担当は、比企藤内朝宗  と 勝田玄番助成長
 一組の僧〔百人の坊さんが従います〕 阿闍梨求仏     担当は、足立左衛門尉遠元と 法橋義勝房成尋
 一組の僧〔百人の坊さんが従います〕 阿闍梨専光     担当は、隼人佑三善康清 と 中条前右馬允家長

建久四年(1193)三月小十四日辛巳。東大寺修造事。文學上人知行幡磨國。可令奉行之由。將軍家計申給云々。是則其功未訖之故也。

読下し               とうだいじしゅうぞう  こと  もんがくしょうにん はりまのくに  ちぎょう   ぶぎょうせし  べ   のよし
建久四年(1193)三月小十四日辛巳。東大寺修造の事、 文學上人 幡磨國を知行し、奉行令む可し之由、

しょうぐんけ はから もう  たま   うんぬん  これ すなは そ  こう いま  をはら   のゆえなり
將軍家 計ひ申し給ふと云々。是、則ち其の功@未だ訖ざる之故也。

参考@其の功は、その工事。

現代語建久四年(1193)三月小十四日辛巳。東大寺の修理について、門覚上人が播磨の国を管理し、その年貢を修理に当てるために支配するように、将軍家頼朝様が配慮して命じられました。これは、その工事が未だにはかどらないからです。

建久四年(1193)三月小十五日壬午。近日依可有那須野御狩。所被搆藍澤之屋形等。以宿次人夫。壞渡下野國云々。

読下し               きんじつ   なすの   おんかり あ  べ    よつ    あいざわ の やかた ら  かま  られ  ところ
建久四年(1193)三月小十五日壬午。近日、那須野の御狩有る可きに依て、藍澤@之屋形等を搆へ被る所、

すくじ  にんぷ   もつ   しもつけのくに こぼ  わた   うんぬん
宿次の人夫を以て、下野國に壞ち渡すAと云々。

参考@藍澤は、御殿場市新橋鮎沢。
参考A壞ち渡すは、当時の建築は組み立て式で釘を使っていないので、ばらして持って行く。

現代語建久四年(1193)三月小十五日壬午。近いうちに、那須野原で巻狩をしたいので、御殿場の鮎沢に舘を構えているのを、宿場の人足達を使って、下野(栃木県)へ分解して運ばせましたとさ。

建久四年(1193)三月小十六日癸未。平家与黨越中二郎兵衛尉盛継已下隱居近國之由有風聞。早可追討之由。被仰兵衛尉基C云々。

読下し               へいけ よとう  えっちゅうのじろうひょうえのじょうもりつぐ いげ きんごく  いんきょ のよし  ふうぶん あ
建久四年(1193)三月小十六日癸未。平家与黨の 越中二郎兵衛尉盛継@已下近國に隱居A之由、風聞有り。

はやばや ついとうすべ  のよし  ひょうえのじょうもちきよ  おお  らる    うんぬん
早〃と追討可し之由、 兵衛尉基Cに 仰せ被ると云々。

参考@越中二郎兵衛尉盛継は、平で後に平家の十二將と云われる。
参考A隱居は、隠れ住む。

現代語建久四年(1193)三月小十六日癸未。平家の残党の越中次郎兵衛尉盛継を始め、京都の近国に隠れていると噂が流れて来ました。
早く征伐するようにと後藤新兵衛尉基清に命令を出されましたとさ。

建久四年(1193)三月小廿一日戊子。舊院御一廻之程者。諸國被禁狩獵。日數已馳過訖。仍將軍家爲覽下野國那須野。信濃國三原等狩倉。今日進發給。自去比所被召聚馴狩獵之輩也。其中令達弓馬。又無御隔心之族。被撰二十二人。各令帶弓箭。其外縱雖及万騎。不帶弓箭。可爲踏馬衆之由被定云々。
所謂廿二人者。
 江間四郎   武田五郎  加々美二郎  里見太郎
 小山七郎   下河邊庄司 三浦左衛門尉 和田左衛門尉
 千葉小太郎  榛谷四郎  諏方大夫   藤澤二郎
 佐々木三郎  澁谷二郎  葛西兵衛尉  望月太郎
 梶原左衛門尉 工藤小二郎 新田四郎   狩野介
 宇佐美三郎  土屋兵衛尉

読下し               きゅういん ごいっかいのほどは   しょこく  しゅりょう  きん  らる    ひかず すで  は  す をはんぬ
建久四年(1193)三月小廿一日戊子。 舊院 御一廻之程者、諸國の狩獵を禁じ@被る。日數已に馳せ過ぎ訖A

よつ  しょうぐんけ しもつけのくに  なすの  しなののくに みはら ら   かりくら   みんため  きょう しんぱつ  たま
仍て將軍家、下野國 那須野、信濃國三原B等の狩倉を覽爲、今日進發し給ふ。

さんぬ ころ よ しゅりょう  なじ  のやから  め   あつ  らる ところなり
去る比自り狩獵に馴む之輩を召し聚め被る所也。

 そ  うちきゅうば  たつ  せし   また  ごかくしん な  のやから  にじうににん えらばれ  おのおの きゅうせん おびせし
其の中弓馬に達さ令め、又、御隔心無き之族、廿二人を撰被れ、 各、 弓箭を帶令む。

そ  ほか たと  まんき   およ    いへど  きゅうせん おびず  とうばしゅう  な   べ   のよし さだ  らる    うんぬん
其の外縱い万騎に及ぶと雖も、弓箭を不帶、踏馬衆Cを爲す可き之由定め被ると云々。

参考@狩獵を禁じは、一周忌までの間は殺生を禁じる。
参考A
馳せ過ぎ訖は、もう過ぎ去ったので。
参考B信濃國三原は、長野県須坂市。
参考C
踏馬衆は、勢子。

いはゆる  にじうににんは
所謂、廿二人者、

  えまのしろう          たけだのごろう        かがみのじろう        さとみのたろう
 江間四郎    武田五郎    加々美二郎   里見太郎

  おやまのしちろう       しもこうべのしょうじ      みうらのさえもんのじょう   わだのさえもんのじょう
 小山七郎    下河邊庄司   三浦左衛門尉  和田左衛門尉

  ちばのこたろう        はんがやつのしろう      すはのたいふ        ふじさわのじろう
 千葉小太郎   榛谷四郎    諏方大夫    藤澤二郎

  ささきのさぶろう        しぶやのじろう         かさいのひょうえのじょう  もちづきのたろう
 佐々木三郎   澁谷二郎    葛西兵衛尉   望月太郎

  かじわらのさえもんのじょう  くどうのこじろう         にたんのしろう        かのうのすけ
 梶原左衛門尉  工藤小二郎   新田四郎    狩野介

  うさみのさぶろう        つちやのひょうえのじょう
 宇佐美三郎   土屋兵衛尉

現代語建久四年(1193)三月小二十一日戊子。後白河法皇の一周忌までは、諸国で殺生の狩猟を禁止していました。その日にちも既に過ぎ去りました。そこで、将軍頼朝様は、下野国(栃木県)那須野の獲物の様子を見るために、信濃国三原(長野県須坂市)の狩猟場へ今日出発しました。
これは、普段から狩猟に馴染んでいる連中を呼び集めるためなのです。そのうち、乗馬弓に達者で、腹心の者達二十二人を選考して、それぞれ弓箭を携帯させました。その他の御家人達は、たとえ一万騎も集ってはいても、弓箭を携帯しないで、馬の足踏みで地面を揺さぶり獲物を追い立てる役をするようにきめられましたとさ。その二十二人は、

 江間四郎北条義時   武田五郎信光  加々美二郎長清  里見太郎義成
 小山七郎朝光     下河辺庄司行平 三浦左衛門尉義連 和田左衛門尉義盛
 千葉小太郎成胤    榛谷四郎重朝  諏方大夫盛澄   藤沢二郎清親
 佐々木三郎盛綱    渋谷次郎高重  葛西兵衛尉清重  望月太郎重義
 梶原源太左衛門尉景季 工藤小次郎行光 新田四郎忠常   狩野介宗茂
 宇佐美三郎助茂    土屋兵衛尉義清

参考この巻狩旅行は、延々と4月28日まで場所を変えて続く。細川重男先生によると、小代氏の置文に頼朝が大倉宿で「小代八郎は来てるか」との質問に景時が「氏寺開眼供養で遅くなる」というと頼朝は「八郎の近所の連中は供養に出てからくるように」と気遣ってあげたとあるそうな(細川重男著「頼朝の武士団」朝日新書P208)。

建久四年(1193)三月小廿五日壬辰。於武藏國入間野有追鳥狩。藤澤二郎C親施百發百中之藝。揚獲雉〔五〕獲鵙(原作倉于鳥)〔廿五〕之名。將軍家御感之餘。所駕給之御馬〔号一郎〕自令引之給。是曩祖將軍征貞任給之後春有野遊。C原武則以一箭獲兩翼。于時將軍自引馬給云々。被思食其例歟。彼賈氏如皐和婦女之情。此C親於野預主人之感。弓馬之眉目。射鳥之興遊。焉而極耳。

読下し               むさしのくにいるまの   をい  おっとりがり あ   ふじさわのじろうきよちか ひゃっぱつひゃくちゅうのげい ほどこ
建久四年(1193)三月小廿五日壬辰。武藏國入間野に於て追鳥狩@有り。藤澤二郎C親 百發百中之藝を 施す。

きじ 〔 ご 〕   え まなづる〔にじうご〕    え   これみょう あ
〔五〕を獲、鶬〔廿五〕を獲、之名を揚ぐ。

しょうぐんけ ぎょかんのあま   が   たま  ところのおんうま 〔 いちろう  ごう   〕 みづか これ ひ   せし  たま
將軍家御感之餘り、駕し給ふ所之御馬〔一郎と号す〕自ら之を引か令め給ふ。

これ  のうそしょうぐん さだとう せい  たま  ののち はる  のあそ   あ   きよはらたけのり ひとや  もっ  りょうよく  え
是、曩祖將軍貞任を征し給ふ之後春に野遊び有り。C原武則一箭を以て兩翼を獲る。

ときに しょうぐん みづか うま  ひ   たま    うんぬん  そ  れい  おぼ  め され  か
時于將軍、自ら馬を引き給ふと云々。其の例を思し食被る歟。

か    かし   こう  ゆ     ふじょのなさけ  わ     こ  きよちか の をい   しゅじんのかん  あず
彼の賈氏A、皐に如きて婦女之情に和し、此のC親野に於て主人之感に預かる。

きゅうばの びもく   とり  い  のきょうゆう   ここ   て  きは          み
弓馬之眉目、鳥を射る之興遊、焉にし而極まらまくの耳。

参考@追鳥狩は、林から追い出し撃つ。
参考A
賈氏は、唐の詩人。
賈島で検索してください。

現代語建久四年(1193)三月小二十五日壬辰。武蔵国入間野(埼玉県入間市)で、鳥を林から追い出して射る「追鳥狩」がありました。藤沢二郎清親が百発百中の腕を披露しました。雉を五羽、鶬(まなづる)を二十五羽も捕って、名人の名をあげました。
将軍頼朝様は、感心の余り、乗っていた馬〔一郎と呼びます〕をご自分の手で引いて引き出物に与えました。
これは、ご先祖様の将軍源頼義が安陪貞任を征伐した後、春の野遊びがありました。清原武則が一本の矢で二羽の翼を射捕りました。その時、将軍頼義は自ら馬の轡(くつわ)を取り、引き出物にしたそうです。その例を思い出されたのでしょうか。
かの中国の
賈氏(かし)は皐(こう)へ行って女性の情けに預かり、この藤沢清親は野原で主人のお褒めに預かりました。
馬上弓の手柄は、鳥を射て遊べば、是が究極の腕なんだとさ。

四月へ

    

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