建久四年(1193)癸丑九月大
建久四年(1193)九月大一日甲子。多氣義幹所領所職重賜資幹云々。 |
読下し たけのよしもと
しょりょうしょしき かさ すけもと たま うんぬん
建久四年(1193)九月大一日甲子。多氣義幹@が所領所職Aを重ねてB資幹Cに賜はると云々。
参考@多氣義幹は、常陸大掾氏の分家で、茨城県つくば市北条(筑波地区)。
参考A所領所職は、所領の年貢現地徴収権を持つ預所とか地頭と言うのは、預所職(あずかりどころしき)とか地頭職(じとうしき)と云う職である。
参考B重ねては、建久四年(1193)六月小廿二日に一度賜っているので、先のは宛行状(あてがいじょう)で、今度のが安堵状だと思われる。
参考C資幹は、馬塲小次郎資幹で、常総市馬場。義幹とは同族。
現代語建久四年(1193)九月大一日甲子。多気義幹から取上げた所領とその地頭職を馬場小次郎資幹にお与えになられましたとさ。
建久四年(1193)九月大七日庚子。故法皇御舊跡宣陽門院當時無人也。群盜已下狼藉。尤可有怖畏之由。前黄門内々依被歎申。日來有其沙汰。相催畿内近國御家人等。可差進宿直之旨。被仰含經高。盛綱。基C等云々。 |
読下し こほうおう ごきゅうせきせんようもんいん とうじ
むじんなり
建久四年(1193)九月大七日庚子。故法皇が御舊跡宣陽門院@は當時無人也。
ぐんとう いか
ろうぜき もつと ふい あ べ のよし さきのこうもん
ないない なげ もうされ よつ ひごろ そ さた あ
群盜已下の狼藉、尤も怖畏有る可し之由、前黄門
内々に歎き申被るに依て、日來其の沙汰有り。
きない
きんごく ごけにん ら あいもよお とのい さ しん べ のむね つねたか もりつな もときよら おお
ふく られ うんぬん
畿内近國A御家人等を相催し、宿直を差し進ず可し之旨、經高、盛綱、基C等に仰せ含め被ると云々。
参考A畿内近國は、畿内が山城、大和、摂津、河内を指し、近国は、延喜式では伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、近江、美濃、若狭、丹波、丹後、但馬、因幡、播磨、美作、備前、紀伊、淡路の一七国を指す。しかし、此処では京都の近所くらいであろう。
現代語建久四年(1193)九月大七日庚子。亡くなられた後白河法皇のお屋敷の宣陽門院は、現在無住なのです。空き家を住処にする強盗団達の仕業がとても心配だと、前中納言一条能保がこぼしてきているので、その処分について会議をもたれました。
関西の御家人に言いつけて、留守番をさせるようにと、佐々木経高、佐々木盛綱、後藤基清に言いつけられましたとさ。
説明經高、盛綱、基Cは、三人共に在京御家人と思われるので、手紙か伝令が出ていると思われる。
建久四年(1193)九月大十一日甲戌。江間殿嫡男童形此間在江間。昨日參着。去七日夘剋。於伊豆國。射獲小鹿一頭。則令相具之。今日參入。嚴閤備箭祭餠。被申子細之間。將軍家出御于西侍之上。々総介。伊豆守以下數輩列候。先供十字。將軍家召小山左衛門尉朝政賜一口。朝政蹲踞御前。三度食之。初口發叫聲。第二三度不然。次召三浦十郎左衛門尉義連賜二口。三度食之。毎度發聲。三口事頗有思食煩之氣。小時召諏方祝盛澄殊遲參之。然而賜三口。三度食之。不發聲。凡含十字之躰。及三口之礼。各所傳用。皆有差別。珍重之由。蒙御感之仰。其後勸盃數献云々。 |
読下し えまどの ちゃくなん どうぎょう
こ かん えま あ きのう さんちゃく
建久四年(1193)九月大十一日甲戌。江間殿が嫡男の童形@、此の間江間に在り、昨日參着す。
さんぬ なのかうのこく いずのくに をい こじか いっとう い え すなは これ あいぐ
せし きょう さんにゅう
去る七日夘剋、伊豆國に於て、小鹿一頭を射獲る。則ち之を相具令め、今日參入す。
げんこう やまつり もち
そな しさい もうされ のかん しょうぐんけ にしのさむらい
のかみにしゅつご かずさのすけ いずのかみ いか すうやかられつ そうら
嚴閤A箭祭Bの餠を備へ、子細を申被る之間、將軍家 西侍
之上于出御す。々総介、 伊豆守以下數輩列し候う。
ま
じうじ そな しょうぐんけ おやまのさえもんのじょうともまさ め ひとくち
たま
先ず十字Cを供う。將軍家、小山左衛門尉朝政を召し一口を賜ふ。
ともまさ ごぜん
そんきょ みたび これ く しょこう さけびごえ はつ だいにさんど しからず
朝政御前に蹲踞し、三度之を食ひ、初口に叫聲を發し、第二三度不然。
つぎ みうらのじうろうさえもんのじょうよしつら
め ふたくち たま さんど これ く まいど こえ はつ
次に三浦十郎左衛門尉義連を召し二口を賜ふ。三度之を食い、毎度聲を發す。
みくち
こと すこぶ おぼ め わずら の け あ しばらく すわのはふりもりずみ め こと
これ ちさん
三口の事、頗る思し食し煩ふ之氣有り。小時して諏方祝盛澄を召すが殊に之を遲參すD。
しかして みくち たま さんど これ く こえ はっせず
およ じうじ ふく のてい みくちのれい およ
然而、三口を賜ふ。三度之を食い、聲を不發。凡そ十字を含む之躰、三口之礼に及ぶ。
おのおの つた もち ところ みなさべつ あ ちんじゅうのよし ぎょかんのおお こうむ そ ご けんぱいすうこん
うんぬん
各、
傳へ用いる所、皆差別有り。珍重之由、御感之仰せを蒙る。其の後、勸盃數献と云々。
参考@嫡男の童形は、金剛で後の泰時で寿永二年生まれ11歳。
参考A嚴閤は、義時。
参考B箭祭は、矢口祭。狩で初矢が当ると山ノ神に餅を捧げる。
参考C十字は、饅頭。
参考D殊に之を遲參すは、前の二人の声を聞かないように遅く来らせた。
現代語建久四年(1193)九月大十一日甲戌。江間殿(北条義時)の跡取り息子の子供(泰時)は、先日来伊豆の江間に居たのですが、昨日鎌倉へ戻りました。先日の七日の午前六時頃、伊豆の国で小鹿一頭を射止めました。すぐにこれを持って、今日御所へ参りました。
義時様が矢口祭りの餅を供えて、詳しい話をしていると将軍頼朝様が、西の侍だまり(出仕の侍の控え)へ顔を出されました。上総介足利義兼や伊豆守山名義範を始めとする御家人が並んで従いました。まず蒸かし饅頭を供えました。
将軍頼朝様は、小山左衛門尉朝政を呼ばれて始めの一の口役を与えました。
小山朝政は、頼朝様の前に蹲踞して三回これを食べて、一度目に叫び声を上げ、二度目三度目は声を出しませんでした。
次ぎに三浦十郎左衛門尉義連を呼ばれて、二番目の口役を与えました。三回食べて、毎回叫び声を出しました。三人目の口を誰にしようか悩んでおりました。少しして諏方祝盛澄を呼ばれましたが、あえて遅く来るようにしたようです。
そして三番目の口役をお与えになりました。やはり三回食べましたが、叫び声は出しません。
大体矢口餅の食べ方は、三回食べるのが礼儀のようだ。しかし、代々伝わる方法には、それぞれ差があるのです。とても良い勉強になったと、感嘆のお言葉をお与えになられました。その後、宴会になりましたとさ。
建久四年(1193)九月大十八日辛巳。將軍家令詣岩殿大藏等兩觀音堂給。姫君御不例之時御立願云々。 |
読下し しょうぐんけ いわどの おおくらら りょうかんのんどう もう せし
たま
建久四年(1193)九月大十八日辛巳。將軍家、岩殿、大藏等の兩觀音堂@へ詣で令め給ふ。
ひめぎみ ごふれいのとき ごりゅうがん うんぬん
姫君御不例之時の御立願と云々。
参考@岩殿、大藏等の兩觀音堂は、神奈川県逗子市久木の岩殿寺と鎌倉の杉本觀音。坂東三十三觀音霊場めぐりの第二番札所と一番札所。
現代語建久四年(1193)九月大十八日辛巳。将軍頼朝様が岩殿(岩殿寺)と大倉(杉本寺)の両観音様にお参りに行かれました。
姫君(数え年16歳)が病気なので良くなるようお願いに行かれたのだそうです。
建久四年(1193)九月大廿一日甲申。御外舅憲實法眼子玄番助大夫仲經。賜美濃國土岐多良庄。依舊好異他也。 |
読下し ごがいしゅうけんじつほうげん こ げんばのすけたいふなかつね みののくに ときたらのしょう たま
建久四年(1193)九月大廿一日甲申。御外舅憲實法眼@が子
玄番助大夫仲經、 美濃國土岐多良庄Aを賜はる。
きゅうこう
た ことな よつ なり
舊好他に異るに依て也。
参考A土岐多良庄は、岐阜県大垣市上石津町上下石津町。
現代語建久四年(1193)九月大二十一日甲申。母方の大叔父憲実法眼の子供の玄番助大夫仲経は、美濃国土岐多良庄を与えられました。親戚の縁があるからです。
建久四年(1193)九月大廿六日己丑。御外舅憲實法眼後家。此間參候。故季範朝臣芳好依難默止。殊賞翫給。加之可令領掌故上綱遺跡之旨。被仰付云々。 |
読下し ごがいしゅうけんじつほうげん
ごけ こ かん さんこう
建久四年(1193)九月大廿六日己丑。御外舅憲實法眼が後家、此の間參候す。
こすえのりあそん ほうこう
もくし がた よつ こと しょうがん たま
故季範朝臣の芳好を默止し難きに依て、殊に賞翫し給ふ。
これ くは こじょうごう ゆいせき りょうしょうせし べ
のむね おお つ られ うんぬん
之に加へ故上綱の遺跡を領掌令む可し@之旨、仰せ付け被ると云々。
参考@領掌令む可しは、所領安堵した。
現代語建久四年(1193)九月大二十六日己丑。母方の大叔父憲実法眼の未亡人が、幕府へやってきました。
祖父の故季範様の縁を放っては置けないので、特に大事になされお会いになられました。
そればかりか、亡き夫上綱(官僧の上席)憲実法眼の遺産を引き継いで管理するように、命じられましたとさ。
建久四年(1193)九月大廿七日庚寅。來月御堂供養導師下向之間事。被仰遣宮内大輔重頼之許云々。 |
読下し らいげつ みどう くよう どうし げこう
の かん こと くないたいふしげよりの もと おお
つか さる うんぬん
建久四年(1193)九月大廿七日庚寅。來月の御堂供養の導師下向之間の事、宮内大輔重頼之許へ仰せ遣は被ると云々。
建久四年(1193)九月大卅日癸巳。依御堂供養事。爲警固可參上之旨。被廻奉書於近國御家人等。梶原平三景時。右京進仲業等奉行之。 |
読下し みどうくよう こと よつ けいご
ため さんじょうすべ のむね ほうしょを きんごく ごけにんら めぐ さる
建久四年(1193)九月大卅日癸巳。御堂供養の事に依て、警固の爲
參上可し之旨、奉書於近國@御家人等へ廻ら被る。
かじはらのへいざかげとき うきょうのしんなかなりら これ ぶぎょう
梶原平三景時、
右京進仲業等 之を奉行す。
参考@近國は、本来畿内近国で京都の近くを云っていたが、ここでは鎌倉の近い国を指している。
現代語建久四年(1193)九月大三十日癸巳。南御堂勝長寿院の法事について、警備をするために鎌倉へ出仕するように、公文書を鎌倉周辺の国に住む御家人へ回覧させました。
梶原平三景時と右京進仲業が指示担当しました。