建久四年(1193)癸丑十月大
建久四年(1193)十月大一日甲午。家督若公渡御江間殿新造花亭。被献御馬御劔等云々。 |
読下し かとく わかぎみ えまどの
しんぞう はな てい とぎょ おんうま おんつるぎら けん られ うんぬん
建久四年(1193)十月大一日甲午。家督の若公、江間殿が新造の花の亭@へ渡御す。御馬、御劔等を献ぜ被ると云々。
現代語建久四年(1193)十月大一日甲午。将軍家嫡男の若君(万寿丸、後の頼家)が、江間義時様の新築の美しい屋敷に行かれました。義時様は若君に馬や剣を献上されました。
疑問@新造の花の亭は、分かれ道の亭か、小町亭か分からない。
建久四年(1193)十月大二日乙未。貢馬貢金等。爲被進京都被整之。 |
読下し くめ みつぎきんら きょうと しん られ ため これ
ととの らる
建久四年(1193)十月大二日乙未。貢馬、貢金等、京都へ進ぜ被ん爲、之を整へ被る@。
参考@之を整へ被るは、御家人に持ってこさせる。これは税金の一種と思われる。
建久四年(1193)十月大三日丙申。御堂供養導師下向之間海道驛家雜事送夫等事。被支配御家人等。今日付雜色等所被遣也。來廿日比可令出京云々。仲業。行政。頼平等奉行之云々。 |
読下し みどうくよう どうし げこうの かん かいどう えきか ぞうじ おくりぶら こと
ごけにんら しはいされ
建久四年(1193)十月大三日丙申。御堂供養の導師、下向之間、海道の驛家@の雜事送夫等の事、御家人等に支配被るA。
きょう
ぞうしきら つ つか され ところなり きた はつかごろ しゅっきょうせし べ うんぬん
なかなり ゆきまさ よりひらら これ ぶぎょう うんぬん
今日雜色等に付け遣は被る所也。來る廿日比、出京令む可しと云々。仲業、行政、頼平等之を奉行すと云々。
参考@駅家は、16km毎にあった。
参考A御家人等に支配被るは、御家人達に分担させる。
現代語建久四年(1193)十月大三日丙申。南御堂の法事の指導僧が京都から下ってくるので、東海道の宿場での管理や荷物運搬人の供出を御家人に割り当てました。
今日、雑用に連中に文書を持たせて派遣されました。指導僧は、近日の二十日に京都を出発するのだそうだ。
右京進中原仲業と主計允藤原二階堂行政、武藤頼平達が担当だそうです。
建久四年(1193)十月大七日庚子。多好節依召自京都參着。來月於鶴岡依可有御神樂也。又右近將監久家同歸參。是爲令相傳秘曲。先日所上洛也。宮人曲。不殘一事。傳受之由申之。加之好方載状。言上其旨。非譜第之輩。雖不傳此曲。隨嚴命。悉以令授之由云々。 |
読下し おおののよしとき めし よつ きょうとよ さんちゃく らいげつ つるがおか をい
おかぐら あ べ よつ なり
建久四年(1193)十月大七日庚子。
多好節@、召に依て京都自り參着す。來月
鶴岡に於て御神樂有る可きに依て也。
また うこんしょうげんひさいえ おな
きさん これ ひきょく あいつた
せし ため せんじつ じょうらく ところなり
又、
右近將監久家A同じく歸參す。是、秘曲Bを相傳へ令めん爲、先日
上洛する所也。
みやびときょく いちじのこらず
でんじゅのよし これ もう これ くは よしかたじょう
の そ むね ごんじょう
宮人曲、一事不殘、傳受之由C之を申す。之に加へ好方状に載せ、其の旨を言上すD。
ふだいのやから
あら こ きょくつたえず いへど げんめい したが ことごと もつ
さず せし のよし うんぬん
譜第之輩Eに非ざれば、此の曲不傳と雖も、嚴命に隨ひ、悉く以て授か令める之由と云々。
参考A右近將監久家は、建久二年(1191)十二月十九日条に山城江次久家以下侍十三人で京へ習いに行った。
参考B秘曲は、秘伝の曲。
参考C傳受之由は、教わった。
参考D状に載せ、其の旨を言上すは、手紙でそう云って来ている。
参考E譜第之輩は、直々の弟子。
現代語建久四年(1193)十月大七日庚子。多好節が呼ばれたので、京都から到着しました。来月鶴岡八幡宮でお神楽を奉納するためなのです。
又、山城江次右近将監久家も一緒に鎌倉へ戻ってきました。この人は、お神楽の秘伝の曲を教わるために、以前に京都へ上ったのです。宮人曲は、一つ残らず教わりましたと報告しました。これに添えて多好方が手紙に書いて、その事を申し上げております。直々の弟子ではないので、本来ならば教えるわけにはいかないのですが、頼朝様の厳しい言いつけを守って、全てを授けましたとのことです。
建久四年(1193)十月大十日癸夘。野本齋藤左衛門大夫尉基員子息小童。於幕府遂首服。進御鎧以下。自將軍家。又賜重寳等云々。 |
読下し のもとのさいとうさえもんたいふのじょうもとかず
しそく しょうどう ばくふ をい しゅふく と
建久四年(1193)十月大十日癸夘。
野本齋藤左衛門大夫尉基員@子息の小童A、幕府に於て首服を遂げB、
おんよろいいか しん しょうぐんけ
よ また ちょうほうら たま うんぬん
御鎧以下を進ず。將軍家自り、又、重寳等を賜はると云々。
参考@野本齋藤左衛門大夫尉基員は、野本が武蔵野本郷で東松山市上野本、下野本。齋藤は斎守(さいのかみ)藤原利仁の末裔。
参考A小童は、下河邊庄司行平の孫。
参考B首服を遂げは、元服式をする。
現代語建久四年(1193)十月大十日癸卯。野本斉藤左衛門大夫尉基員の息子で未だ幼い子が、幕府で元服式を行い、鎧などを献上しました。
将軍頼朝様からは、お返しに諸道具が与えられましたとさ。
建久四年(1193)十月大廿一日甲寅。諸御領乃具結解勘定事。奉行人等於私宅遂其節之由。有風聞之間。甚不可然。至今日以後者。於政所可致沙汰之旨。被仰云々。 |
読下し しょごりょう のうぐ けちげ かんじょう こと ぶぎょうにんら したく をい そ とき と のよし
建久四年(1193)十月大廿一日甲寅。諸御領@乃具A結解勘定Bの事、奉行人等私宅に於て其の節を遂げる之由、
ふうぶん
あ のかん はなは しか べからず きょう いた
いご は まんどころ をい さた いた べ のむね おお
られ うんぬん
風聞有る之間、甚だ然る不可。今日に至る以後者、政所に於て沙汰C致す可し之旨、仰せ被ると云々。
参考@諸御領は、関東御領で将軍家の基幹荘園。直領。
参考A乃具は、税金。
参考B結解勘定は、決算報告。現地作成の帳簿と事務所作成の結解状とを合わせる。
参考C政所に於て沙汰は、政所別当の大江広元が指揮する。
現代語建久四年(1193)十月大二十一日甲寅。関東御領の納税の計算報告について、担当する奉行達が自分の家でその事務を行っていると噂を聞いたので、それはとんでもない。今日までに終わっている以後については、幕府の政務機関政所の指揮で処理するようにと、仰せになられましたとさ。
建久四年(1193)十月大廿八日辛酉。佐々木左衛門尉定綱參着。此程薩摩國流人也。去三月十二日。依舊院御一廻御佛事。被免勅勘云々。將軍家日來殊歎息給之處。適逢赦參上之間。甚歎喜給。則召御前云々。近江國守護職事。如元可令執行之由云々。 |
読下し
ささきのさえもんのじょうさだつな さんちゃく こ ほど さつまのくに
るにんなり
建久四年(1193)十月大廿八日辛酉。
佐々木左衛門尉定綱
參着す。此の程、薩摩國に流人也。
さんぬ さんがつじうににち きゅういん ごいっかい おんぶつじ
よつ ちょっかん めん られ うんぬん
去る三月十二日、舊院の御一廻の御佛事に依て、勅勘を免ぜ被るAと云々。
しょうぐんけ ひごろ こと たんそく たま のところ たまたま しゃ あ
さんじょうのかん はなは かんき たま すなは ごぜん め うんぬん
將軍家、日來殊に歎息し給ふ之處、
適、赦しに逢い參上之間、甚だ歎喜し給ひ、則ち御前に召すと云々。
おうみのくにしゅごしき こと もと ごと しぎょうせし べ のよし うんぬん
近江國守護職の事、元の如く執行令め可き之由と云々。
参考@佐々木定綱は、建久二年五月比叡山との争いで息子が神鏡を割って、息子は慙死、父の定綱は薩摩へ流罪になっている。
参考A勅勘を免ぜ被るは、恩赦を受けた。兼実の玉葉にはこの記事がないのがちょっと不思議。
現代語建久四年(1193)十月大二十八日辛酉。佐々木左衛門尉定綱が到着しました。先日来薩摩に流罪となっていたのです。
先だっての三月十二日に、後白河法皇の一周忌の法要に、朝廷の罰を許されたのです。
将軍頼朝様は、この流罪が心配事になっておりましたが、運良く恩赦されたので、とてもお喜びになり、すぐに目の前にお呼びになりましたとさ。近江国の守護の職は、元の通りに勤めるようにとのことでありました。
建久四年(1193)十月大廿九日壬戌。以御倉所納米百石。大豆百石。令施自遠國參上御家人等給云々。散位行政奉行之云々。 |
読下し おんくら おさ ところ こめひゃっこく だいずひゃっこく もつ
建久四年(1193)十月大廿九日壬戌。御倉に納める所の
米百石、 大豆百石を以て、
おんごく
よ さんじょう ごけにんら ほどこせし たま うんぬん さんに
ゆきまさ これ ぶぎょう うんぬん
遠國自り參上する御家人等に施令め給ふと云々。散位行政之を奉行すと云々。
現代語建久四年(1193)十月大二十九日壬戌。幕府のお蔵に納める予定の米百石と大豆百石を遠い国から来ている御家人達に分け与えましたとさ。主計允藤原行政が担当をしました。
説明この記事から、野口実氏の「頼朝以前の鎌倉」に鎌倉に未だ市は立っていないと推察さている。