吾妻鏡入門第十五巻

建久六年(1195)正月大

建久六年(1195)正月大一日丁亥。上総前司義兼獻垸飯。相摸守惟義持參御釼。又御弓箭以下進物。事終將軍家更出御于西侍障子之上。盃酒及數巡。私催群遊云々。

読下し             かずさのぜんじよしかね おうばん けん    さがみのかみこれよし ぎょけん じさん    また  おんゆみや いげ  しんもつ
建久六年(1195)正月大一日丁亥。上総前司義兼、垸飯@を獻ず。相摸守惟義、御釼を持參す。又、御弓箭以下を進物す。

ことおえ しょうぐんけさら  にし さむらい しょうじの うえに しゅつご    はいしゅすうじゅん およ   し   ぐんゆう  もよお   うんぬん
事終て將軍家更に西の侍の障子之上于出御すA。盃酒數巡に及び、私の群遊を催すと云々。

参考@垸飯は、大名が将軍に祝膳を奉ったり、家臣が主君を饗応したりして主従の結びつきを強めた。
参考A事終て將軍家更に西の侍の障子之上于出御は、将軍としての元旦の行事を終えて、頼朝個人の正月祝いとしての宴会を楽しんだようです。

現代語建久六年(1195)正月大一日丁亥。足利前上総介義兼が、将軍様へのご馳走の振る舞いを差し上げました。大内相模守惟義が、剣を持って来ました。同様に弓箭をはじめ行縢・砂金・鷲の羽・馬などを進呈しました。その儀式が済んでから、なおも西の侍所の襖で仕切った上段の間へお出になられ、宴会をして私人として仲間と饗宴しましたとさ。

説明障子は、辞書によると「和風建築の屏障具(へいしようぐ)の総称。格子の両側に布または紙を貼ったもの。部屋の境や窓・縁などに立てる。紙や布を貼った襖(ふすま)障子、移動可能な衝立(ついたて)障子、薄紙や絹を貼った明かり障子などがある。中世以降片側に紙を貼った明かり障子が発達し、障子といえば明かり障子をさすようになった。」と云う様に現在は「明かり障子」を障子と言い、かつての障子を衾といっても居るようですね。

では、衾を辞書で引くと「和室用の建具の一。格子組みにした木の枠に布・紙などを張り重ね、木枠を周囲に取り付けたもの。部屋の仕切りに用いる。中世以降用いられた名称。襖障子。」とあります。ここで云う中世とは頼朝時代よりもずうーっと後を指すようなので、障子で囲まれた部屋ということになり、侍所に将軍用の上段の間があったみたいですね。

建久六年(1195)正月大二日戊子。千葉介常胤進垸飯。

読下し             ちばのすけつねたね おうばん しん
建久六年(1195)正月大二日戊子。千葉介常胤、垸飯を進ず。

現代語建久六年(1195)正月大二日戊子。千葉介常胤が、将軍様へのご馳走の振る舞いを差し上げました。

建久六年(1195)正月大三日己丑。小山左衛門尉朝政垸飯也。

読下し             おやまのさえもんのじょうともまさ おうばんなり
建久六年(1195)正月大三日己丑。小山左衛門尉朝政、垸飯也。

現代語建久六年(1195)正月大三日己丑。小山左衛門尉朝政が、将軍様へのご馳走の振る舞いを差し上げました。

建久六年(1195)正月大四日庚寅。將軍家入御藤九郎盛長甘繩家。三浦介義澄以下令供奉云々。

読下し             しょうぐんけ  とうくろうもりなが  あまなわ  いえ  にゅうご    みうらのすけよしざね いげ ぐぶ せし    うんぬん
建久六年(1195)正月大四日庚寅。將軍家、藤九郎盛長が甘繩の家@へ入御す。三浦介義澄以下供奉令むと云々。

参考@甘繩の家は、鎌倉市長谷1丁目1番に鎮座する甘縄神社前一帯と推定されている。

現代語建久六年(1195)正月大四日庚寅。将軍頼朝様は、新年初外出として藤九郎盛長の甘縄の家へ入られました。三浦介義澄をはじめとするご家人がお供をしましたとさ。

建久六年(1195)正月大八日甲午。豊後守季光与中條右馬允家長起喧嘩。已欲及合戰之間。兩方縁者等馳集。仍遣和田左衛門尉義盛。被令和平。於家長者。仰前右衛門尉知家被止出仕。爲養子之故也。至季光者。召營中。對于御家人等鬪戰擬失生涯。甚非穩便儀之由。直被加諷詞云々。依此騒動。今日心經會令延引云々。已拘臨時之魔障。被閣恒例之佛事。謂彼兩人之確執尤乖二儀冥慮者歟。此事。季光者有由緒。被准門葉之間。頗住宿得之思。家長爲壯年之身。爲知家養子。誇威權依現無礼。季光相咎云々。

読下し             ぶんごのかみすえみつ と ちゅうじょうのうまのじょういえなが けんか  おこ
建久六年(1195)正月大八日甲午。 豊後守季光 与、 中條右馬允家長 喧嘩を起す。

すで  かっせん  およ      ほつ  のかん  りょうほう えんじゃら は  あつま   よつ  わだのさえもんのじょうよしもり  つか      わへい せし  らる
已に合戰に及ばんと欲す之間、兩方の縁者等馳せ集る。仍て和田左衛門尉義盛を遣はし和平令め被る。

いえなが   をい は  さきのうえもんのじょうともいえ おお    しゅっし  と   らる    ようしたる の ゆえなり
家長にて於て者、前右衛門尉知家に仰せて出仕を止め被る。養子爲之故也。

すえみつ いた    は   えいちゅう め     ごけにんら  に たい    とうせん    しょうがい うしな     ぎ
季光に至りて者、營中に召し、御家人等于對して鬪戰し、生涯を失はんと擬するは、

はなは おんびん ぎ あらずのよし  じき  ふうし   くは  らる   うんぬん
甚だ穩便の儀に非之由、直に諷詞を加へ被ると云々。

こ   そうどう  よつ    きょう   しんぎょうええんいんせし   うんぬん  すで  りんじ の ましょう  かかわ   こうれいの ぶつじ  さしお らる
此の騒動に依て、今日の心經會延引令むと云々。已に臨時之魔障に拘り、恒例之佛事を閣か被る。

い     か   りょうにんのかくしつ    もつと ふたぎ  めいりょ  そむ  ものか
謂うに彼の兩人之確執は、尤も二儀の冥慮を乖く者歟。

こ   こと  すえみつは ゆいしょあ    もんよう  なぞら らる  のかん  すこぶ すくとくのおもい じゅう
此の事、季光者由緒有りて門葉に准は被る之間、頗る宿得之思に住す。

いえなが そうねんの みたる    ともいえ  ようしたり   いけん   ほこ  ぶれい  あらわ   よつ    すえみつあいとが   うんぬん
家長は壯年之身爲に、知家が養子爲。威權に誇り無礼を現すに依て、季光相咎むと云々。

現代語建久六年(1195)正月大八日甲午。豊後守毛呂季光と中条右馬允家長とが喧嘩を起こしました。今にも合戦をしようとしたので、それぞれの関係者が走って集まってきました。それなので、侍所長官の和田左衛門尉義盛を派遣して、仲直りをさせました。中条家長は、八田前右衛門尉知家に命じて、幕府への出仕を止められました。それは、八田知家の養子だからです。毛呂季光に対しては、御所に呼び入れて、「源氏の一族でありながら、御家人に対して戦争をして命を失うかもしれない行為をしようとは、とても温厚な者の行いではない。」と直接批判の言葉を与えられましたとさ。この騒ぎがあったので、今日の般若心経を唱える法事は延期しましたとさ。思いもかけずに魔性と関わってしまったので、恒例にしている法事を後回しにしました。と云うことは、この両人の不和の出来事は、二つの神のおぼしめしに反することになるのでしょう。この原因は、毛呂季光は訳があって、源氏一族に準じて扱わられているので、相当得意に思っているのです。中条家長は、立派な大人なのにもかかわらず、八田知家の養子となっています。これも知家の権力を借りて、無礼な態度なので、毛呂季光が注意をしたからです。

説明季光は、埼玉県入間郡毛呂山町、家長は、埼玉県熊谷市上中条。領地が直接は近くないので、前々からの因縁ではなさそうである。

建久六年(1195)正月大十三日己亥。將軍家御參鶴岳八幡宮。結城七郎持御釼。海野小太郎幸氏懸御調度。小倉野三着御甲云々。上総前司以下供奉云々。還御之後。於營中被行心經會。鶴岳供僧等參勤之。被引御馬云々。

読下し               しょうぐんけ つるがおかはちまんぐう ぎょさん   ゆうきのしちろうぎょけん も
建久六年(1195)正月大十三日己亥。將軍家、鶴岳八幡宮へ御參す。結城七郎御釼を持ち、

うんののこたろうゆきうじ ごちょうど   か     おぐらのざ  おんよろい つ    うんぬん  かずさのぜんじ いげ ぐぶ    うんぬん
海野小太郎幸氏御調度を懸き、小倉野三御甲を着くと云々。上総前司以下供奉すと云々。

かんごののち  えいちゅう をい  しんぎょうえ  おこな らる    つるがおかぐそうら これ さんきん    おんうま  ひかる    うんぬん
還御之後、營中に於て心經會を行は被る。鶴岳供僧等之に參勤す。御馬を引被ると云々。

参考@心經會は、般若心経を唱え上げる。

現代語建久六年(1195)正月大十三日己亥。将軍頼朝様は、鶴岡八幡宮へお参りです。結城七郎朝光が太刀持ちで、海野小太郎幸氏が弓箭を背負い、小倉野三が頼朝様の鎧を着けましたとさ。足利前上総介義兼以下がお供をしたそうです。お戻りになられた後、御所の中で般若心経を唱える会を行いました。鶴岡八幡宮寺の坊さん達が来て勤めました。お布施に馬を引出物にしたそうです。

建久六年(1195)正月大十五日辛丑。法橋昌寛爲使節上洛。是將軍家爲南都東大寺供養御結縁。依可有御京上。六波羅御亭可加修理之故也。

読下し               ほっきょうしょうかん しせつ  な   じょうらく
建久六年(1195)正月大十五日辛丑。法橋昌寛、使節と爲し上洛す。

これ  しょうぐんけ なんと とうだいじ くよう   ごけちえん  ため  ごけいじょう あ  べ    よつ    ろくはらおんてい   しゅうり   くわ  べ   のゆえなり
是、將軍家南都東大寺供養の御結縁@の爲、御京上有る可きに依て、六波羅御亭へ修理を加う可き之故也。

参考@結縁は、仏との縁を結ぶ。ご利益に預かる、成仏できる。

現代語建久六年(1195)正月大十五日辛丑。法橋一品坊昌寛が、派遣員として京都へ上りました。その用事は、将軍頼朝様が東大寺の竣工式に出席し仏との縁を結ぶために、京都へ上る予定なので、宿泊先の六波羅の屋敷を修理するためなのです。

建久六年(1195)正月大十六日壬寅。眞如院僧正眞圓@(東大寺別当前権僧正勝賢)被歸洛。宿次傳馬送夫等事。爲三浦介義澄。民部丞盛時等奉行。支配云々。

読下し               とうだいじべっとう さきのごんのそうじょうしょうけん きらく さる
建久六年(1195)正月大十六日壬寅。東大寺別当 前権僧正勝賢、歸洛被る。

すくじ   てんま  そうふ ら   こと  みうらのすけよしずみ  みんぶのじょうもりときら ぶぎょう な     しはい    うんぬん
宿次A,傳馬B,送夫C等の事、三浦介義澄、 民部丞盛時等 奉行と爲し、支配Dすと云々。

参考@眞如院僧正眞圓は、一昨年十一月の着工導師なので、東大寺別当の前権僧正勝賢の間違い。
参考A宿次は、宿泊先の手配。但し当時宿屋があったかは不明。
参考B
傳馬は、旅の途中での替え馬を駅毎に手配する。
参考C送夫は、運び人足。
参考D支配は、現在のように押さえ込む事ではなく、読んで字のごとく支え配ることで、担当者(通り道の地方御家人)に振り分ける。

現代語建久六年(1195)正月大十六日壬寅。先月二十六日の永福寺薬師堂開眼供養に呼ばれた東大寺別当の前権僧正勝賢が京都へ帰ります。旅の宿泊先や替え馬や荷運び人足などについて、三浦介義澄と平民部烝盛時が担当して手配をしましたとさ。

建久六年(1195)正月大廿日丙午。北條殿被下向伊豆國。是願成就院修正以下年中佛事條々。依被定下之。爲令執行也。

読下し             ほうじょうどの いずのくに  げこう さる
建久六年(1195)正月大廿日丙午。北條殿、伊豆國へ下向被る。

これ  がんじょうじゅいん しゅうせい いげ ねんちゅう ぶつじ じょうじょう  これ さだ  くださる    よつ   しぎょうせし   ためなり
是、願成就院の 修正 以下年中の佛事の條々、之を定め下被るに依て、執行@令めん爲也。

参考@執行は、実行。

現代語建久六年(1195)正月大二十日丙午。北條時政殿が、伊豆国へ下られました。その目的は、願成就院の供養の儀式など仏教行事を数々をお決めになられたので、それを実施するためです。

建久六年(1195)正月大廿五日辛亥。將軍家渡御三浦三崎津。有船中遊興等云々。義澄一族等儲駄餉云々。

読下し               しょうぐんけ  みうらみさき   つ   とうぎょ    せんちゅう ゆうきょうら あ    うんぬん
建久六年(1195)正月大廿五日辛亥。將軍家、三浦三崎の津へ渡御す。船中に遊興等有りと云々。

よしざねいちぞくら だしゅう  もう     うんぬん
義澄一族等、駄餉@を儲くと云々。

参考@駄餉は、お弁当。

現代語建久六年(1195)正月大二十五日辛亥。将軍頼朝様は、三浦三崎の港へ行かれました。船の中では、宴会などがありましたとさ。三浦介義澄等三浦一族が、弁当を用意したとのことです。

建久六年(1195)正月大廿七日甲寅。自三浦令還御給云々。

読下し               みうら よ   かんご せし  たま   うんぬん
建久六年(1195)正月大廿七日甲寅。三浦自り還御令め給ふと云々。

現代語建久六年(1195)正月大二十七日甲寅。三浦よりお帰りになられたそうです。

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