吾妻鏡入門第十五巻

建久六年(1195)七月大

建久六年(1195)七月大一日癸未。熱田社御奉幣。大宮司範經。被奉龍蹄御釼等。引進御馬云々。今日。稻毛三郎重成馳付武藏國。恩賜馬已如龍。仍号三日黒云々。

読下し                    あつたしゃ  ごほうへい   だいぐうじ  のりつね  りゅうていぎょけんら たつま られ    おんうま  ひきしん   うんぬん
建久六年(1195)七月大一日癸未。熱田社へ御奉幣。大宮司は範經@。龍蹄御釼等を奉つ被る。御馬を引進ずと云々。

 きょう  いなげのさぶろうしげなり むさしのくに は  つ       おんし  うますで  りゅう ごと    よっ  みっかぐろ  ごう    うんぬん
今日、稻毛三郎重成武藏國へ馳せ付ける。恩賜の馬已に龍の如し。仍て三日黒Aと号すと云々。

参考@範經は、頼朝の母の弟(範雅)の子。つまり従兄弟。
参考A三日黒は、青墓から三日で走った。

現代語建久六年(1195)七月大一日癸未。熱田神宮へお参りです。神職筆頭の大宮司は藤原範経。立派な馬や剣を奉納されました。馬は引いて出しました。今日、稲毛三郎重成が、武蔵国へ駆けつけました。頼朝様から与えられた馬は、竜のようでした。そこで「三日黒」と名付けましたとさ。

建久六年(1195)七月大二日甲申。於遠江國橋下驛。當國在廳并守護沙汰人等豫參集。義定朝臣之後。國務及檢断等事。就C濁。聊有令尋成敗給事云々。

読下し                    とおとうみのくに はしもとのうまや をい    とうごくっざいちょうなら  しゅご さたにんら あらかじ さんしゅう
建久六年(1195)七月大二日甲申。 遠江國 橋下驛@に於て、當國在廳A并びに守護沙汰人等豫め參集す。

よしさだあそんののち  こくむ およ  けんだんら   こと  せいだく  つ    いささ  せいばい たず  せし  たま  ことあ    うんぬん
義定朝臣之後B、國務及び檢断等の事、C濁に就き、聊か成敗を尋ね令め給ふ事有りと云々。

現代語建久六年(1195)七月大二日甲申。遠江国の橋本宿で、この国の國衙の在庁官人と守護の代理人を前もって集めておきました。遠江守安田義定が首になった後、国衙の務めや裁判について、その成否についての判決ぶりを、尋ねたいことがあるからだそうです。

参考@橋下は、浜名湖の新居関で、現静岡県浜名郡新居町浜名に橋本バス停あり。
参考A
在廳は、在庁官人と云う国衙の役人。
参考B義定朝臣之後は、十四巻建久五年八月十九日反逆罪で梟首したその後。

建久六年(1195)七月大四日丙戌。稻毛三郎重成妻於武藏國他界。日來病惱。頻雖加鵲療。終被侵風痾畢。重成不耐別離之愁。頗倦勇敢之心。忽遂出家云々。

読下し                    いなげのさぶろうしげなり  つま  むさしのくに をい  たかい
建久六年(1195)七月大四日丙戌。稻毛三郎重成が妻、武藏國に於て他界す。

ひごろびょうのう    しき   じゃくりょう くは     いへど    しまい   ふうあ  おかされをはんぬ
日來病惱し、頻りに鵲療@を加へると雖も、終いに風痾に侵被畢。

しげなりべつりの うれ    たえず  すこぶ ゆうかんのこころ う      たちま しゅっけ  と    うんぬん
重成別離之愁いに不耐。頗る勇敢之心に倦み、忽ち出家を遂ぐと云々。

参考@鵲療は、中国の名医「扁鵲」からとって治療をする。。

現代語建久六年(1195)七月大四日丙戌。稲毛三郎重成の妻が、武蔵の国で亡くなりました。この所病気をしていて、さかんに治療を加えたけれども、とうとう肺炎に侵されてしまいました。稲毛三郎重成はその別れの悲しさに耐えきれず、殺生な武士の立場を嫌がって、出家をしてしまいましたとさ。

建久六年(1195)七月大六日戊子。於黄瀬河驛。駿河伊豆兩國訴事等條々令加善政給云々。

読下し                    きせがわのうまや  をい   するが   いず りょうごく うった   ことら  じょうじょうぜんせい くは せし  たま    うんぬん
建久六年(1195)七月大六日戊子。黄瀬河驛@に於て、駿河、伊豆兩國の訴への事等、條々善政を加へ令め給ふと云々。

参考@黄瀬河は、静岡県沼津市大岡木瀬川に黄瀬川橋あり。なお、近くの八幡神社に頼朝義経対面石あり。

現代語建久六年(1195)七月大六日戊子。黄瀬川宿において、駿河・伊豆両国の訴訟等について、片っ端から良い裁きを行われましたとさ。

建久六年(1195)七月大八日庚寅。申尅。將軍家着御鎌倉云々。

読下し                    さるのこく しょうぐんけ  かまくら  ちゃくご    うんぬん
建久六年(1195)七月大八日庚寅。申尅。將軍家、鎌倉に着御すと云々。

現代語建久六年(1195)七月大八日庚寅。申の刻(午後四時頃)に、将軍頼朝様は鎌倉へお着きになられましたそうな。

建久六年(1195)七月大九日辛夘。御臺所渡御比企右衛門尉能員之家。是依稻毛女房他界御輕服也。

読下し                    みだいどころ ひきのうえもんのじょうよしかずのいえ  とぎょ     これ  いなげ  にょぼう たかい  ごきょうぶく  よっ  なり
建久六年(1195)七月大九日辛夘。 御臺所 比企右衛門尉能員之家へ渡御す。是、稻毛の女房他界の御輕服に依て也。

現代語建久六年(1195)七月大九日辛卯。御台所政子さまは、比企右衛門尉能員の家へ行かれました。これは、稲毛三郎重成の女房の死によって、妹の軽い喪に付すためです。

建久六年(1195)七月大十日壬辰。北條殿。江間殿被下伊豆國。是輕服之故也。又今度御上洛之間。供奉御家人等多賜身暇之。歸國云々。

読下し                    ほうじょうどの  えまどの いずのくに  くだられ    これ  きょうぶくのゆえなり
建久六年(1195)七月大十日壬辰。北條殿、江間殿伊豆國へ下被る。是、輕服之故也。

また  このたび  ごじょうらくのかん   ぐぶ   ごけにんら おお  み  いとまこれ  たま      きこく     うんぬん
又、今度の御上洛之間、供奉の御家人等多く身の暇之を賜はり、歸國すと云々。

現代語建久六年(1195)七月十日壬辰。北條時政殿と江間殿(北条義時)が、伊豆の国(韮崎)へ下られました。これは、稲毛三郎重成の妻の軽い喪に服すためです。また、今度の京都行のお供をした御家人達の多くが、お許しを得て自分の国へ帰りましたとさ。

建久六年(1195)七月大十二日甲午。御參鶴岡八幡宮。都鄙御往還無爲御報賽云々。

読下し                     つるがおかはちまんぐう ぎょさん  とひ ごおうかん むい   ごほうさい  うんぬん
建久六年(1195)七月大十二日甲午。 鶴岡八幡宮へ御參。都鄙御往還無爲の御報賽と云々。

現代語建久六年(1195)七月十二日甲午。鶴岡八幡宮へお参りです。鎌倉と都との無事の往復のお礼参りです。

建久六年(1195)七月大十三日乙未。土肥後家尼參上。相具下若等。召御前及御賞翫云々。

読下し                       といのごけあま さんじょう    げじゃくら  あいぐ     ごぜん  め   ごしょうがん  およ    うんぬん
建久六年(1195)七月大十三日乙未。土肥後家尼參上す。下若@等を相具す。御前に召し御賞翫に及ぶと云々。

参考@下若は、酒。

現代語建久六年(1195)七月十三日乙未。土肥次郎実平の未亡人が、やってまいりました。お酒などを持ってきましたので、御前にお呼びになり、御馳走になりましたとさ。

建久六年(1195)七月大十四日丙申。將軍家御參勝長壽院。

読下し                      しょうぐんけ しょうちょうじゅいん ぎょさん
建久六年(1195)七月大十四日丙申。將軍家、勝長壽院へ御參。

現代語建久六年(1195)七月十四日丙申。将軍頼朝様は、御自分の菩提寺の勝長寿院へお参りです。

建久六年(1195)七月大十五日丁酉。永福寺御礼佛。又於勝長壽院。被修盂蘭盆御佛事。万燈會等云々。

読下し                       ようふくじごらいぶつ  また  しょうちょうじゅいん をい    うらぼん   おんぶつじ  しゅうさる   まんとうえ ら   うんぬん
建久六年(1195)七月大十五日丁酉。永福寺御礼佛。又、勝長壽院に於て、盂蘭盆@の御佛事を修被る。万燈會A等と云々。

現代語建久六年(1195)七月十五日丁酉。永福寺の仏像を拝みました。また、今日は、お盆なので、盂蘭盆の法事を行いました。沢山のお燈明を上げる万燈会の式だそうです。

説明@盂蘭盆は、今で云うお盆。もと中国で、餓鬼道に落ちた母を救う手段を仏にたずねた目連(もくれん)が、夏安居(げあんご)の最後の日の7月15日に僧を供養するよう教えられた故事を説いた盂蘭盆経に基づき、苦しんでいる亡者を救うための仏事で七月十五日に行われた。日本に伝わって初秋の魂(たま)祭りと習合し、祖先霊を供養する仏事となった。迎え火・送り火をたき、精霊棚(しようりようだな)に食物を供え、僧に棚経(たなぎよう)を読んでもらうなど、地域によって各種の風習がある。江戸時代から旧暦の七月十三日から十六日までになり、現在地方では月遅れの八月一三日から一五日に行われるが、都会では七月に行う地域も多い。
説明A万燈會は、懺悔・報恩のために、多くの灯明をともして供養する行事。奈良時代から行われ、東大寺・高野山のものが有名。万灯供養とも云う。ウィキペディアから

建久六年(1195)七月大十六日戊戌。武藏國務事。義信朝臣成敗。尤叶民庶雅意之由。就聞食及。今日被下御感御書云々。於向後國司者。可守此時之趣。被置壁書於府廳云々。散位盛時奉行云々。

読下し                       むさしこくむ   こと  よしのぶあそんせいばい
建久六年(1195)七月大十六日戊戌。武藏國務の事、義信朝臣成敗す。

もっと みんしょ   がい   かな  のよし   き     め   およ    つ     きょう  ぎょかん  おんしょ  くださる    うんぬん
尤も民庶の雅意に叶う之由、聞こし食し及ぶに就き、今日御感の御書を下被ると云々。

こうご   をい  こくしは   このときのおもむき まも  べ     かべかきを ふちょう  お   れる  うんぬん  さんにもりときぶぎょう    うんぬん
向後に於て國司者、此時之趣を守る可し。壁書於府廳に置か被と云々。散位盛時奉行すと云々。

現代語建久六年(1195)七月十六日戊戌。武蔵の国の行政を武藏守大内義信さんが国司として取り仕切っております。とても庶民の評判が良いと、お聞きになられたので、今日お褒めの文書を与えられました。今後国司の務めは、これをお手本として守るように、国衙の庁舎の壁に貼り出すように決められましとさ。位階持ちの平盛時が担当しましたとさ。

建久六年(1195)七月大十七日己亥。齋藤左衛門尉基貞爲御代官參相摸國大山。今曉進發云々。

読下し                      さいとうさえもんのじょうもとさだ  おんだいかん な  さがみのくにおおやま まい    こんぎょうしんぱつ   うんぬん
建久六年(1195)七月大十七日己亥。齋藤左衛門尉基貞、御代官と爲し相摸國大山@へ參る。今曉進發すと云々。

参考@大山は、神奈川県伊勢原市大山阿夫利神社神仏分離後雨降山大山寺と分かれた。

現代語建久六年(1195)七月十七日己亥。齋藤左衛門尉基貞は、頼朝様の代理として、相模の国の大山へお参りです。今朝の夜明けに出発したそうです。

建久六年(1195)七月大十九日辛丑。故平大納言時忠卿左女牛地事。雖被入没官領注文。自然所被閣也。今度御上洛之時。依爲便宜之地。可宛賜若宮供僧等之旨。内々有御計。而御下向之後。彼亞相後室尼上。并師典侍尼等傳聞此事。追差進專使。殊愁申。其状去夕到着。今朝有御返事。盛時書之。當時無収公之儀歟。早彼跡如元可進退領掌之由云々。

読下し                      こへいだいなごんときただきょう  さめうし   ち   こと  もっかんりょうちうもん  いれられ いへど  じねん  さしお るるところなり
建久六年(1195)七月大十九日辛丑。故平大納言時忠卿の左女牛の地の事。没官領注文に入被と雖も、自然に閣か被所也。

このたびごじょうらくのとき   びんぎの ちたる   よっ    わかみや ぐそうら  あてたま    べ   のむね  ないないおはから  あ
今度御上洛之時、便宜之地爲に依て、若宮供僧等に宛賜はる可し之旨、内々御計い有り。

しか    ごげこう の のち  か   あそう  こうしつあまうえなら    そちのてんじあまら こ  こと  つた  き     おっ  せんし  さ   すす    こと  うれ  もう
而るに御下向之後、彼の亞相が後室尼上并びに師典侍尼@等此の事を傳へ聞き、追て專使を差し進め、殊に愁ひ申す。

 そ じょうさんぬ ゆうこく つ     けさ ごへんじ あ     もりときこれ  か
其の状去る夕到着く。今朝御返事有り。盛時之を書く。

とうじ しゅうこうのぎ な   か   はや  か  あと  もと  ごと しんたいりょうしょうすべ のよし  うんぬん
當時収公之儀無き歟。早く彼の跡、元の如く進退領掌可し之由と云々。

参考@師典侍尼は、従二位権中納言中山顕時の娘で、洞院局(とうのいんのつぼね)と呼ばれた女房。名は領子(むねこ)。大納言平時忠夫人で、のちに安徳天皇の乳母となり、師典侍となる。父親が権中納言兼太宰権師であった為、このように呼ばれた。

現代語建久六年(1195)七月十九日辛丑。故大納言平時忠公の左女牛西洞院の土地については、平家から取り上げた没官領として朝廷への要望書の中には書いておいたが、思いもよらず放って置かれた所です。このたびの京都行のついでに、便利な場所なので、左女牛八幡宮の坊さんに与えるようにと、内々に申し出ていました。
しかし、京都を足った後に、その平時忠大納言の後妻の尼さんと出家した
師典侍尼が、このことを人伝に聞いて、鎌倉へ向かっている頼朝様を追って使いをよこして、特に嘆いております。
その手紙が先日の夕方に着いたので、今朝ご返事をしました。平盛時が祐筆として書きました。今は、取り上げることはありませんので、早く今迄通りに支配するようにとのことでした。

建久六年(1195)七月大廿日壬寅。若公御方御厩始立。御馬三疋。比企藤二奉行之。所進人々者。態被撰仰之云々。
 一疋〔黒駮〕  千葉介常胤進
 一疋〔鴾毛〕  小山左衛門尉朝政進
 一疋〔河原毛〕 三浦介義澄進

読下し                    わかぎみ おんかた みうまやはじ   た     おんうまさんびき  ひきのとうじ これ  ぶぎょう
建久六年(1195)七月大廿日壬寅。若公の御方の御厩始めて立つ。御馬三疋。比企藤二之を奉行す。

しん  ところ ひとびとは  わざ  これ  えら  おお  らる    うんぬん
進ず所の人々者、態と之を撰び仰せ被ると云々。

  いっぴき 〔くろまだら〕      ちばのすけつねたねしん
 一疋〔黒駮〕  千葉介常胤進ず

  いっぴき 〔つきげ〕       おやまのさえもんのじょうともまさしん
 一疋〔鴾毛@  小山左衛門尉朝政進ず

  いっぴき 〔かわらけ〕      みうらのすけよしずみしん
 一疋〔河原毛A 三浦介義澄進ず

参考@鴾毛は、葦毛でやや赤みをおびたもの。
参考A河原毛は、体は淡い黄褐色か亜麻色で四肢の下部と長毛は黒い。

現代語建久六年(1195)七月二十日壬寅。若君(後の頼家)のための厩を初めて建てました。馬三頭分です。比企藤二が担当をします。馬を差し出す人については、わざわざその人達を選んで命じられましたとさ。
 一頭〔黒駁〕は、千葉介常胤が寄進。
 一頭〔月毛〕は、小山左衛門尉朝政が寄進。
 一頭〔河原毛〕は、三浦介義澄が寄進。

建久六年(1195)七月大廿四日丙午。新熊野領安房國群房庄領家年貢事。有去年未濟之由訴出來。此事及度々之上。至今者。暫召放地頭職。點當時得分物。補去今兩年本所乃貢之後。於可返賜否事者。追可有御計之由。被定云々。行政奉行之。數百果嚴重之神用無闕。十二所權現之靈威定新者歟。

読下し                      いまくまの りょう  あはのくに へぐりあはのしょう  りょうけ ねんぐ  こと  きょねんみさいあ   のよし  うった しゅつらい
建久六年(1195)七月大廿四日丙午。新熊野@領 安房國  群房庄A 領家年貢の事、去年未濟有る之由の訴へ出來す。

かく  ことたびたび  およ  のうえ  いま  いた  ば   しばら ぢとうしき  め   はな    とうじ とくぶん  もの  てん
此の事度々に及ぶ之上、今に至ら者、暫く地頭職を召し放ち、當時得分の物を點じ、

さっこんりょうねん  ほんじょ  のうぐ  おぎな ののち  かえ  たま  べ     いな    こと  をい  は   おっ おんはから あるべきのよし  さだ  らる    うんぬん
去今兩年の本所の乃貢を補う之後、返し賜ふ可きや否やの事に於て者、追て御計い有可之由、定め被ると云々。

ゆきまさこれ ぶぎょう
行政之を奉行す。

すうひゃくっかげんじゅうのしんようか   な     じうにそごんげん のれいい さだ    あら    ものか
數百果嚴重之神用闕くる無し。十二所權現B之靈威定めて新たな者歟。

参考@新熊野は、永暦元年(1160年)、後白河上皇によって創建された神社。京都市東山区今熊野椥ノ森町42。紀州の熊野に対し新(今)と呼称した。参考A群房庄は、千葉県南房総市本織地方らしい。
参考B十二所權現は、熊野神社は熊野三山ばかりでなく天神七代・地神五代の十二社をも含んでいるので、熊野神社と十二所權現は同類。

現代語建久六年(1195)七月二十四日丙午。京都の新熊野神社の領地安房国の群房庄の上級荘園領主への年貢について、去年の分が未納だと訴えが来ています。このような事が何度もあったので、今となっては地頭職を解任して、現在の地頭の取り分を、去年と今年の最上級荘園権利者の本所への年貢の足しにした後で、地頭職に返すかどうかを、追って考えるからとお決めになられました。主計允藤原行政が担当します。
これで、沢山の大事な神様への進物が欠けることはありません。さすがに十二所權現熊野神社の御威光は、さぞかしあらたかなものなんでしょうね。

建久六年(1195)七月大廿六日戊申。貢馬進發事。寄事於御上洛供奉。不可存懈緩儀之由。今日面々被仰付云々。仲業奉行云々。

読下し                       くめ しんぱつ  こと  ことを ごじょうらく   ぐぶ   よ      けかん   ぎ   ぞん  べからずのよし
建久六年(1195)七月大廿六日戊申。貢馬進發の事、事於御上洛の供奉に寄せ、懈緩の儀を存ず不可之由、

きょう めんめん  おお  つ   らる    うんぬん  なかなりぶぎょう   うんぬん
今日面々に仰せ付け被ると云々。仲業奉行すと云々。

現代語建久六年(1195)七月二十六日戊申。京都朝廷へ捧げる馬について、それを今度の京都行のお供をしたのを理由にして、遅れたり怠ったりすることのないようにと、今日、御家人の人々に命じるようにとのことでした。右京進仲業が担当だそうです。

建久六年(1195)七月大廿八日庚戌。武藏國染殿別當事。被仰付安房上野局。糸所別當事。近衛局奉之云々。

読下し                      むさしのくにそめどのべっとう こと  あは  こうづけのつぼね おお つ   らる
建久六年(1195)七月大廿八日庚戌。武藏國染殿別當@の事、 安房、上野局に 仰せ付け被る。

いとどころべっとう こと   このえのつぼね これ たてまつ うんぬん
糸所別當の事は、 近衛局 之を奉ると云々。

参考@染殿別當は、7巻文治3年(1187)6月8日条で、上野局は幕府の染殿別当に補されている。又、18巻建仁2年(1203)12月13日条で、実朝の御世に同職を安堵されている。

現代語建久六年(1195)七月二十八日庚戌。武蔵国衙の染物の筆頭職(得分)について、幕府の女官安房局と上野局を任命しました。糸取の筆頭(得分)については、近衛局がお受けになりましたとさ。

建久六年(1195)七月大廿九日辛亥。早旦渡御濱御所。御遊興終日。有御笠懸等。又聞食管弦妙曲。北條殿經營云々。

読下し                      そうたんはま  ごしょ   とぎょ    ごゆうきょうしゅうじつ おんかさがけら あ
建久六年(1195)七月大廿九日辛亥。早旦濱の御所へ渡御す。御遊興終日。御笠懸等有り。

また かんげんみょうきょく き    め     ほうじょうどのけいえい   うんぬん
又、管弦妙曲を聞こし食す。北條殿經營すと云々。

現代語建久六年(1195)七月二十九日辛亥。朝早く、浜の御所へ行かれました。一日中お遊びです。笠懸等を行い、音楽の演奏や歌いをお聞きになりました。北條時政殿がの負担経営したそうです。

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