吾妻鏡入門第十五巻

建久六年(1195)十一月小

建久六年(1195)十一月小一日壬午。將軍家御參鶴岳八幡宮云々。

読下し                     しょうぐんけ つるがおかはちまんぐう  ぎょさん    うんぬん
建久六年(1195)十一月小一日壬午。將軍家、 鶴岳八幡宮 へ御參すと云々。

現代語建久六年(1195)十一月小一日壬午。将軍頼朝様は、鶴岡八幡宮へお参りだそうです。

建久六年(1195)十一月小四日乙酉。嘉祥寺領長門國河棚庄事。守護人妨領家所務之由。被仰下之間。此所事。去文治年中依院宣停止地頭職訖。今更違乱之條。招罪科歟。慥可停止之旨。今日所被仰下也云々。

読下し                     かしょうじ りょう ながとのくに かわたなのしょう こと  しゅごにん りょうけ   しょむ   さまた  のよし  おお  くださる  のかん
建久六年(1195)十一月小四日乙酉。嘉祥寺@領長門國 河棚庄Aの事、守護人B領家の所務を妨ぐ之由、仰せ下被る之間、

かく  ところ  こと  さんぬ ぶんじねんちういんぜん  よっ  ぢとうしき  ちょうじ をはんぬ  いまさら  いらんのじょう  ざいか  まね  か
此の所の事、去る文治年中院宣に依て地頭職を停止し訖。 今更に違乱之條、罪科を招く歟。

たしか ちょうすべ  のむね  きょう おお  くださる ところなり  うんぬん
慥に停止可し之旨、今日仰せ下被る所也と云々。

参考@嘉祥寺は、一説に平泉の毛越寺内に、金堂円隆寺の西に、杉並木に囲まれてほぼ円隆寺と同規模の土壇があります。巨大な礎石が完存するこの建築跡は、古来嘉祥寺跡として言い伝えられてきました。嘉祥寺は『吾妻鏡』にある嘉勝寺に相当します。この堂跡は金堂円隆寺とほとんど同規模の上に、同規模同形式の廊が付属することからみて、金堂なみに高い地位であったことがわかります。慈覚大師創設とする寺伝はともかく、少なくとも基衡の円隆寺建立以前から嘉祥寺が存在していたといわれる所以です。(毛越寺HPから)
参考A河棚庄は、山口県下関市豊浦町大字川棚らしい。
参考B守護人は、佐々木左衛門尉定綱が建久四年十二月二十日条で、長門石見守護に任命の記事あり。

現代語建久六年(1195)十一月小四日乙酉。平泉毛越寺内の嘉祥寺の領地、長門国川棚庄(山口県下関市豊浦町川棚)について、守護人が荘園上級領主の領家の年貢を横取りしたと、朝廷が云ってきました。そこについては、去る文治年間に(1185-1190)後白河院からの命令で地頭は廃止している。今さら無茶をしているのは、罰を食らうことになる。ちゃんと止めておくように今日、命令書を出させましたとさ。

建久六年(1195)十一月小六日丙戌。下河邊庄司行平事。將軍家殊被施芳情之餘。於子孫永可准門葉之旨。今日被下御書云々。

読下し                     しもこうべのしょうじゆきひら  こと  しょうぐんけこと  ほうじょう ほどこ さる  のあまり
建久六年(1195)十一月小六日丙戌。下河邊庄司行平の事、將軍家殊に芳情を施こ被る之餘、

しそん  をい  なが  もんよう  なぞら べ   のむね  きょう おんしょ  くださる    うんぬん
子孫に於て永く門葉に准う可し之旨、今日御書を下被ると云々。

現代語建久六年(1195)十一月小六日丙戌。下河辺庄司行平については、将軍頼朝様が特に大事にしているあまり、子孫にまで源氏一族に準じるように、今日覚書を与えましたとさ。

建久六年(1195)十一月小十日辛夘。鶴岳御神樂等也。將軍家有御參。陪從江左衛門尉景節唱秘曲等。于時風雨俄起。殆有神感之瑞云々。

読下し                     つるがおか おかぐらら なり  しょうぐんけぎょさんあ    べいじゅう えのさえもんのじょうかげとし ひきょくら うた
建久六年(1195)十一月小十日辛夘。鶴岳の御神樂等也。將軍家御參有り。陪從@江左衛門尉景節 秘曲等を唱う。

ときに ふうう にはか お     ほと    しんかんの ずいあ    うんぬん
時于風雨俄に起き、殆んど神感之瑞有りと云々。

参考@陪從は、賀茂・石清水・春日の祭りのときなどに、舞人とともに管弦や歌を演奏する地下(じげ)の楽人。

現代語建久六年(1195)十一月小十日辛卯。鶴岡八幡宮のお神楽の奉納です。将軍頼朝様のお参りです。楽人の大江左衛門尉景節が、師匠相傳の門外不出の歌を歌いました。そしたら急に風が吹いて雨が降りました。これは神様がお喜びになったしるしだそうです。

建久六年(1195)十一月小十三日甲午。北條殿被下向伊豆國。爲參會三島社神事也云々。

読下し                       ほうじょうどの いずのくに  げこうさる    みしましゃ しんじ  さんかい  ためなり  うんぬん
建久六年(1195)十一月小十三日甲午。北條殿伊豆國へ下向被る。三島社@神事に參會の爲也と云々。

参考@三島社は、静岡県三島市大宮町2−1−5所在の三島大社

現代語建久六年(1195)十一月小十三日甲午。北條時政殿が伊豆国へ出かけました。それは、三島神社の神事に立ち会うためだそうです。

建久六年(1195)十一月小十九日庚子。相摸國大庭御厨俣野郷内有大日堂。今日寄進田畠。限未來際。被宛佛聖灯油料。是故俣野五郎景久歸敬之梵閣也。本佛。則權五郎景政在生。伊勢太神宮御殿廿年一度造替之時。伐取彼心御柱。奉造立之。於權大僧都頼親室。遂開眼供養。可守護東國衆人給之由。令誓願。奉安置之。佛神之合體。尤揚焉也。内外之利生何疑〔矣〕。令相傳遺跡之處。景久滅亡之後。堂舎漸及傾危。佛像被侵雨露。景久後家尼旦暮愁此事。寤寐思其功。三浦介義澄傳聞之。本自依有歸佛歸法之志。執申興隆興行之儀。而景久雖爲反逆之者。景政者爲源家之忠士也。本尊又云御衣木之濫觴。云當伽藍之由緒。誠任檀那誓約。令專柳營護持給歟之由。有御沙汰。聊及御奉加云々。

読下し                       さがみのくに おおばのみくりや またのごう ない  だいにちどう あ    きょう でんぱた  きしん
建久六年(1195)十一月小十九日庚子。相摸國 大庭御厨@俣野郷A内に大日堂B有り。今日田畠を寄進す。

みらいさい  かぎ    ぶっしょうとうゆりょう  あてらる    これ  こまたののごろうかげひさ  きけいのぼんかくなり
未來際を限り、佛聖灯油料に宛被る。是、故俣野五郎景久C歸敬之梵閣也。

ほんぶつ   すなは ごんごろうかげまさ ざいせい   いせだいじんぐう   ごてんにじうねん いちど  ぞうたいのとき   か   しんおんばしら か   と    これ  ぞうりゅう たてまつ
本佛は、則ち權五郎景政 在生に、伊勢太神宮の御殿廿年に一度の造替之時、彼の心御柱を伐り取り、之を造立し奉る。

ごんのだいそうづらいしん しつ をい    かいげんくよう  と      とうごく  しゅうじん  しゅご   たま  べ   のよし  せいがんせし   これ  あんち  たてまつ
權大僧都頼親の室に於て、開眼供養を遂げ、東國の衆人を守護し給ふ可き之由、誓願令め、之を安置し奉る。

ぶっしんのがったい  もっと けちえんなり  ないげのりしょう なに  うたが   〔や〕
佛神之合體、尤も揚焉也。内外之利生何を疑はん〔矣〕

ゆいせき  そうでんせし のところ  かげひさめつぼうののち どうしゃようや かたむ あやう  およ
遺跡を相傳令む之處、景久滅亡之後、堂舎漸く傾き危きに及ぶ。

ぶつぞうあめつゆ おかされ かげひさ  ごけあま たんぼ  こ   こと  うれ     ごび  そ   こう  おも
佛像雨露に侵被、景久が後家尼旦暮に此の事を愁ひ、寤寐D其の功を思う。

みうらのすけよしずみ これ つた  き    もとよ   きぶつきほうのこころざしあ     よっ    こうりゅうこうぎょうのぎ  と   もう
三浦介義澄、之を傳へ聞き、本自り歸佛歸法之志有るに依て、興隆興行之儀を執り申す。

しか   かげひさほんぎゃくのものたり いへど  かげまさは げんけのちゅうしたるなり
而るに景久反逆之者爲と雖も、景政者源家之忠士爲也。

ほんそんまた  みそぎ のらんしょう  い   とうがらんのゆいしょ  い     まこと  だんな  せいやく  まか    もっぱ りゅうえい  ごじ せし  たま  かのよし
本尊又、御衣木E之濫觴と云ひ當伽藍之由緒と云ひ、誠に檀那の誓約に任せ、專ら柳營を護持令め給ふ歟之由、

おんさた あ       いささ  ごほうが   およ    うんぬん
御沙汰有りて、聊か御奉加に及ぶと云々。

参考@大庭御厨は、大庭御厨の範囲は、東は俣野川(藤沢市の境川)、西は神郷(寒川)、南は海、北は大牧崎で、後三年の役の勇者と伝えられる鎌倉権五郎景正が長治元年(1104年)頃、大庭郷を中心に山野未開地を開発し、伊勢恒吉の斡旋で永久5年(1117年)伊勢神宮に寄進した。ウィキペディアから
参考A俣野郷は、神奈川県藤沢市西俣野。横浜市戸塚区東俣野。東俣野に、俣野五郎景久建立といわれる俣野神社あり。伝承だが、藤沢市西俣野の北部に道場ヶ原という地名があり、そこに呑海上人に関連する道場(寺院のこと)があったと言われている。
参考B大日堂は、西俣野の御嶽神社(みたけおおかみ)。
参考C俣野五郎景久は、大庭三郎景親の弟。兄弟で平家についた。但し庶子として追い出されていた長兄の大庭平太景能は、頼朝についた。
参考D
寤寐は、目ざめている時と寝ている時。
参考E御衣木は、神仏の像を作るのに用いる木材を神聖視していう語。

現代語建久六年(1195)十一月小十九日庚子。相模国の大庭御厨の俣野郷(藤沢市西俣野)に大日如来を祀るお堂があります。今日、そこへ田畑を寄付しました。無期限に、仏様へのお灯明の油代にあてるのです。このお堂は、亡くなった俣野五郎景久が帰依していお寺です。御本尊は、昔権五郎景政が生きていた頃に、伊勢神宮のお社は二十年に一度式年遷宮で建て替えの時、その古い柱を下し賜りそれで建設したそうです。権大僧都頼親の部屋で開眼供養の儀式を行い、東国の人々を守ってもらうよう、祈りを込めて安置しました。仏様の御心の現れがあきらかです。仏性の世界内陣も俗人の世界下界もともに御利益を疑う必要は無いでしょう。その遺産をついだ管理人の俣野五郎景久が滅びてしまったので、お堂や建物も傾いてしまっております。仏像は、雨露にさらされ、俣野景久の未亡人は日夜そのことを嘆いて、寝ても覚めてもその修理を思いつめていました。

三浦介義澄は、この話を聞きつけて、元々仏教に熱心なので、お寺の再興と繁栄とを取り次ぎました。いくら俣野五郎景久が頼朝様の反逆者だとは云っても、先祖の権五郎景政は、源氏の忠義な家来でした。本尊の材木の起源も、建物の由緒も、施主が当初に誓約したような形通りに、建物などを守るようにしなさいと、命令があり、寄付がありましたとさ。

建久六年(1195)十一月小廿日辛丑。北條殿自伊豆國令馳參給。一昨日〔十八〕三嶋社第三御殿之上。烏頭切而死伏之由被申云々。

読下し                     ほうじょうどの いずのくによ   は   さん  せし  たま
建久六年(1195)十一月小廿日辛丑。北條殿伊豆國自り馳せ參じ令め給ふ。

おととい  〔じうはち〕  みしましゃ だいさんごてんの うえ   からす あたま き   て し   ふ   のよし  もうさる    うんぬん
一昨日〔十八〕三嶋社第三御殿之上に、烏、頭切られ而死に伏す之由を申被ると云々。

現代語建久六年(1195)十一月小二十日辛丑。北條時政殿が伊豆国から走って参りました。「一昨日〔十八日〕三島神社の第三殿の上に、カラスが首を切られて死んでいたんです」と報告しました。

建久六年(1195)十一月小廿一日壬寅。北條五郎時連爲御使。被參三嶋社。相具神馬御釼以下幣物等云々。又菊太三郎家正〔不斷潔齋云々〕依仰同進發。爲千度詣也。兩條可被謝恠異之故也云々。

読下し                       ほうじょうのごろうときつら おんし  な     みしましゃ  まいらる    しんめ ぎょけん いげ   へいもつら  あいぐ    うんぬん
建久六年(1195)十一月小廿一日壬寅。北條五郎時連御使と爲し、三嶋社へ參被る。神馬御釼以下の幣物等を相具すと云々。

また  きくたさぶろういえまさ 〔ふだん  けっさい  うんぬん 〕 おお    よっ  おな    しんぱつ   せんどまいり ためなり  りょうじょうかいい しゃさる  べ   のゆえなり  うんぬん
又、菊太三郎家正〔不斷の潔齋と云々〕仰せに依て同じく進發す。千度詣の爲也。兩條恠異を謝被る可き之故也と云々。

現代語建久六年(1195)十一月小二十一日壬寅。北條五郎時連が頼朝様の使いとして、三島神社へお参りです。奉納の馬や剣などの寄付を持っていきました。又。菊太三郎家正〔続けて潔斎しているそうな〕も命令を受け同様に出発です。三島神社へ千度詣でのためです。この二つの事は、先日の怪しい出来事を神様へ謝るためなのだそうです。

建久六年(1195)十一月小廿五日丙午。伊与國越智郡被停止地頭職。是殿下依可令領掌給也。

読下し                        いよのくに おっちぐん   ぢとうしき   ちょうじさる    これ  でんかりょうしょうせし  たま  べ     よっ  なり
建久六年(1195)十一月小廿五日丙午。伊与國越智郡@の地頭職を停止被る。是、殿下領掌令め給ふ可きに依て也。

参考@越智郡は、愛媛県今治市。地頭は河野一族。

現代語建久六年(1195)十一月小二十五日丙午。伊予国越智郡(愛媛県今治市)の地頭職を止めさせました。ここは、関白殿下九条兼実様が上級荘園領主だからです。

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