吾妻鏡入門第十六巻

建久十年(1199)己未二月大

征夷大将軍從二位行左衛門督源朝臣〔頼家。于時左中將〕。
  前右大將頼朝卿一男。母從二位平政子〔遠江守時政女〕
  壽永元年(1182)壬寅八月十二日誕生。

せいいたいしょうぐん じゅにいぎょう さえもんのかみ みなもとのあそん 〔よりいえ  ときにさちうじょう〕
征夷大将軍 從二位行@左衛門督 源朝臣〔頼家。時于左中將A

    さきのうだいしょうよりともきょう いちなん  はは  じゅにいたいらのまさこ 〔とおとうみのかみときまさ むすめ〕
  前右大將頼朝卿 が一男。母は從二位平政子〔遠江守時政の女〕

                              たんじょう
  壽永元年(1182)壬寅八月十二日誕生。

参考@從二位行の「行」は、高位低官。位が高いが官職が低い場合。逆に低位高官職は「守」と書く。
参考A左中將は、左近衛の中将。

建久十年(1199)二月大

建久十年(1199)二月大六日戊辰。霽。羽林殿下去月廿日轉左中將給。同廿六日宣下云。續前征夷将軍源朝臣遺跡宜令彼家人郎從等如舊奉行諸國守護者。彼状到着之間。今日有吉書始。C大夫擇申日時云々。北條殿。兵庫頭廣元朝臣。三浦介義澄。前大和守光行朝臣。中宮大夫属入道善信。八田右衛門尉知家。和田左衛門尉義盛。比企右衛門尉能員。梶原平三景時〔侍別當〕。藤民部丞行光。平民部丞盛時。右京進仲業。文章生宣衡等。列着政所。善信草吉書。武藏國海月郡事云々。仲業加C書。廣元朝臣持參之。羽林於寢殿。披覽之給。此事故將軍薨御之後。雖未經廿ケ日。 綸旨嚴密之間。重々有其沙汰。以内々儀。先被遂行之云々。

読下し                   はれ  うりん でんか さんぬ つきはつか さちうじょう  てん  たま    おな   にじうろくにちせんげ  い
建久十年(1199)二月大六日戊辰。霽。羽林@殿下去る月廿日A左中將に轉じ給ふ。同じき廿六日宣下に云はく。

さきのせいいしょうぐんみなもとのあそん  ゆいせき  つ   よろ    か   けにんろうじゅうら  し   むかし ごと  しょこくしゅご  ぶぎょうせし  てへ
 前征夷将軍B源朝臣 が遺跡を續ぎ、宜しく彼の家人郎從等を令て舊の如く諸國守護を奉行令め者り。

か  じょうとうちゃくのかん  きょう きっしょはじ  あ     せいのたいふ にちじ  たく  もう    うんぬん
彼の状到着之間、今日吉書始め有り。C大夫日時を擇し申すと云々。

ほうじょうどの  ひょうごのかみひろもとあそん みうらのすけよしずみ  さきのやまとのかみみつゆきあそん ちうぐうたいふさかんにゅうどうぜんしん はったのうえもんのじょうともいえ
北條殿、 兵庫頭廣元朝臣、 三浦介義澄、 前大和守光行朝臣、 中宮大夫属入道善信、 八田右衛門尉知家、

わだのさえもんのじょうよしもり  ひきのうえもんのじょうよしかず  かじわらのへいざかげとき 〔さむらい べっとう〕  とうのみんぶのじょうゆきみつ へいみんのじょうもりとき
和田左衛門尉義盛、比企右衛門尉能員、 梶原平三景時〔侍の別當C〕、 藤民部丞行光、 平民部丞盛時、

うきょうのしんなかなり もんじょうしょうのぶひらら まんどころ  れっ  つ    ぜんしんきっしょ そう   むさしのくにくらきぐん  こと  うんぬん
 右京進仲業、 文章生宣衡等、政所に列し着く。善信吉書を草す。武藏國海月郡Dの事と云々。

なかなりせいしょ くは    ひろもとあそんこれ  じさん    うりん しんでん  をい    これ  ひら  みたま
仲業C書を加へ、廣元朝臣之を持參す。羽林寢殿に於て、之を披き覽給ふ。

かく  こと  こしょうぐんこうごの のち   いま  はつか    へ    いへど    りんじげんみつのかん  かさ  がさ  そ   さた あ
此の事、故將軍薨御之後、未だ廿ケ日を經ずと雖も、綸旨嚴密之間、重ね々ね其の沙汰有り。

ないない  ぎ   もっ    ま   これ  すいこうさる    うんぬん
内々の儀を以て、先ず之を遂行被ると云々。

参考@羽林は、近衛将軍(大将、中将、少将)。
参考A去月廿日は、頼朝の死が京都に伝わった日。
参考B前征夷将軍は、1192に受け1194に辞す。
参考C侍の別當は、侍所の別当。和田太郎義盛から一日借りてそのまま返さない。梶原平三景時が滅んでから和田太郎義盛にもどる。
参考D武藏國海月郡は、久良岐郡で神奈川県横浜市東南一帯。上大岡に同名の公園有り。

現代語建久十年(1199)二月大六日戊辰。晴れました。近衛将軍頼家様が、先月二十日に中将に出世しました。同じ月の二十六日の天皇の命に、前征夷大将軍源頼朝の跡を継いで、鎌倉御家人を使って前の通り、諸国を守るように支配してください。とあります。その手紙が着いたので、幕府の新将軍として政務を始める儀式の吉書始め式を行いました。清原大夫が日時を占いましたとさ。

北条時政殿、兵庫頭大江広元さん、三浦介義澄、前大和守源光行さん、中宮大夫属入道三善善信、八田右衛門尉知家、和田左衛門尉義盛、比企右衛門尉能員、梶原平三景時〔軍事・警察担当長官〕、藤原民部丞二階堂行光、平民部烝盛時、右京進中原仲業、文章生三善宣衡、政務事務所の政所に並んで座りました。大夫属入道三善善信が吉書を案分しました。武蔵国久良岐郡の事柄でだそうです。中原仲業が清書をして、大江広元がこれを持って御所へ行きました。近衛将軍頼家は、私的場所の寝殿でこれを開いて見ました。これは、前の将軍の死が京都へ知らされてから、まだ二十日も経っていないけれども、天皇のお言葉は大切なものなので、特別にこの命令がありました。そこで、内輪だけでと云うことにして、この儀式を行いましたとさ。

建久十年(1199)二月大十五日丁丑。京都使者參着。去一日丑剋石C水有火。但不及神殿堂塔之災云々。又五日丁夘大原野釋奠等。依關東御穢氣延引云々。

読下し                     きょうと   ししゃさんちゃく   さんぬ ついたち うしのこく いわしいず  ひ あ
建久十年(1199)二月大十五日丁丑。京都の使者參着す。去る 一日 丑剋 石C水@に火有り。

ただ  しんでん どうとうの わざわい およばず  うんぬん
但し神殿 堂塔之 災Aに及不と云々。

また  いつかひのとう おおはらの   せきてんら  かんとう  おんえき   よっ  えんいん   うんぬん
又、五日丁夘 大原野Bの釋奠C等、關東の御穢氣Dに依て延引すと云々。

参考@石C水は、は、京都府八幡市八幡高坊の岩清水八幡宮。
参考Aの文字は、火事による災難に限って使う。
参考B大原野は、京都府京都市西京区大原野南春日町に大原野神社あり。
参考C釋奠は、日本で、陰暦二月・八月の上の丁(ひのと)の日に孔子と孔門十哲の画像を掲げてまつる儀式。朝廷の儀式は律令時代に始まった。大原野祭。
参考D關東の御穢氣は、頼朝の死による穢れ。

現代語建久十年(1199)二月大十五日丁丑。京都からの使いが到着しました。先日の一日の丑の刻(夜中の二時頃)に、石清水八幡宮で火事がありました。しかし、寝殿やお堂や五重塔は焼けずに済みましたとさ。また、五日の大原野での孔子と孔子の門人十人の画像を祀る儀式は、関東での穢れのため延期したそうです。

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