建久十年(1199)己未三月小
建久十年(1199)三月小二日甲午。故將軍四十九日御佛事也。導師大學法眼行慈云々。 |
建久十年(1199)三月小二日甲午。故將軍四十九日の御佛事也。導師は大學@法眼行慈と云々。
参考@大學は、正しくは題学。
現代語建久十年(1199)三月小二日甲午。故将軍頼朝様の四十九日の法事です。指導僧は題学法眼行慈だそうだ。
建久十年(1199)三月小五日丁酉。雨降。後藤左衛門尉基C依有罪科。被改讃岐守護職。被補近藤七國平。幕下將軍御時被定置事被改之始也云々。」又故將軍姫君〔号乙姫君。字三幡〕。自去比御病惱。御温氣也。頗及危急。尼御臺所諸社有祈願。諸寺修誦經給。亦於御所。被修一字金輪法。大法師聖尊〔号阿野少輔公〕奉仕之。 |
読下し あめふ
建久十年(1199)三月小五日丁酉。雨降る。
ごとうのさえもんのじょうもときよ ざいか あ よっ さぬきのしゅごしき
あらた られ こんどうしちくにひら ぶさる
後藤左衛門尉基清@、罪科有るに依て、譛岐守護職を改め被、近藤七國平に補被る。
ばっかしょうぐん おんとき
さだ おかれる こと あらた らる はじめ なり うんぬん
幕下將軍の御時に定め置被る事を、改め被るの始A也と云々。
また こしょうぐん
ひめぎみ 〔
おとひめ ぎみ ごう あざ みはた 〕 さんぬ ころよ ごびょうのう おんぬるけなり すこぶ ききゅう およ
又、故將軍Bの姫君〔乙姫C君と號す、字は三幡〕去る比自り御病惱、御温氣D也。頗る危急に及ぶ。
あまみだいどころしょしゃ きがんあ しょじ どっきょう しゅう たま また ごしょ をい いちじこんろんほう しゅう らる
尼御臺所E諸社に祈願有り、諸寺に誦經を修じ給ふ。亦、御所に於て、一字金輪法Fを修せ被る。
だいほっししょうそん
〔あののしょうゆうこう
ごう 〕
これ ほうし
大法師聖尊〔阿野少輔公と號す〕之を奉仕す。
参考@後藤左衛門尉基清、罪科は、三左衛門尉の変(後藤左衛門尉基清、中原左衛門尉政経、小野左衛門尉義成)で、三人で御所へ殴りこんだが、目的の相手(天皇)が通常いない場所だった。
参考A改め被るの始は、先例を崩した始めの事は神仏に背く事になり、良くない事が起こる前兆を意味する。ここでは、頼朝崇拝があるのにその先例を頼家が替える事への非難が入っている。だから乙姫の具合が悪くなった。
参考B故將軍は、頼朝。
参考C乙姫は、頼朝政子の三番目の子で次女。
参考D温氣は、熱がある。
参考E尼御臺所は、政子で頼朝の死亡時に一緒に出家している。
参考F一字金輪法は、密教の大日金輪で、調伏息災に効果あり。他からの修法の効力を失わせて、守る。
現代語建久十年(1199)三月小五日丁酉。雨降りです。後藤基綱に罪があるので、讃岐の守護を解任し、近藤七國平に与えられました。頼朝将軍が決められた規則に従わず、変えてしまった事の始めです。先の将軍頼朝の娘の乙姫がこの前から熱の出る病気になっている。かなり重症なので母の政子は神社に祈願をし、寺々に経を読ませている。また、御所では一字金輪法のお経をあげさせた。阿野全成が経をあげました。
建久十年(1199)三月小六日戊戌。リ。自今月。毎月可行中將家御當年星祭之由。被仰主計頭安部資元朝臣。其趣載廣元朝臣奉書。以雜色所被遣京都也。 |
読下し はれ
建久十年(1199)三月小六日戊戌。リ。
こんげつよ まいつきちうじょうけごとうねんじょう まつり おこな べ
のよし かぞえのかみあべのすけもと あそん おお らる
今月自り、毎月中將家御當年星の祭@を行う可し之由、
主計頭安部資元A朝臣に仰せ被る。
そ
おもむき ひろもとあそん ほうしょ の
ぞうしき もっ きょうと
つか さる ところなり
其の趣、廣元朝臣奉書に載せ、雜色を以て京都へ遣は被る所也。
参考@當年星の祭は、真言宗で、わざわいを除くために年星(ねんじょう)・本命星(ほんみようじよう)をまつる祭り。
参考A安部資元は、在京御家人で陰陽師。但し医陰二道は御家人と称してはならない。
現代語建久十年(1199)三月小六日戊戌。晴れです。今日から、毎月中将頼家様の災いを除くため今年の星を祈る儀式を行うように、京都在住の主計長の安陪資元に命令を出されました。その内容を、大江広元が承って書き、雑用に京都へ持って行かせましたとさ。
建久十年(1199)三月小十一日癸夘。リ。鶴岡八幡宮去月神事。今日被遂行之。正月幕下將軍薨給。鎌倉中觸穢之間。式月延引也。 |
建久十年(1199)三月小十一日癸夘。リ。鶴岡八幡宮の去る月の神事、今日之を遂行被る。
しょうがつばっかしょうぐんこう たま かまくたちうしょくえのかん しきげつ
えんいんなり
正月幕下將軍薨じ給ひ、鎌倉中觸穢@之間、式月の延引也。
参考@觸穢は、頼朝の死穢で穢れている。
現代語建久十年(1199)三月小十一日癸卯。晴れです。鶴岡八幡宮の先月予定の神へ祈る儀式を、今日実施しました。正月に頼朝様がお亡くなりになり、鎌倉中にその穢れがあふれていたので、式典の日を延期していたのです。
建久十年(1199)三月小十二日甲辰。姫君追日憔悴御。依之爲奉加療養。被召針博士丹波時長之處。頻固辞。敢不應仰。件時長。當世有名醫譽之間。重有沙汰。今日被差上專使。猶以令申障者。可奏達子細於仙洞之旨。被仰在京御家人等云々。 |
読下し ひめぎみ
ひ おい しょうすい たま これ よつ りょうち くは たてまつ ため
建久十年三月小十二日甲辰。姫君@、日を追て憔悴し御う。之に依て、療治を加へ奉らん爲、
はりはくじ たんばのときなが
めされ ところ しきり こじ あえ おお おうぜず
針博士丹波時長Aを召被る處、頻に固辭す。敢て仰せに不應。
くだん ときなが
とうせいめいい ほまれあ かん かさ さた あ きょう せんし さ のぼ らる
件の時長は當世名醫の譽有るの間、重ねて沙汰有り。今日専使を差し上らせ被る。
なおもつ
さは もう せし ば しさい せんとう
そうたつ べしの むね ざいきょうごけにん ら おお らる うんぬん
猶以って障りを申さ令め者、子細を仙洞に奏達す可之旨、在京御家人B等に仰せ被ると云々。
参考@姫君は、乙姫で、頼朝政子の三番目の子で次女。
参考A丹波時長は、医者の家系で、この頃医者は丹波と和気しかいなかった。
参考B在京御家人は、佐々木・後藤などで普段京都で暮らしている。他に国御家人は、自分の名字の領地で暮らす畠山次郎重忠など。在鎌倉御家人は鎌倉にいる北條氏・三浦氏など。
現代語建久十年三月小十二日甲辰。乙姫は日毎にやつれて行ってしまうので、治療をするために針の名人の丹波時長を呼びましだが、盛んに辞退をしてどうしても招来を聞きません。その時長は現在では一番の名医との評判があるので、もう一度決めて、今日その為の使いを京へ上らせました。それでも未だ嫌がるようなら、仙洞の上皇に申し出るよう在京御家人に伝えるようにとの事でした。
建久十年(1199)三月小廿二日甲寅。佐々木三郎兵衛尉盛綱法師捧款状。微質沈淪。已異于幕下御代。只非存恩澤厚薄。還被召知行所領等畢。雖耻天運。猶迷地慮之由云々。 |
読下し ささきのさぶろうひょうえのじょうもりつなほっしかんじょう ささ
建久十年(1199)三月小廿二日甲寅。佐々木三郎兵衛尉盛綱法師@款状Aを捧ぐ。
びしつ ちんりん すで ばっか みよ に こと ただおんたく こうはく ぞん あらず かへ ちぎょう しょりょうら めされをはんぬ
微質の沈淪B、已に幕下の御代于異なり、只恩澤の厚薄を存ずに非。還て知行の所領等を召被畢。
てんうん
はじ いへど なお ちりょ
まよ のよし うんぬん
天運を耻と雖も、猶地慮に迷う之由と云々。
参考@佐々木盛綱は、出家して西念。領地の上州磯部(群馬県安中市磯部)に居る。
参考A款状は、勘定と同じで物申すならばと手紙を出す。一種の苦情。
参考B微質の沈淪は、私が少ない領地におちぶれはてたのは。(又は、元気もなく落ち込んでいるのは)
現代語建久十年三月小二十二日甲寅。佐々木三郎兵衛尉盛綱法師西念が上申書を出しました。私が少ない領地に落ちぶれはてたのは、頼朝様の時代とは違ってしまい、単に恩賞の多少のことを云ってる訳ではありません。それどころか現在支配している領地までも取上げられてしまいました。天運の無さを恥ずかしがるどころか、猶も地の神の配慮すらも無いと困っているんだとさ。
建久十年(1199)三月小廿三日乙夘。中將家依有殊御宿願。太神宮御領六ケ所。被止地頭職。其所々内。謀反狼藉之輩出來者。自神宮可被搦出。且又可觸申案内之旨。被仰遣祭主之。而彼六ケ所内。尾張國一揚御厨。自神宮遣宮掌。可追出地頭代之由加下知。檢封得分之旨。令風聞之間。故右大將殿令薨去給。最前及件狼藉之條。頗爲遺恨。尤可有御尋者歟之由。同所被仰遣也。御奉免状書樣。 |
読下し ちゅうじょうけこと
ごすくがん あ よっ
だいじんぐう ごりょうろっかしょ ぢとうしき と られ
建久十年(1199)三月小廿三日乙夘。中將家殊に御宿願有るに依て、太神宮@御領六ケ所、地頭職を止め被る。
そ しょしょ うち むほんろうぜきのやからいできた ば じんぐうよ から いでられ べ
其の所々の内、謀反狼藉之輩出來ら者、神宮自り搦め出被る可し。
かつう また あない ふ
もう べ のむね これ さいしゅ おお
つか さる
且は又、案内を觸れ申す可し之旨、之を祭主Aに仰せ遣は被る。
しか か ろっかしょ うち おわりのくに いちやなぎのみくりや じんぐうよ かんしょう つか じとうだい おいだ べ のよし げち
くは
而るに彼の六ケ所の内、尾張國
一 揚 御
厨は、神宮自り宮掌を遣はし、地頭代を追出す可し之由下知を加へ、
とくぶん けんぷう のむね ふうぶんせし のかん こうだいしょうどのこうきょせし
たま さいぜん くだん ろうぜき およ
のじょう すこぶ いこんたり
得分を檢封Bする之旨、風聞令む之間、故右大將殿薨去令め給ふの、最前に件の狼藉に及ぶ之條、頗る遺恨爲。
もっと おたずね あ べ ものか の よし おな
おお つか さる ところなり ごほうめん じょう
かきざま
尤も御尋ね有る可き者歟之由、同じく仰せ遣は被る所也。御奉免の状の書樣。
参考@太神宮は、伊勢神宮。
参考A祭主は、神主。大中臣氏。
参考B檢封は、調べた証拠に封印する。
ごしんりょう
御神領
とおとうみのくにかばのみくりや おわりのくにいちやながいのみくりや
遠江國蒲御厨C
尾張國一揚御厨D
みかわのくにあくみもとかんべ しんかんべ おおつのかんべ
參河國飽海本神戸E
新神戸F
大津神戸G
いらこのみくりや そうついぶし
伊良胡御厨H惣追補使I
みぎ くだん しょしょ ぢとうら べつ ごきがん よっ か しき ちょうじさる ところなり かまくらちうじょうどのみしょうそこかく ごと
右、件の所々の地頭等、別しての御祈願Jに依て、彼の職を停止被る所也。鎌倉中將殿御消息K此の如し。
よっ したつくだん ごと
仍て執達件の如し。
けんきゅうじうねんさんがつにじうさんにち ひょうごのかみ
建久十年三月廿三日 兵庫頭
さいしゅどの
祭主殿
参考C遠江國蒲御厨は、北條四郎時政の領地だが、現在の浜松市神立町に蒲神明神社、蒲幼稚園あり。隣の将監町に蒲小学校あり。
参考D尾張國一揚御厨は、名古屋市中川区一柳通、打出、野田、横井、中郷。西に庄内川を挟んで富田庄(円覚寺領)があり、庄内川の氾濫で川筋が変るたびに境相論が絶えなかった。
参考E參河國飽海本神戸は、豊橋市飽海町あくみ。
参考F新神戸は、不明だが本神戸に対する新神戸なので近所と思われる。
参考G大津神戸は、愛知県豊橋市老津町字大津。
参考H伊良胡御厨は、愛知県田原市伊良湖町で旧渥美郡渥美町伊良湖。
参考I惣追補使は、軍事警察権を執行命令する立場。追補は、字のとおり追って捕獲するから来ている。いわば進駐軍司令官のマッカーサーのようなもの。
参考J別しての御祈願は、頼家の特別な祈願。
参考K御消息は、お手紙。
現代語建久十年三月小二十三日乙卯。中将家頼家様は、特別な願いがあるので、伊勢神宮の領地六箇所の地頭職を止めさせました。そのかわり領地の内では、謀反人や犯罪者が出ても、伊勢神宮の方で捕まえて突き出すようにしなさい。それとその詳細を報告するように、神主に言い送りました。それなのに、その六箇所の内の、尾張国(愛知県)一柳神宮荘園は、神主の方から領地管理人をよこして、地頭を追い出すように命令を出し、地頭の取り分を差し押さえてしまったと聞こえてきたが、故右大将殿頼朝様がお亡くなりになられて、将軍が変った機会に免除を出そうとした矢先に、その暴挙に出たことはとても癪に障る残念な事である。詳しく調べる必要があるのではないかと、同様に命じられました。六箇所の免除の手紙の書いてある内容は、
伊勢神宮の御領
遠江国(静岡県)蒲御厨 尾張国(愛知県)一柳御厨
三河国(愛知県)飽海本神戸 新神戸 大津神戸
伊良湖御厨軍司警察担当
右のその御厨などの地頭は、特別な願いがあって、そこの地頭職を止めさせます。鎌倉の中将頼家様の命令書はこの通り、命じられて書きました。
建久十年三月二十三日 兵庫頭大江広元
伊勢神宮の神主殿