吾妻鏡入門第十六巻

正治元年(1199)己未十月小

正治元年(1199)十月小廿四日癸未。參河國内御寄附太神宮之庄園。有六ケ所。而守護人藤九郎入道蓮西代官善耀致押妨之由。自神宮依訴申之。爲廣元朝臣奉行。被尋問蓮西之處。於六ケ所者。御奉免之後。更以不交其沙汰之由。善耀内々申之旨。昨日進請文之間。副其状於御教書。被遣本宮。奉免之後者爭可成其妨哉之由。被載之云々。

読下し                     みかわのこくない だいじんぐう  ごきふ の しょうえん   ろっかしょ あ
正治元年(1199)十月小廿四日癸未。參河國内に太神宮に御寄附之庄園が、六ケ所有り。

しか    しゅごにん とうくろうにゅうどうれんせい だいかんぜんようおうぼういた のよし  しんかんよ  これ  うった  もう    よっ    ひろもとあそんぶぎょう  な
而るに守護人藤九郎入道蓮西が代官善耀押妨致す之由、神宮自り之を訴へ申すに依て、廣元朝臣奉行と爲し、

れんせい たず  と   らる  のところ  ろっかしょ   をい  は   ごほうめんののち   さら  もっ  そ    さた   まじ  ざるのよし  ぜんようないない もう  のむね
蓮西に尋ね問は被る之處、六ケ所に於て者、御奉免之後@、更に以て其の沙汰を交へ不之由、善耀内々に申す之旨、

さくじつうけぶみ  すす    のかん  そ  じょうを みぎょうしょ  そ     ほんぐう  つか  さる
昨日請文を進める之間、其の状於御教書に副へ、本宮へ遣は被る。

ほうめんののちは いかで そ  さまた   な   べ   や のよし  これ  の   らる    うんぬん
奉免之後者爭か其の妨げを成す可き哉之由、之を載せ被ると云々。

参考@御奉免之後は、税を免除された後に寄付した。

現代語正治元年(1199)十月小二十四日癸未。三河国内に、伊勢神宮へ寄進された荘園(御厨)が六か所あります。しかし、藤九郎盛長入道蓮西の代官の善耀が横領したと、伊勢神宮の神官から訴えてきたので、大江広元が担当して、蓮西(藤九郎盛長)に問い合わせたところ、「六ケ所については、全ての権限を寄付しているので、それ以上の関与はしていません」と善耀が内々に云っていると、昨日返事をよこしたので、その返事を幕府からの通知文に添えて、伊勢神宮へ送りました。「権限移譲しているので、なんで横領を出来ましょう」と、書き足しましたとさ。

正治元年(1199)十月小廿五日甲申。リ。結城七郎朝光於御所侍。稱有夢想告。奉爲幕下將軍。勸人別一万反弥陀名号於傍輩等。各擧而奉唱之。此間。朝光談于列座之衆云。吾聞。忠臣不事二君云々。殊蒙幕下厚恩也。遷化之刻。有遺言之間。不令出家遁世之條。後悔非一。且今見世上。如踏薄氷云々。朝光。右大將軍御時無双近仕也。懷舊之至。遮而在人々推察。聞者拭悲涙云々。

読下し                     はれ ゆうきのしちろうともみつごしょ さむらい をい    むそう  つげあ    しょう    ばっかしょうぐん おんため
正治元年(1199)十月小廿五日甲申。リ。結城七郎朝光御所の侍に於て、夢想の告有りと稱し、幕下將軍の奉爲に、

ひとべつ いちまんたん みだみょうごうを ぼうはいら  すす      おのおの あ  て これ  とな たてまつ
人別に一万反の弥陀名号於傍輩等に勸める。 各、 擧げ而之を唱へ奉る。

こ   かん  ともみつれつざのしゅうに だん   い       われ  き    ちゅうしん  じくん  ことせず  うんぬん
此の間、朝光列座之衆于談じて云はく。吾は聞く。忠臣は二君に事不と云々。

こと  ばっか   こうおん  こうむ なり  せんげのきざみ  ゆいごんあ   のかん  しゅっけとんせいせし ざるのじょう  こうかいひとつ あらず
殊に幕下の厚恩を蒙る也。遷化之刻、遺言有る之間、出家遁世令め不之條、後悔一に非。

かつう いま せじょう み      うすごおり  ふ     ごと    うんぬん
且は今世上を見るに、薄氷を踏むが如しと云々。

ともみつ  うだいしょうぐん  おんとき むそう  きんじなり  かいきゅうのいた   さへぎ て ひとびと  すいさつ  あ     き   もの ひるい  ぬぐ    うんぬん
朝光、右大將軍の御時無双の近仕也。懷舊之至り、遮っ而人々の推察に在り。聞く者悲涙を拭うと云々。

現代語正治元年(1199)十月小二十五日甲申。晴れです。結城七郎朝光は、御所の侍の控えの間で、夢のお告げがあったと云って、故頼朝様のために、一人一人が一万回「南無阿弥陀仏」の弥陀称号を同僚たちに勧めました。それぞれ声を上げて「南無阿弥陀仏(なもうだ)」と唱えあげました。その間に、結城七郎朝光は一緒にいる連中に話しました。「私が故実に聞くのには、忠義な侍は、二人の主人には仕えないものなんだそうな。特に頼朝様にはご恩を受けています。お亡くなりになった時にご遺言があったので、坊主になって隠居しなかった事を、とても悔やまれてなりません。近頃の政局は薄氷を踏むような不安な毎日です。」朝光は、頼朝様の頃は、比べるものが無いほど、お近くに仕えておりましたので、それを懐かしく思うのは、誰もが推察できる事なので、聞いていた人々は涙を流したそうです。

正治元年(1199)十月小廿七日丙戌。リ。女房阿波局告結城七郎朝光云。依景時讒訴。汝已擬蒙誅戮。其故者。忠臣不事二君之由令述懷。謗申當時。是何非讎敵哉。爲懲粛傍輩。早可被断罪之由。具所申也。於今者。不可遁虎口之難歟者。朝光倩案之。周章断膓。爰前右兵衛尉義村。与朝光者断金朋友也。則向于義村亭。有火急事之由示之。義村相逢。朝光云。予雖不傳領亡父政光法師遺跡。仕幕下之後。始爲數ケ所領主。思其恩。高於須弥頂上。慕其往事之餘。於傍輩之中。申忠臣不事二君由之處。景時得讒訴之便。已申沈之間。忽以被處逆惡。而欲蒙誅旨。只今有其告。謂二君者。不依必父子兄弟歟。 後朱雀院御惱危急之間。奉讓御位於東宮〔後冷泉〕御。以後三條院被奉立坊。于時召宇治殿。被仰置兩所御事。於今上御事者。承之由申給。至東宮御事者。不被申御返事云々。先規如此。今以一身之述懷。強難被處重科歟云々。義村云。縡已及重事也。無殊計略者。曾難攘其災歟。凡文治以降。依景時之讒。殞命失職之輩不可勝計。或于今見存。或累葉含愁憤多之。即景盛去比欲被誅。併起自彼讒。其積悪定可奉皈羽林。爲世爲君不可有不對治。然而决弓箭勝負者。又似招邦國之乱。須談合于宿老等者。詞訖。遣專使之處。和田左衛門尉。足立藤九郎入道等入來。義村對之。述此事之始中終。件兩人云。早勒同心連署状。可訴申之。可被賞彼讒者一人歟。可被召仕諸御家人歟。先伺御氣色。無裁許者。直可諍死生。件状可爲誰人筆削哉。義村云。仲業有文筆譽之上。於景時挿宿意歟。仍招仲業。々々奔來。聞此趣。抵掌云。仲業宿意欲達。雖不堪。盍励筆作哉云々。群議事訖。義村勸盃酌。入夜。各退散云々。

読下し                     はれ  にょうぼうあはのつぼね ゆきのしちろうともみつ  つ     い
正治元年(1199)十月小廿七日丙戌。リ。 女房阿波局、 結城七郎朝光に告げて云はく。

かげとき  ざんそ  よっ   なんじすで ちうりく  こうむ     なぞら
景時の讒訴に依て、汝已に誅戮を蒙らんと擬う。

そ   ゆえは   ちうしんにくん  ことせずのよし じゅっかいせし  とうじ   そし  もう
其の故者、忠臣二君に事不之由 述懷令め、當時を謗り申す。

これ  なん  あだてき あらざるや  ぼうはい ちょうしゅく  ため  はや  だんざい  さる  べ   のよし  つぶさ もう ところなり
是、何ぞ讎敵に非哉。 傍輩を懲粛@の爲、早く断罪に被る可し之由、具に申す所也。

いま  をい  は   ここうの なん  のが  べからざるかてへ
今に於て者、虎口之難を遁る不可歟者り。

ともみつ つらつら これ  あん  しゅうしょう だんちょう   ここ  さきのうひょうえのじょうよしむら  ともみつとは だんきん  ほうゆうなり
朝光 倩 之を案じ、周章し断膓す。爰に 前右兵衛尉義村、 朝光与者断金の朋友也。

すなは よしむらていにむか   かきゅう  ことあ   のよしこれ  しめ    よしむら  あいあ     ともみつ い
則ち義村亭于向い、火急の事有り之由之を示す。義村に相逢いて朝光云はく。

よ   ぼうふ まさみつほっし  ゆいせき でんりょうせず いへど  ばっか  つかま ののち  はじ    すうかしょ  りょうしゅ  な
予は亡父政光法師の遺跡を傳領不と雖も、幕下に仕る之後、始めて數ケ所の領主と爲す。

そ   おん  おも       しゅみ ちょうじょう を たか
其の恩を思はば、須弥の頂上於高し。

そ   おうじ   つの  のあま    ぼうはいの うち  をい    ちうしんにくん   ことせずよし  もう  のところ  かげとき ざんそのびん  え
其の往事を慕る之餘り、傍輩之中に於て、忠臣二君に事不由を申す之處、景時讒訴之便を得て、

すで  しず  もう  のかん  たちま もっ  ぎゃくあく しょさる    しか    ちう  こうむ     ほっ    むね  ただいまそ  つ   あ
已に沈み申す之間、忽ち以て逆惡に處被る。而して誅を蒙らんと欲すの旨、只今其の告げ有り。

にくん  い   は   かなら     ふしきょうだい  よらざるか
二君と謂う者、必ずしも父子兄弟に依不歟。

 ごすざくいん  ごのう ききゅうの かん  おんくらいを とうぐう 〔ごれいざい〕   ゆず たてまつ たま   ごさんじょういん もっ  りつぼう たてまつらる
後朱雀院の御惱危急之間、御位於東宮〔後冷泉〕に讓り奉り御ひ、後三條院を以て立坊し奉被る。

ときに  うじどの  め     りょうしょ  おお おかれ  おんこと  きんじょう おんこと  をい  は  うけたまは のよしもう  たま
時于宇治殿を召し。兩所に仰せ置被る御事、今上の御事に於て者、承る之由申し給ふ。

とうぐう  おんこと  いた    は   ごへんじ もうされず  うんぬん
東宮の御事に至りて者、御返事申被不と云々。

せんきかく  ごと    いまいっしんのじゅっかい  もっ    あなが   ちょうか  しょされがた  か  うんぬん
先規此の如し。今一身之述懷を以て、強ちに重科に處被難き歟と云々。

よしむらい       ことすで  ちょうじ  およ  なり  こと    けいりゃくな    ば    あえ  そ わざわい はら  がた  か
義村云はく。縡已に重事に及ぶ也。殊なる計略無くん者、曾て其の災を攘い難き歟。

およ  ぶんじ いこう   かげときのざん  よっ    いのち おと  しき  うしな のやからあげ  かぞ  べからず
凡そ文治以降、景時之讒に依て、命を殞し職を失う之輩勝て計う不可。

ある    いまに げんぞん    ある  るいよう  しゅうふん ふく    これおお   すなは かげもりさんぬ ころちうされ   ほっ   あわ    か   ざんよ   おこ
或ひは今于見存し、或ひは累葉の愁憤を含むは之多し。即ち景盛去る比誅被んと欲す。併せて彼の讒自り起る。

そ   せきあくさだ    うりん   かえ たてまつ べ    よ   ためきみ  ため たいじせざ   あ   べからず
其の積悪定めて羽林に皈し奉る可し。世の爲君の爲對治不るは有る不可。

しかれども ゆみや  しょうぶ  けっ  ば   またほうこくのらん  まね    に     すべから すくろうらに だんごう     てへ
然而、弓箭の勝負を决さ者、又邦國之乱を招くに似たり。須く宿老等于談合すべし者り。

ことばをは     せんし  つか    のところ  わだのさえもんのじょう  あだちのとうくろうにゅうどうら い   きた
詞訖りて、專使を遣はす之處、和田左衛門尉、足立藤九郎入道等入り來る。

よしむらこれ  たい   かく  ことの しちうじゅう  の
義村之に對し、此の事之始中終を述べる。

くだん りょうにんい      はや  どうしん  れんしょじょう ろく    これ  うった  もう  べ
件の兩人云はく。早く同心の連署状を勒し、之を訴へ申す可し。

か   ざんしゃひとり  しょうさる  べ   か    しょごけにん  めしつか  らる  べ   か
彼の讒者一人を賞被る可き歟。諸御家人を召仕は被る可き歟。

ま   みけしき   うかが   さいきょな     ば   じき  ししょう  あらそ べ
先ず御氣色を伺い、裁許無くん者、直に死生を諍う可し。

くだん じょうだれひと ふで  けず たるべ   や   よしむら い     なかなりぶんぴつ ほまれあ  のうえ  かげとき  をい  すくい さしはさ か
件の状誰人の筆を削り爲可き哉。義村云はく。仲業文筆の譽有る之上、景時に於て宿意を挿む歟。

よっ  なかなり  まね    なかなりはし きた    こ  おもむき き    たなごころ うっ  い
仍て仲業を招く。々々奔り來る。此の趣を聞き、掌を 抵て云はく。

なかなり  すくい  たっ      ほっ    たえざる いへど   なん  ひっさく  はげ      や   うんぬん
仲業が宿意を達せんと欲す。堪不と雖も、盍ぞ筆作を励まざる哉と云々。

ぐんぎ ことをは      よしむらはいしゃく すす   よ   い    おのおの たいさん  うんぬん
群議事訖りて、義村盃酌を勸め、夜に入り、 各 退散すと云々。

参考@懲粛は、律令を「律は懲粛を以って宗と為し、令は勧誡を以って本と為す。」から取っているようだ。

現代語正治元年(1199)十月小二十七日丙戌。晴れです。幕府女官の阿波局(政子の妹で阿野全成の妻)が、結城七郎朝光に言いつけたのには、「梶原景時の悪口で、貴方は将軍から殺されてしまいますよ。その理由は、忠義な侍は、二人の主人には仕えないものだと、思いを述べて今の将軍を馬鹿にしたでしょう。それを聞いて、現将軍に敵対している。他の者への見せしめに早く死罪にするようにと、将軍が云っております。このままでは、危険を逃れられませんよ。」と云いました。結城七郎朝光はつくづくこのことを心配して、うろたえて悲観してしまいました。

なんと三浦平六兵衛尉義村は、結城七郎朝光と親交を誓い合った親友です。すぐに三浦平六兵衛尉義村の屋敷に行って、急ぎの用事があるからと訪ねました。三浦義村に会って、結城朝光は云いました。

「私は、亡くなった父の小山政光から財産を引き継ぎませんでしたが、頼朝様に仕えた後に、初めて数か所の領主となりました。そのご恩を思うと須弥山の頂上よりも高いものです。その昔を思うあまりに、同僚たちに、『忠義に深い者は二人の主人には仕えないものだ』と云ったので、『梶原平三景時が悪口を言いつけるチャンスだとばかりに、追い落とすように現将軍頼家に言いつけたので、逆族とされてしまいました。それなので殺されてしまいますよ』と、先ほど告げられました。二人の主人とは、必ずしも親子や兄弟ばかりではありません。後朱雀院が臨終の際に、天皇の位を皇太子〔後冷泉〕に譲られまして、後三条を新しい皇太子に決めました。そして宇治殿(藤原頼通)をお呼びになり、両者の事を仰せつかった時に、「天皇任命は承知しました」と返事をし、新皇太子任命の事については、返事をなさいませんでした。昔の例はこのとおりです。今、私一人の身からでた思い出話を取り上げて、無理に重罪にすることはおかしいでしょう」とのことでした。

三浦義村は言いました。「事はすでに重大な方向へと進んでいる。よほどの方策を考えないと、あえてその災難を払うことはできないでしょう。だいたい文治年間(1185)以来、梶原平三景時の中傷によって、命を失ったり、職を解かれた者は数えきれません。ある人は今でも恨みを含んで生きており、又ある人は先祖の怒りを持ったままの人も多いでしょう。それに安達景盛は、先日殺されそうになっています。それもこれも梶原景時の中傷から起こっています。その長年に積み重なった悪い実績を頼家様に返しましょう。世の中のためにも将軍のためにも、退治しないわけにはいかないでしょう。しかし、弓箭を持って勝負を挑んだならば、またもや国内の騒乱を起こすことになるのでしょう。当然、年上の大物達に相談しよう」と云いました。

話を終えて、使いを差し向けた所、和田左衛門尉義盛・安達藤九郎盛長入道等がやってきました。三浦義村は、この人たちに対して、事の一部始終を話しました。その二人が云うのには、「早く志を同じくする味方の署名を募って、それで訴えようじゃないか。あの事実に反する悪口を言って人をおとしめる奴一人が褒めているべきではない。御家人皆を使われるべきであろう。まず訴えて様子を見て、何もしてくれなければ、直接武力に訴えるほかあるまい。その連署上の文面は誰に書かせたらよいであろう。」これに対し三浦義村が云いました。「中原仲業は、文章がうまいと評判だし、その上梶原景時に対して、かねてからうらみをだいているでしょう。」そこで中原仲業を呼びつけました。中原仲業は、走って来て、この話を聞いて、手を打って云いました。「仲業の多年の恨みを晴らしたいので、書き足りないかもしれませんが、なんで筆を励まさずにおられましょうか」だとさ。

相談事が終わって、三浦平六兵衛尉義村は酒をすすめましたが、夜になって三々五々引き上げていきましたとさ。

正治元年(1199)十月小廿八日丁亥。リ。巳剋。千葉介常胤。三浦介義澄。千葉太郎胤正。三浦兵衛尉義村。畠山次郎重忠。小山左衛門尉朝政。同七郎朝光。足立左衛門尉遠元。和田左衛門尉義盛。同兵衛尉常盛。比企右衛門尉能員。所右衛門尉朝光。民部丞行光。葛西兵衛尉C重。八田左衛門尉知重。波多野小次郎忠綱。大井次郎實久。若狹兵衛尉忠季。澁谷次郎高重。山内刑部丞經俊。宇都宮弥三郎頼綱。榛谷四郎重朝。安達藤九郎盛長入道。佐々木三郎兵衛尉盛綱入道。稻毛三郎重成入道。藤九郎景盛。岡崎四郎義實入道。土屋次郎義C。東平太重胤。土肥先次郎惟光。河野四郎通信。曾我小太郎祐綱。二宮四郎。長江四郎明義。諸二郎季綱。天野民部丞遠景入道。工藤小次郎行光。右京進仲業已下御家人。群集于鶴岡廻廊。是向背于景時事一味條。不可改變之旨。敬白之故也。頃之。仲業持來訴状。於衆中。讀上之。養鷄者不畜狸。牧獸者不育豺之由載之。義村殊感此句云々。各加暑判。其衆六十六人也。爰朝光兄小山五郎宗政雖載姓名。不加判形。是爲扶弟危。傍輩皆忘身。企此事之處。爲兄有異心之條如何。其後。付件状於廣元朝臣。和田左衛門尉義盛。三浦兵衛尉義村等持向之。

読下し                     はれ  みのこく ちばのすけつねたね  みうらのすけよしずみ  ちばのたろうたねまさ  みうらのひょうえのじょうよしむら
正治元年(1199)十月小廿八日丁亥。リ。巳剋。 千葉介常胤、 三浦介義澄、 千葉太郎胤正、 三浦兵衛尉義村、

はたけやまのじろうしげただ  おやまのさえもんのじょうともまさ  おな   しちろうともみつ  あだちのさえもんのじょうとおもと  わだのさえもんのじょうよしもり
 畠山次郎重忠、小山左衛門尉朝政、 同じき七郎朝光、 足立左衛門尉遠元、 和田左衛門尉義盛、

おな   ひょうえのじょうつねもり  ひきのうえもんのじょうよしかずところのうえもんのじょうともみつ  みんぶのじょうゆきみつ  かさいのひょうえのじょうきよしげ
同じき兵衛尉常盛、 比企右衛門尉能員、 所右衛門尉朝光、  民部丞行光、  葛西兵衛尉C重、

はったのさえもんのじょうともしげ  はたののこじろうただつな  おおいのじろうさねひさ  わかさのひょうえのじょうただすえ  しぶやのじろうたかしげ  やまのうちのぎょうぶのじょうつねとし
八田左衛門尉知重、波多野小次郎忠綱、大井次郎實久、 若狹兵衛尉忠季、澁谷次郎高重、  山内刑部丞經俊、

うつのみやのいやさぶろうよりつな  はんがやつのしろうしげとも あだちのとうくろうもりながにゅうどう  ささきのさぶろうひょうえのじょうもりつなにゅうどう
宇都宮弥三郎頼綱、  榛谷四郎重朝、 安達藤九郎盛長入道、 佐々木三郎兵衛尉盛綱入道、

いなげのさぶろうしげなりにゅうどう  とうくろうかげもり  おかざきのしろうよしざねにゅうどう  つちやのじろうよしきよ  とうのへいたしげたね  といのせんじろうこれみつ
 稻毛三郎重成入道、 藤九郎景盛、 岡崎四郎義實入道、 土屋次郎義C、 東平太重胤、 土肥先次郎惟光、

こうののしろうみちのぶ  そがのこたろうすけつな  にのみやのしろう  ながえのしろうあきよし  もろのじろうすえつな  あまののみんぶのじょうとおかげにゅうどう
河野四郎通信、曾我小太郎祐綱、 二宮四郎、長江四郎明義、 諸二郎季綱、  天野民部丞遠景入道、

くどうのこじろうゆきみつ  うきょうのしんなかなり いか  ごけにん   つるがおか かいろうにぐんしゅう
工藤小次郎行光、右京進仲業已下の御家人、 鶴岡の廻廊于群集す。

これ  かげときにきょうはい   こといちみ      じょう  かいへん べからずのむね  けいびゃくのゆえなり
是、景時于向背する事一味するの條、改變す不可之旨、敬白之故也。

しばらく      なかなりそじょう  もちきた   しゅう  なか  をい    これ  よ   あげ
頃之して、仲業訴状を持來り、衆の中に於て、之を讀み上る。

にはとり やしな ものたぬき かはず  けもの か  もの やまいぬ やしな ざるのよしこれ  の
鷄を 養う者狸を畜不。 獸を牧う者 豺を 育は不之由之を載せる。

よしむらこと  こ   く   かん     うんぬん  おのおの しょはん  くは    そ  しゅうろくじうろくにんなり
義村殊に此の句を感ずると云々。 各、 暑判を加う。其の衆六十六人也。

ここ  ともみつ  あに おやまのごろうむねまさ せいめい  の      いへど  はんぎょう くはえず
爰に朝光の兄 小山五郎宗政 姓名を載せると雖も、判形を加不。

これ おとうと あやう  たす    ため  ぼうはいみなみ  わす    かく  こと  くはだ   のところ  あにたる  いしん あ   のじょう  いかん
是、弟の危きを扶けん爲、傍輩皆身を忘れ、此の事を企てる之處、兄爲に異心有る之條は如何。

そ   ご   くだん じょうを ひろもとあそん  ふ     わだのさえもんのじょうよしもり  みうらのひょうえのじょうよしむらら これ  もちむか
其の後、件の状於廣元朝臣に付す。和田左衛門尉義盛、 三浦兵衛尉義村 等之を持向う。

現代語正治元年(1199)十月小二十八日丁亥。晴れです。巳の刻(午前十時頃)、千葉介常胤、 三浦介義澄、 千葉太郎胤正、 三浦兵衛尉義村、畠山次郎重忠、小山左衛門尉朝政、同七郎結城朝光、 足立左衛門尉遠元、 和田左衛門尉義盛、同兵衛尉常盛、比企右衛門尉能員、所右衛門尉朝光、 民部丞行光、葛西兵衛尉清重、八田左衛門尉知重、波多野小次郎忠綱、大井次郎実久、 若狹兵衛尉忠季、渋谷次郎高重、山内刑部丞経俊、宇都宮弥三郎頼綱、 榛谷四郎重朝、安達藤九郎盛長入道、 佐々木三郎兵衛尉盛綱入道、稲毛三郎重成入道、 藤九郎景盛、岡崎四郎義実入道、土屋次郎義清、 東平太重胤、土肥先次郎惟光、河野四郎通信、曽我小太郎祐綱、 二宮四郎、長江四郎明義、 諸二郎季綱、 天野民部丞遠景入道、工藤小次郎行光、右京進仲業等の御家人が鶴岡八幡宮の回廊に集まりました。これは、梶原平三景時に反対する事に一致団結して、心変わりをしないように誓い合うためなのです。

しばらくして、右京進仲業が訴状を持ってきて、集まった皆の中で、これを読み上げました。鶏を育てている者は、鳥の天敵の狸を飼いません。家畜を飼育している者は、天敵の山犬を育てません。と書いて載せています。三浦義村は、特にこの文句を気に入りましたとさ。それぞれ署名をしましたのが、六十六人でした。
ここで、被害者の結城七郎朝光の兄の長沼五郎宗政は、名前は書きましたが、花押を押しませんでした。弟を助けるために同僚が皆己の身を忘れ、賛同してくれているのに、実の兄が心を傾けないのはどうしたものでしょう。

その後、問題の連判状は、大江広元に託すことにして、和田左衛門尉義盛と三浦平六兵衛尉義村がこれを持って向かいました。

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吾妻鏡入門第十六巻

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