正治元年(1199)己未十二月小
正治元年(1199)十二月小九日丁夘。梶原平三景時自一宮所領歸參鎌倉。 |
読下し かじわらのへいざかげとき いちのみや しょりょうよ かまくら きさん
正治元年(1199)十二月小九日丁夘。
梶原平三景時 一宮の所領自り鎌倉へ歸參す。
現代語正治元年(1199)十二月小九日丁夘。梶原平三景時が、相模一の宮寒川神社から鎌倉へ戻りました。
正治元年(1199)十二月小十八日丙子。景時事。就諸人連署状。日來連々被經沙汰。遂今日被追出鎌倉中。和田左衛門尉義盛。三浦兵衛尉義村等奉行之。仍下向相摸國一宮。其後破却彼家屋。被寄附永福寺僧坊云々。 |
読下し かげとき
こと しょにん
れんしょじょう つ ひごろれんれん さた へ ら
正治元年(1199)十二月小十八日丙子。景時の事、諸人の連署状に就き、日來連々沙汰を經被る。
つい きょう かまくらちう おいださ
わだのさえもんのじょうよしもり みうらのひょうえのじょうよしむらら
これ ぶぎょう
遂に今日鎌倉中を追出被る。和田左衛門尉義盛、
三浦兵衛尉義村等 之を奉行す。
よっ さがみのくに
いちのみや
げこう そ のち か かおく はきゃく ようふくじ そうぼう きふ さる うんぬん
仍て相摸國
一宮へ下向す。其の後、彼の家屋を破却し、永福寺の僧坊に寄附被ると云々。
正治元年(1199)十二月小廿九日丁亥。以小山左衛門尉朝政。補播磨國守護職畢。住國家人等相從朝政。勤仕内裏大番。惣可致忠節也。朝政可沙汰事者。謀反殺害人事許也。相交國務。不可成敗人民訴訟。凡觸事不可煩國中住人之旨。被仰含云々。 |
読下し おやまのさえもんのじょうともまさ もっ はりまのくにしゅごしき ぶ をはんぬ
正治元年(1199)十二月小廿九日丁亥。
小山左衛門尉朝政 を以て、播磨國守護職@に補し畢。
くに
す けにんら ともまさ あいしたが だいりおおばん
きんじ そう ちうせつ いた べ
なり
國に住む家人等朝政に相從い、内裏大番に勤仕し、惣じて忠節を致す可き也。
ともまさ さた すべ ことは むほん
せつがいにん ことばか なり
朝政沙汰可き事者、謀反殺害人の事許り也。
こくむ あいまじ
じんみん そしょう
せいばい べからず およ こと ふ くにちう じゅうにん わずらは べからずのむね おお
ふく らる うんぬん
國務を相交へ、人民の訴訟を成敗す不可。凡そ事に觸れて國中の住人を
煩す 不可之旨、仰せ含め被ると云々。
参考@播磨の国の守護職は、おそらく梶原景時から取り上げた分であろう。
現代語正治元年(1199)十二月小二十九日丁亥。小山左衛門尉朝政を、播磨の国の守護職に任命しました。播磨の国に住む御家人は、京都御所警備の大番を勤務し、忠義を尽くしなさい。ただし、守護職の小山朝政の権限は、謀反人や殺害を犯した人を捕まえる役目だけです。国衙の政治に口を出したり、民事訴訟の裁判権を行使してはいけません。また、国内の住人達に余分な負担をかけてはいけませんと、良く言って聞かせましたとさ。
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