吾妻鏡入門第十六巻

正治二年(1200)庚申正月小

正治二年(1200)正月小 一日戊子。北條殿被献垸飯。

読下し                   ほうじょうどのおうばん けん  らる
正治二年(1200)正月小一日戊子。北條殿垸飯を献じ被る。

現代語正治二年(1200)正月小一日戊子。北條時政殿が、御馳走をふるまいました。

正治二年(1200)正月小 二日己丑。垸飯。千葉介常胤。

読下し                   おうばん  ちばのすけつねたね
正治二年(1200)正月小二日己丑。垸飯。千葉介常胤。

現代語正治二年(1200)正月小二日己丑。御馳走のふるまいは、千葉介常胤でした。

正治二年(1200)正月小 三日庚寅。垸飯。三浦介義澄沙汰也。

読下し                   おうばん  みうらのせけよしずみ  さた なり
正治二年(1200)正月小三日庚寅。垸飯。三浦介義澄が沙汰也。

現代語正治二年(1200)正月小日庚寅。御馳走のふるまいは、三浦介義澄が負担しました。

正治二年(1200)正月小 四日辛夘。兵庫頭廣元朝臣御垸飯。

読下し                   ひょうごのかみひろもとあそん おんおうばん
正治二年(1200)正月小四日辛夘。兵庫頭廣元朝臣が御垸飯。

現代語正治二年(1200)正月小四日辛卯。兵庫頭大江広元が、御馳走のふるまいでした。

正治二年(1200)正月小 五日壬辰。垸飯。八田右衛門尉知家沙汰也。

読下し                   おうばん  はったのうえもんのじょうともいえ  さた なり
正治二年(1200)正月小五日壬辰。垸飯。八田右衛門尉知家が沙汰也。

現代語正治二年(1200)正月小五日壬辰。御馳走のふるまいを、八田右衛門尉知家が負担しました。

正治二年(1200)正月小 六日癸巳。相摸守惟義朝臣垸飯也。

読下し                   さがみのかみこれよしあそん おうばんなり
正治二年(1200)正月小六日癸巳。相摸守惟義朝臣が垸飯也。

現代語正治二年(1200)正月小六日癸巳。相模守大内惟義が、御馳走のふるまいでした。

正治二年(1200)正月小 七日甲午。小山左衛門尉朝政垸飯也。」今日覽吉書。廣元朝臣奉行之。次有御弓始。二五度射之。有矢數。射手任例預祿。
 射手
一番 榛谷四郎重朝  八田六郎知尚
二番 小鹿嶋橘次公業 藤澤次郎C親
三番 工藤小次郎行光 加藤弥太郎光政

読下し                   おやまのさえもんのじょうともまさ おうばんなり
正治二年(1200)正月小七日甲午。小山左衛門尉朝政が垸飯也。」

きょう きっしょ  み     ひろもとあそん これ  ぶぎょう    つぎ おんゆみはじめあ    ふたごど これ  い     やかず あ      いて れい  まか  ろく  あず
今日吉書を覽る。廣元朝臣之を奉行す。次に 御弓始 有り。二五度之を射る。矢數有り。射手例に任せ祿に預かる。

   いて
 射手

いちばん はんがやつのしろうしげとも  はったのろくろうともなお
一番 榛谷四郎重朝   八田六郎知尚

 にばん おがしまのきつじきんなり   ふじさわのじろうきよちか
二番 小鹿嶋橘次公業  藤澤次郎C親

いちばん くどうのこじろうゆきみつ    かとういやたろうみつまさ
三番 工藤小次郎行光  加藤弥太郎光政

参考@加藤弥太郎光政は、加藤太光員の長男であろう。太郎の太郎は弥太郎。

現代語正治二年(1200)正月小七日甲午。小山左衛門尉朝政が御馳走のふるまいでした。今日、仕事始めで、将軍が縁起の良い文書を読む吉書始め式を行いました。大江広元が差配しました。次に弓始め式があり、2本づつ五回射ました。当たった矢の数が沢山でした。いつものように弓を射た者へ褒美が出ました。

 射手
一番 榛谷四郎重朝  対 八田六郎知尚
二番 小鹿島橘次公成 対 藤沢二郎清親
三番 工藤小次郎行光 対 加藤弥太郎光政

正治二年(1200)正月小 八日乙未。垸飯。結城七郎朝光沙汰之。」今日。營中心經會也。鶴岳供僧等參勤之。法眼行慈爲導師。

読下し                   おうばん  ゆうきのしちろうともみつこれ  さた
正治二年(1200)正月小八日乙未。垸飯。結城七郎朝光之を沙汰す。」

きょう   えいちう  しんぎょうえなり  つるがおかぐそうらこれ  さんきん   ほうげんぎょうじどうしたり
今日、營中の心經會也。鶴岳供僧等之を參勤す。法眼行慈導師爲。

現代語正治二年(1200)正月小八日乙未。御馳走のふるまいは、結城七郎朝光が負担をしました。今日、御所での般若心経を唱える会で、鶴岡八幡宮寺の坊さんが勤めに来ました。法眼行慈が指導僧です。

正治二年(1200)正月小 十三日庚子。リ。入夜雪下。殆盈尺。垸飯。土肥弥太郎沙汰也。迎故幕下將軍周闋御忌景。於彼法花堂。被修佛事。北條殿以下諸大名群參成市。佛。繪像釋迦三尊一鋪。阿字一鋪。〔以御臺所御除髪。被奉縫之。〕經。金字法華經六部。摺冩五部大乘經。
導師 葉上坊律師榮西 請僧十二口
 布施
  唱導師
   錦被物十重 綾被物廿重 帖絹百疋  染絹百端  綿千兩
   糸二千兩  白布百端  紺布百端  藍摺二百端 鞍置馬十疋
  加布施
   沙金三十兩 五衣一領
  請僧口別
   錦被物五重 綾十重   帖絹三十疋 染絹三十端 綿五百兩
   糸千兩   白布三十端 紺布三十端 藍摺百端  鞍馬三疋
此外。有百僧供。又伊豆國願成就院北隣者。幽靈在世御亭也。而今爲北條殿沙汰。被定佛閣。令奉安置阿弥陀三尊。并不動地藏等形像給云々。凡駿河伊豆相摸武藏等國中佛寺各修追善。於海道十五ケ國内可然輩。或堂舎。或營修善云々。

読下し                     はれ  よ   い   ゆきふ     ほと    しゃく  み       おうばん  といのいやたろう   さた なり
正治二年(1200)正月小十三日庚子。リ。夜に入り雪下る。殆んど尺に盈ちる。垸飯、土肥弥太郎が沙汰也。

こばっかしょうぐんしゅうけつ  ごきけい  むか    か   ほけどう   をい    ぶつじ  しゅうさる    ほうじょうどのいげ しょだいみょうぐんさん いち  な
故幕下將軍周闋の御忌景を迎へ、彼の法花堂に於て、佛事を修被る。北條殿 以下諸大名 群參し市を成す。

ほとけ   えぞう しゃかさんぞんいちほ   あじ いちほ  〔みだいどころおんじょはつ もっ     これ  ぬいたてまつらる  〕
佛は、繪像釋迦三尊一鋪。阿字一鋪〔御臺所御除髪を以て。之を縫奉被る。〕

きょう    こんじ ほけきょう ろくぶ    ごぶ  だいじょうきょう す   うつ
經は、金字法華經六部。五部の大乘經を摺り冩す。

どうし    ようじょうぼうりっしようさい  しょうそう じうにく
導師 葉上坊律師榮西 請僧十二口

   ふせ
 布施

    しょうどうし
  唱導師

      にしきのかずけものとえ  あやのかずけものふたとえ  ちょうけんひゃっぴき  そめぎぬひゃくたん  わたせんりょう
    錦被物十重   綾被物廿重   帖絹百疋  染絹百端  綿千兩

      いとにせんりょう      しらぶひゃくたん   こんふひゃくたん    あいずりにひゃくたん  くらおきうまじっぴき
   糸二千兩   白布百端   紺布百端   藍摺二百端  鞍置馬十疋

      かぶせ
  加布施

       さきんさんじうりょう  ごいいちりょう
   沙金三十兩 五衣一領(御衣)

    しょうそうくべつ
  請僧口別

      にしきのかずけものごえ  あやとえ   ちょうけんさんじっぴき  そめぎぬさんじったん  わたごひゃくりょう
    錦被物五重  綾十重  帖絹三十疋  染絹三十端  綿五百兩

      いとにせんりょう    しらぶさんじったん   こんふさんじったん  あいずりにひゃくたん  くらおきうまさんびき
   糸千兩   白布三十端  紺布三十端   藍摺百端   鞍馬三疋

こ   ほか  ひゃくそうぐあ    また  いずのくに がんじょうじゅいん  きたどなりは  ゆうれいざいせ  おんていなり
此の外、百僧供有り。又、伊豆國 願成就院の北隣者、幽靈在世の御亭也。

しか    いまほうじょうどの  さた   な     ぶっかく  さだ  られ   あみださんぞん なら   ふどう じぞうら  きょうぞう  あんちたてまつ せし  たま    うんぬん
而るに今北條殿の沙汰と爲し、佛閣を定め被阿弥陀三尊并びに不動地藏等の形像を安置 奉り令め給ふと云々。

およ  するが   いず   さがみ   むさしら   くにちう  ぶつじ おのおの ついぜん しゅう
凡そ駿河、伊豆、相摸、武藏等の國中の佛寺 各 追善を修す。

かいどうじうごかこくない   をい  しか  べ    やから ある    どうしゃ  ある    しゅぜん いとな   うんぬん
海道十五ケ國内に於て然る可きの輩、或いは堂舎、或いは修善を營むと云々。

現代語正治二年(1200)正月小十三日庚子。晴れです。夜になって雪が降り、一尺ばかりでした。御馳走のふるまいは、土肥弥太郎遠平が負担しました。故頼朝様の一周忌なので、法華堂で法事を行いました。北條時政殿を始めとする大名達が大勢集まりごったがえしていました。式典に飾った仏様は、絵に描かれた釈迦三尊が一服。南無阿弥陀仏の文字〔政子さまが髪の毛を縫って作りました〕の掛け軸。捧げたお経は、紺紙に金泥で書かれた法華經を六巻。五巻の大乗経を版木で摺り写したものです。指導僧は、葉上坊律師栄西で、お供の坊さんは十二人です。
 坊さんへのお布施は、
  お経を皆で唱える指導の僧には、
   錦織の被り物十枚、綾織の被り物二十枚、貨幣代わりの絹百匹(二百反)、染物の絹百反、真綿千両
   絹糸二千両、白い布百反、紺の布百反、藍の摺り染め二百反、鞍付の馬十頭
  おまけのお布施 砂金三十両、将軍の着物一枚
  お供の坊さん一人毎に、
   錦織の被り物五枚、綾織の被り物十枚、貨幣代わりの絹三十匹(六十反)、染物の絹三十反、真綿五百両
   絹糸千両、白い布三十反、紺の布三十反、藍の摺り染め百反、鞍付の馬三頭
この他にも、百人の坊さんによるお経もありました。また、伊豆国(韮山)の願成就院の北隣には、故頼朝様の別荘です。それを北條時政殿の負担で、お寺にして阿弥陀三尊とお不動様、お地蔵様の仏像を備え祀りましたとさ。それになんと、駿河・伊豆・相模・武蔵の国中のお寺で、法事を行いました。東海道十五か国内では、それ相応の武士の連中がお堂を建てたり、法事をしたりしましたとさ。

正治二年(1200)正月小 十五日壬寅。リ。佐々木左衛門尉定綱〔在京〕進垸飯。今日。可勤仕京都大番之由。被仰諸御家人。左衛門尉義盛奉行之。又去五日除書。今日參着。羽林件日敍從四位上。同八日聽禁色給云々。

読下し                     はれ  ささきのさえもんのじょうさだつな  〔ざいきょう  〕 おうばん  すす
正治二年(1200)正月小十五日壬寅。リ。佐々木左衛門尉定綱〔在京す〕垸飯を進む。

きょう    きょうとおばんやく  きんすべ  のよし  しょごけにん  おお  らる  さえもんのじょうよしもりこれ  ぶぎょう
今日、京都大番を勤仕可き之由、諸御家人に仰せ被、左衛門尉義盛之を奉行す@

また  さんぬ いつか  じしょ  きょうさんちゃく
又、去る五日の除書。今日參着す。

うりん くだん ひ じゅしいじょう  じょ    おな    ようか きんじき  ゆる  たま    うんぬん
羽林件の日從四位上に敍す。同じき八日禁色Aを聽し給ふと云々。

参考@義盛之を奉行すは、景時の失脚で侍所別当に返り咲いている。
参考A
禁色は、朝廷が着る物の色(紫、赤など)を一定の身分に限っている。

現代語正治二年(1200)正月小十五日壬寅。晴れです。佐々木左衛門尉定綱〔京都駐在です〕の負担で御馳走のふるまいをしました。今日、京都御所の警備の大番役を勤めるように御家人達に命じました。和田左衛門尉義盛が侍所長官として担当します。また、先日の五日の京都朝廷の任命書が、今日届きました。頼家様は、従四位上を与えられ、同じ八日付で朝廷が決めている身分の高い人の着る物の色を許可されましたとさ。

正治二年(1200)正月小 十八日乙巳。深雪風烈。中將家令出大庭野給。稻村崎以南(西乃間違カ)。江浦景氣。長途催興。到彼野押立蹈之。禽獸不知其員。此間。波多野次郎經朝〔忠綱男〕射二狐。數十騎雖並轡。獨顯兩疋飮羽之号。工藤小次郎行光亦以一箭射二翼。共以堪感。還御及晩。今日垸飯者。畠山次郎重忠所役也。以之。暮御駄餉。搆金洗澤。仍於其所。至昏黒有盃酒之儀。召經朝。行光等。各賜御馬一疋御劔一腰。依令感射藝給也。

読下し                     ふか  ゆきかぜはげ   ちうじょうけ おおばの  い   せし  たま
正治二年(1200)正月小十八日乙巳。深い雪風烈し。中將家大庭野へ出で令め給ふ。

いなむらがさきいせい  えのうらけしき  ちょうと  きょう もよお
稻村崎以西の、江浦景氣、長途に興を催す。

か   の   いた  これ  おったてぶ    きんじゅう そ  かず  し   ず   こ   かん  はたののじろうつねとも 〔 ただつな   だん 〕   にこ   い
彼の野に到り之を押立蹈む@。禽獸 其の員を知ら不。此の間、波多野次郎經朝〔忠綱が男〕二狐を射る。

すうじっきくつわ  なら     いへど    ひと  りょうひきはね の   のごう  あらは
數十騎轡を並べると雖も、獨り兩疋羽を飮む之号を顯す。

くどうのこじろうゆきみつまたもっ  ひとや  ふたよく  い    とも  もっ  かん  た       ばん  およ  かんご
工藤小次郎行光亦以て一箭で二翼を射る。共に以て感に堪える。晩に及び還御す。

きょう    おうばんは  はたけやまのじろうしげただ しょやくなり  これ  もっ    ゆうべ  ごだしゅう  かねあらいさわ かま
今日の垸飯者、 畠山次郎重忠 の所役也。之を以て、暮の御駄餉を金洗澤に搆う。

よっ  そ  ところ  をい    たそがれ いた  はいしゅのぎ あ
仍て其の所に於て、昏黒に至り盃酒之儀有り。

つねとも  ゆきみつら   め   おのおの おんうまいっぴき  ぎょけんひとこし たま      しゃげい  かん  せし  たま    よっ  なり
經朝、行光等を召し、 各  御馬一疋、御劔一腰を賜はる。射藝を感じ令め給ふに依て也。

参考@押立蹈むは、勢子が追い立ててきた。

現代語正治二年(1200)正月小十八日乙巳。大雪が降り風が強い。中将頼家様は、大庭の野原へ出かけられました。稲村ケ崎から西の江の島までの景色が長々と風情を掻き立てます。大庭野へ着いて、勢子が追い立ててきた、獲物は数えきれぬほど沢山いました。その狩の最中に波多野次郎経朝〔波多野小次郎忠綱の息子〕が狐二匹を同時に射ました。数十騎も腕達者が揃っている中で、一人「一発二羽射とめ」の名を上げました。そしたらなんと、工藤小次郎行光もまた、一本の矢で二羽の鳥を射ました。双方ともにお褒めに預りました。晩になってお帰りです。今日の御馳走のふるまいは、畠山次郎重忠の請負です。この御馳走を夕餉として、金洗沢(七里ヶ浜)に用意しました。そこでその場所で、暗くなっていましたが宴会をしました。経朝と行光をお呼びになり、それぞれに馬一頭と太刀一振りを褒美に与えられました。弓の芸に感激されたからです。

正治二年(1200)正月小 廿日丁未。リ。辰剋。原宗三郎進飛脚。申云。梶原平三郎景時。此間於當國一宮搆城郭。備防戰之儀。人以成恠之處。去夜丑剋。相伴子息等。倫遜出此所。是企謀反。有上洛聞云々。仍北條殿。兵庫頭。大夫属入道等參御所。有沙汰。爲追罸之。被遣三浦兵衛尉。比企兵衛尉。糟谷藤太兵衛尉。工藤小次郎已下軍兵也。亥剋。景時父子到駿河國C見關。而其近隣甲乙人等爲射的群集。及退散之期。景時相逢途中。彼輩恠之。射懸箭。仍廬原小次郎。工藤八。三澤小次郎。飯田五郎追之。景時返合于狐崎。相戰之處。飯田四郎等二人被討取畢。又吉香小次郎。澁河次郎。船越三郎。矢部小次郎。馳加于廬原。吉香相逢于梶原三郎兵衛尉景茂〔年卅四〕。互令名謁攻戰。共以討死。其後。六郎景國。七郎景宗。八郎景則。九郎景連等並轡調鏃之間。挑戰難决勝負。然而漸當國御家人等竸集。遂誅彼兄弟四人。又景時并嫡子源太左衛門尉景季。〔年卅九〕同弟平次左衛門尉景高〔年卅六〕。引後山相戰。而景時。景高。景則等雖貽死骸。不獲其首云々。

読下し                    はれ たつのこく  はらのむねさぶろう ひきゃく すす    もう    い
正治二年(1200)正月小廿日丁未。リ。辰剋。 原宗三郎@飛脚を進め、申して云はく。

 かじわらのへいざかげとき  こ  かんとうごくいちのみや をい じょうかく かま    ぼうせんのぎ  そな
梶原平三郎景時。此の間當國一宮に於て城郭を搆へ、防戰之儀に備う。

 ひともっ  あやし な   のところ  さんぬ ようしのこく  しそくら  あいともな   ひそか こ  ところ  のが  いで    これ むほん くはだ    じょうらく きこ  あ     うんぬん
人以て恠み成す之處、去る夜丑剋、子息等を相伴い、倫に此の所を遜れ出る。是謀反を企て、上洛の聞へ有りと云々。

よっ ほうじょうどの ひょうごのかみ たいふさかんにゅうどうらごしょ  まい     さた あ
仍て北條殿、兵庫頭、大夫属入道等御所へ參り、沙汰有り。

これ  ついばつ   ため みうらのひょうえのじょう ひきのひょうえのじょう かすやのとうたひょうえのじょう  くどうのこじろう いか   ぐんぴょう つか  さる  なり
之を追罸せん爲、 三浦兵衛尉、 比企兵衛尉、 糟谷藤太兵衛尉A、工藤小次郎已下の軍兵を遣は被る也。

いのこく  かげときおやこ するがのくに きよみぜき  いた
亥剋、景時父子 駿河國 C見關Bに到る。

しか    そ   きんりん  とこうにんら いまと  ためぐんしゅう   たいさんのご  およ    かげときとちゅう  あいあ
而るに其の近隣の甲乙人等射的の爲群集す。退散之期に及び、景時途中に相逢う。

か  やからこれ あやし   や   いかけ     よっ   いはらのこじろう  くどうのはち  みさわのこじろう  いいだのごろうこれ  お
彼の輩之を恠み、箭を射懸る。仍て廬原小次郎C、工藤八、三澤小次郎D、飯田五郎E之を追う。

かげとききつねざき にかえ あわ  あいたたか のところ いいだのしろうら  ふたり う  とられをはんぬ
景時狐崎F于返し合せ、相戰う之處、飯田四郎G等二人討ち取被畢。

また  きっかわのこじろう  しぶかわのじろう ふなこしのさぶろう  やべのこじろう  あしわらに は  くわ
又、吉香小次郎H、澁河次郎I、船越三郎J、矢部小次郎K廬原于馳せ加はる。

きっかわ  かじわらさぶろうひょうえのじょうかげもち 〔としさんじうし〕 に あいあ      たが    な   なのりせし こうせん     とも  もっ   うちじ
吉香、 梶原三郎兵衛尉景茂 〔年卅四〕于相逢う。互いに名を謁令め攻戰す。共に以て討死ぬ。

 そ  ご   ろくろうかげくに  しちろうかげむね  はちろうかげのり くろうかげつらら くつわ なら やじり ととの のかん  ちょうせんしょうぶ  けっ  がた
其の後、六郎景國、七郎景宗、八郎景則、九郎景連等轡を並べ鏃を調う之間、挑戰 勝負を决し難し。

しかれども ようや とうごく  ごけにんら きそ  あつ      つい  か  きょうだいよにん  ちう
然而、漸く當國の御家人等竸い集まり、遂に彼の兄弟四人を誅す。

また  かげときなら   ちゃくしげんたさえもんのじょうかげすえ 〔としさんじうく〕 おな   おとうろへいじさえもんのじょうかげたか 〔としさんじうろく〕 うしろやま ひ  あいたたか
又、景時并びに嫡子 源太左衛門尉景季 〔年卅九〕同じき弟 平次左衛門尉景高 〔年卅六〕後山に引き相戰う。

しか    かげとき  かげたか  かげのりら しがい  のこ   いへど   そ   くび   えず   うんぬん
而して景時、景高、景則等死骸を貽すと雖も、其の首を獲不と云々。

参考@原宗三郎は、相模国原郷、神奈川県足柄下郡湯河原町吉浜字原。
参考A
糟谷藤太兵衛尉は、相模国糟屋庄、神奈川県伊勢原市下糟屋。
参考BC見關は、静岡県静岡市清水区興津清見寺町。
参考C
廬原小次郎は、静岡県静岡市清水区庵原町(いはらちょう)らしい。
参考D三澤小次郎は、静岡県静岡市清水区宮加三(みやかみ)。
参考E飯田五郎は、静岡県静岡市清水区石川の屋敷に移っている。
参考F狐崎は、静岡県静岡市清水区吉川(きっかわ)と上原一丁目の境に静岡鉄道「狐ケ崎駅」あり、同平川地に狐崎郵便局あり。
参考G飯田四郎は、異本に次郎ともある。
参考H吉香小次郎は、静岡県静岡市清水区吉川(きっかわ)。
参考I澁河次郎は、静岡県静岡市清水区渋川。
参考J船越三郎は、静岡県静岡市清水区船越。船越町。船越南町。
参考K矢部小次郎は、静岡県静岡市清水区北矢部、南矢部、北矢部町、中矢部町。

現代語正治二年(1200)正月小二十日丁未。晴れです。辰の刻(午前八時頃)原宗三郎宗房が伝令をよこして報告しました。「梶原平三景時が、先日来相模一の宮で砦を構えて、防戦の支度をしておりました。皆この様子を怪しいとにらんでいたところ、昨夜丑の刻(午前二時頃)に子供達を一緒に連れて、そっとそこから逃げ出しました。これは鎌倉幕府へ謀反をするために、京都へ上るらしいと評判です」とのことでした。

そこで、北條時政殿(遠江守護)・兵庫頭大江広元・大夫属入道三善善信達が御所へ集まり、裁定がありました。この梶原景時を征伐するために、三浦平六兵衛尉義村・比企右衛門尉能員・糟谷藤太兵衛尉有季・工藤小二郎行光を始めとする軍隊を派遣しました。

亥の刻(午後十一頃)、梶原平三景時親子は、駿河国清見関に来かかると、その近辺の侍たちが的当て競技のため集まっていましたが、解散しようとした時に、景時達と出会いました。駿河の連中は、一行を怪しんで弓を射始め、廬原小次郎・工藤八郎・三沢小次郎・飯田五郎家義が、これを追いかけました。景時一行は、狐崎へ取って返し戦いあったところ、飯田四郎など二人を打ち取りました。そこへ、吉川小次郎・渋川次郎・船越三郎・矢部小次郎が、走って来て廬原に加勢しました。

吉川は、梶原三郎兵衛尉景茂〔年三十四〕に出会ったので、お互いに名を名乗り合って戦いましたが、相打ちになって共に死にました。その後、六郎景国・七郎景宗・八郎景則・九郎景連達は、馬の轡を並べて弓箭を射て、戦いましたが決着はつきません。しかし、駿河の御家人達が大勢先を争って集まってきたので、ついに兄弟四人とも討死をしてしましました。又、景時と跡継ぎの源太左衛門尉景季〔年三十九〕それに弟の梶原平次左衛門尉景高〔年三十六〕は、後ろの山へ引きのきながら戦いました。その結果、景時・景高・景則は、死体は残っていましたが、首が見つからなかったそうです。

正治二年(1200)正月小 廿一日戊申。巳剋。於山中搜出景時并子息二人之首。凡伴類三十三人。懸頚於路頭云々。

読下し                     みのこく  さんちう  をい  かげときなら    しそくふたりの くび  さが  いだ
正治二年(1200)正月小廿一日戊申。巳剋。山中に於て景時并びに子息二人之首を搜し出す。

およ  ばんるいさんじうさんにん  くびを ろとう  か      うんぬん
凡そ伴類@三十三人。頚於路頭に懸けると云々。

参考@伴類は、将門記に登場する伴類は自分の家にいて呼ばれて集まる戦闘力。(主人の屋敷に常住し戦闘力を持つのは家子と郎党だが将門記にこの単語は無い)

現代語正治二年(1200)正月小二十一日戊申。巳の刻(午前十時頃)に、山の中で梶原平三景時と子供二人の首を探し出しました。だいたい一味が三十三人で、その首を道端にさらしましたとさ。

正治二年(1200)正月小 廿三日庚戌。相摸介平朝臣義澄卒。〔年七十四〕三浦大介義明男。」酉剋。駿河國住人并發遣軍士等參着。各献合戰記録。廣元朝臣於御前讀申之。其記云。
 正治二年正月廿日於駿河國。追罸景時父子同家子郎等事
一 廬原小次郎最前追責之。討取梶原六郎。同八郎
一 飯田五郎〔手ニ〕   討取二人。〔景茂郎等〕
一 吉香小次郎      討取三郎兵衛尉景茂。〔手討〕
一 澁河次郎〔手ニ〕   討取梶原平三家子四人。
一 矢部平次〔手ニ〕   討取源太左衛門尉。平二左衛門尉。狩野兵衛尉。已上三人。
一 矢部小次郎      討取平三。
一 三澤小次郎      討取平三武者。
一 船越三郎       討取家子一人。
一 大内小次郎      討取郎等一人。
一 工藤八〔手ニ〕工藤六  討取梶原九郎。
    正月廿一日
人々云。景時兼日。駿河國内吉香小次郎。第一勇士也。密若欲上洛之時。於過彼男家前者。不可有怖畏之由發言云々。

読下し                     さがみのすけたいらのあそんよしずみそつ  〔とししちじうし〕    みうらのおおすけよしあき だん
正治二年(1200)正月小廿三日庚戌。相摸介 平朝臣 義澄卒す〔年七十四〕。三浦大介義明が男。」

とりのこく するがのくにじうにんなら   はっけん  ぐんしら さんちゃく    おのおの かっせん きろく  けん
酉剋、駿河國住人并びに發遣の軍士等參着す。 各 合戰の記録を献ず。

ひろもとあそん ごぜん  をい  これ  よ   もう    そ   き   い
廣元朝臣御前に於て之を讀み申す。其の記に云はく。

  しょうじにねんしょうがつはつか するがのくに  をい   かげときおやこおな    いえのころうとう  ついばつ   こと
 正治二年正月廿日 駿河國に於て、景時父子同じく家子郎等を追罸する事

ひとつ  いはらのこじろう さいぜん  これ  お   せ     かじわらろくろう  おな    はちろう  う   と
一  廬原小次郎最前に之を追い責む 梶原六郎、同じき八郎を討ち取るB

ひとつ いいだのごろう    〔 てに 〕        ふたり  〔かげもちろうとう〕     う   と
一  飯田五郎が〔手ニ〕    二人〔景茂郎等〕を討ち取る

ひとつ きっかわのこじろう               さぶろうひょうえのじょうかげもち 〔てうち〕    う   と
一  吉香小次郎       三郎兵衛尉景茂 〔手討〕を討ち取る

ひとつ しぶかわのじろう   〔 てに 〕        かじわらのへいざ いえのこよにん  う   と
一  澁河次郎が〔手ニ〕   梶原平三が家子四人を討ち取る

ひとつ やべのへいじ     〔 てに 〕        げんたさえもんのじょう  へいじさえもんのじょう  かのうのひょうえのじょう  いじょうさんにん  う   と
一  矢部平次が〔手ニ〕   源太左衛門尉、平二左衛門尉@、 狩野兵衛尉、 已上三人を討ち取る

ひとつ やべのこじろう                 へいざ   う   と
一  矢部小次郎       平三を討ち取る

ひとつ みさわのこじろう                へいざ   むしゃ   う   と
一  三澤小次郎       平三が武者を討ち取る

ひとつ ふなこしのさぶろう               いえのこひとり  う   と
一 船越三郎         家子一人を討ち取る

ひとつ おおうちのこじろう               ろうとうひとり    う   と 
一  大内小次郎A       郎等一人を討ち取る

ひとつ くどうのはち   〔 てに 〕 くどうのろく    かじわらのくろう  う   と
一  工藤八が〔手ニ〕工藤六  梶原九郎を討ち取る

         しょうがつにじういちにち

    正月廿一日

参考@平二左衛門尉は、実は死んでない。
参考A大内小次郎は、静岡県静岡市清水区大内。

ひとびと い      かげときけんじつ するがこくないきっかわのこじろう   だいいち  ゆうしなり
人々云はく。景時兼日、駿河國内吉香小次郎は、第一の勇士也。

ひそか も  じょうらく  ほっ    のとき   か おとこ  いえ  まえを す    ば    ふい あ   べからずのよし  はつげん   うんぬん
密に若し上洛を欲する之時、彼の男の家の前於過ぎれ者、怖畏有る不可之由を發言すと云々。

現代語正治二年(1200)正月小二十三日庚戌。相模国の次官、平義澄が亡くなりました。〔年は七十四〕。三浦大介義明の息子です。

酉の刻(午後六時頃)に、駿河の侍たちと派遣した軍隊が帰り着きました。それぞれ、戦いの記録を差し出しました。大江広元が将軍頼家の前で読み上げました。その記録に書いてあるのは、
 正治二年正月二十日 駿河国で、梶原平三景時親子と身内と手下を追いかけて滅ぼした事
一 
廬原小次郎が真っ先に敵を追い込んで、梶原六郎景国・八郎景則を打ち取りました。
一 飯田五郎家義の手先が、二人〔梶原三郎兵衛尉景茂の手下〕を打ち取りました。
一 吉川小次郎は、梶原三郎兵衛尉景茂〔刀で手打ちにした〕を打ち取りました。
一 渋川次郎の手先が、梶原平三景時の身内四人を打ち取りました。
一 矢部平次の手先が、梶原源太左衛門尉景季、梶原平次左衛門尉景高、狩野兵衛尉の以上三人を打ち取りました。
一 矢部小次郎は、梶原平三景時を打ち取りました。
一 三沢小次郎は、梶原平三景時の共侍を打ち取りました。
一 船越三郎は、梶原平三景時の身内を一人を打ち取りました。
一 大内小次郎は、梶原平三景時の手下一人を打ち取りました。
一 工藤八郎の手先と工藤六郎は、梶原九郎景連を打ち取りました。
    正月二十一日

人々が噂をするのには、梶原平三景時は予ねて、「駿河国内の吉川小次郎は、国内一番の勇者なので、万が一秘密に京都へ上るときには、彼の家の前を通り過ぎれば、恐いものはない」と発言していたそうです。

説明B討ち取るは、「手討」とわざわざ断りがあるので、刀で討ち果たすより、弓で射取るのが一般的なようだ。

正治二年(1200)正月小 廿四日辛亥。安達源三親長爲使節上洛。被誅景時之由依被申也。御教書云。平景時有用意事之由。依有其聞。加誅罸候畢。伴類多在京云々。仍可搜求之旨。所下知惟義。廣綱等候也者。廣元朝臣書之。」今日加藤次景廉被収公所領。是与景時依爲朋友也。

読下し                     あだちのげんざちかなが しせつ  な  じょうらく    かげときちうさる  のよし  もうさる     よっ  なり
正治二年(1200)正月小廿四日辛亥。安達源三親長使節と爲し上洛す。景時誅被る之由を申被るに依て也。

みぎょうしょ  い
御教書@に云はく。

たいらのかげとき ようい   こと あ   のよし   そ   きこ  あ     よっ    ちうばつ  くは そうら をはんぬ ばんるいおお ざいきょう   うんぬん
 平景時 用意の事有る之由、其の聞へ有るに依て、誅罸を加へ候ひ畢。 伴類多く在京すと云々。

よっ  さが  もと    べ   のむね  これよし  ひろつなら   げち そうら ところなりてへ     ひろもとあそん これ  か
仍て搜し求める可し之旨、惟義、廣綱等に下知候う所也者れば、廣元朝臣之を書く。」

きょう   かとうじかげかどしょりょう  しゅうこうさる    これ  かげときと ほうゆう   な     よっ  なり
今日、加藤次景廉所領を収公被る。是、景時与朋友を爲すに依て也。

参考@御教書には、現時的効力(時限)がある。下知状(or下文)や裁許状には時限がない。所領安堵の場合に惣領へは下文で庶子へは下知状。参考収公は、地頭職を公に収めるので、幕府へ取り上げる。

現代語正治二年(1200)正月小二十四日辛亥。安達源三親長が使者として京都へ上ります。これは梶原景時が滅ぼされたことを六波羅へ知らせるためです。その命令書には、

 平景時が、謀反の用意をしていると聞いたので、罰を与えました。仲間が沢山京都にいるそうです。そこで、探し出して捕まえるように、大内相模守惟義と廣綱が、将軍の命令を伝えたので、大江広元がこれを書きました。

今日、加藤次景廉が領地を取り上げられました。これは、梶原平三景時と親友だからです。

正治二年(1200)正月小 廿五日壬子。細雨屡灑。入夜属リ。今日被収公美作國守護職已下景時父子所領等。駿河國住人等。今度竭合戰之忠節之輩。各蒙勳功之賞。亦比企兵衛。糟谷兵衛同蒙賞。未到以前。景時雖被誅。依追罸使之賞。如此云々。及晩。景時弟刑部丞友景爲降人。參北條殿御亭。付工藤小次郎行光。献兵具云々。

読下し                       さいう しばし そそ    よ   い   はれ  しょく
正治二年(1200)正月小廿五日壬子。細雨屡ば灑ぐ。夜に入りリに属す。

きょう みまさかのくにしゅごしき いげ   かげときおやこ  しょりょうら  しゅうこうさる
今日美作國守護職已下の景時父子の所領等を収公被る。

するがのくにじうにんら  このたび  かっせんのちうせつ つく  のやから  おのおの くんこうのしょう  こうむ
駿河國住人等、今度の合戰之忠節を竭す之輩、 各 勳功之賞を蒙る。

また  ひきのひょうえ  かすやのひょうえおな   しょう  こうむ
亦、比企兵衛、糟谷兵衛同じく賞を蒙る。

いま  いた      いぜん    かげときちうさる   いへど   ついばつしのしょう  よっ    かく  ごと    うんぬん
未だ到らざる以前に、景時誅被ると雖も、追罸使之賞に依て、此の如くと云々。

ばん  およ    かげとき おとうとぎょうぶのじょうともかげ こうじん な     ほうじょうどの おんてい まい
晩に及び、景時が弟 刑部丞友景 降人と爲し、北條殿の御亭へ參る。

くどうのこじろうゆきみつ   ふ     ひょうぐ  けん    うんぬん
工藤小次郎行光に付し、兵具を献ずと云々。

現代語正治二年(1200)正月小二十五日壬子。小雨がしとしとと降っておりましたが、夜になって晴れました。今日、美作国の守護職を始めとする梶原平三景時親子の領地を取り上げました。駿河国地侍達は、今度の合戦で幕府に忠義を尽くしたので、それぞれに恩賞を与えられました。又、比企兵衛と糟谷藤太兵衛尉有季も、同様に恩賞に預りました。現地へ駆けつける前に、景時は殺されてしまいましたが、公式な追手の追罸使となった恩賞としてこのようにされましたとさ。晩になって、梶原平三景時の弟の梶原刑部烝朝景が、自首をして北條時政殿の屋敷へ出頭し、工藤小次郎行光を通して武器を差し出しましたとさ。

正治二年(1200)正月小 廿六日癸丑。糟谷藤太兵衛尉有季生虜進安房判官代隆重。是景時朋友也。日來加一宮城郭。即相具至駿河國。合戰之刻。聊被疵。其夜昇樹上。翌日軍士等分散之後。出里邊之處。有季郎從等獲之云々。

読下し                      かすやのとうたひょうえのじょうありすえ あはのほうがんだいたかしげ   いけど   しん    これ  かげとき  ほうゆうなり
正治二年(1200)正月小廿六日癸丑。 糟谷藤太兵衛尉有季、 安房判官代隆重 を生虜り進ず。是、景時の朋友也。

ひごろ いちのみや じょうかく  くは     すなは あいぐ  するがのくに いた    かっせんのとき  いささ きずさる   そ   よ きのうえ  のぼ
日來、一宮の城郭に加はり、即ち相具し駿河國に至り、合戰之刻、聊か疵被る。其の夜樹上に昇る。

よくじつ  ぐんしら ぶんさんののち  さとへん  いで  のところ  ありすえ ろうじゅうらこれ  え     うんぬん
翌日、軍士等分散之後、里邊に出る之處、有季が郎從等之を獲ると云々。

現代語正治二年(1200)正月小二十六日癸丑。糟谷藤太兵衛尉有季が、安房判官代高重を捕まえて差し出しました。この人は、梶原平三景時の親友です。ここの所、一宮の梶原平三景時の砦に加わってすぐに、一緒に駿河げ行き、合戦で多少けがをしました。その夜は木の上に上って、翌日武士たちがいなくなってから、里へ出て来たところを、糟谷藤太有季の部下たちが、捕まえたそうです。

正治二年(1200)正月小 廿八日乙夘。リ陰。入夜。伊澤五郎信光自甲斐國參上。申云。武田兵衛尉有義請景時之約諾。密欲上洛之由。依聞其告。爲尋子細。發向彼舘之處。遮而有申言歟之間。兼以逃亡。不知行方。於室屋敢無人。只有一封之書。披見之處。景時状也。同意之條勿論云々。凡景時誇二代將軍家寵愛。振傍若無人之威。多年積惡。遂皈其身之間。爲諸人向背也。仍挿逆叛之思。且爲經奏聞。且爲語鎭西之士。擬上洛之刻。恃日來芳契。重源家舊好兮。以彼武衛。爲立大將軍。所送之書札。自然落置舊宅也云々。

読下し                      はれくも    よ   い     いさわのごろうのぶみつ かいのくによ  さんじょう   もう    い
正治二年(1200)正月小廿八日乙夘。リ陰り。夜に入り。伊澤五郎信光 甲斐國自り參上す。申して云はく。

たけだのひょうえのじょうありよし かげときのやくだく  う     ひそか じょうらく     ほっ  のよし  そ   つげ  き     よっ    しさい  たず    ため
 武田兵衛尉有義、 景時之約諾を請け、密に上洛せんと欲す之由、其の告を聞くに依て、子細を尋ねん爲、

か  やかた はっこう    のところ  さへぎ て しんげんあ  か のかん  かね  もっ  とうぼう    いくえ  しらず   しつおく  をい    あえ  ひとな
彼の舘へ發向する之處、遮っ而申言有る歟之間、兼て以て逃亡し、行方を知不。室屋に於ては敢て人無し。

ただいっぷうの しょあ     ひら  み   のところ  かげとき じょうなり  どういのじょうもちろん  うんぬん
只一封之書有り。披き見る之處、景時の状也。同意之條勿論と云々。

およ かげとき にだい  しょうぐんけ ちょうあい ほこ    ぼうじゃくぶじんの い  ふる
凡そ景時二代の將軍家の寵愛を誇り、傍若無人之威を振い

たねん  せきあく  つい  そ   み   かえ  のかん  しょにんきょうはい な  なり
多年の積惡、遂に其の身に皈る之間、諸人向背を爲す也。

よっ  ぎゃくほんのおも  さしはさ   かつう そうもん  へ   ため  かつう ちんぜいのし  かた    ため  じょうらく なぞら のとき  ひごろ  ほうきつ  たの
仍て逆叛之思いを挿み、且は奏聞を經ん爲、且は鎭西之士に語らん爲、上洛を擬う之刻、日來の芳契を恃み、

げんけ  きゅうこう  おも    て    か   ぶえい  もっ    だいしょうぐん  た    ため  おく  ところのしょさつ  じねん  きゅうたく  おと  お   なり  うんぬん
源家の舊好を重んじ兮彼の武衛を以て、大將軍に立てん爲、送る所之書札、自然に舊宅に落し置く也と云々。

現代語正治二年(1200)正月小二十八日乙卯。晴れたり曇ったりです。夜になって、石和五郎信光が、甲斐の国からやってきて報告しました。「武田兵衛尉有義は、梶原平三景時との約束を受けて、内緒で京都へ上ろうとしていると聞いたので、詳しく尋ねるためにその屋敷へ向かったところ、間違いだとの話があるかと思いましたが、すでに逃げ去った後で行方が分かりませんし、建物には人がおりませんでした。但し、一通の手紙があったので開いてみると、景時からの手紙でした。同意したのは明白です。」とのことでした。だいたい景時は、将軍二代に可愛がられて、頭に乗って勝手な権力をふるったので、長い間人々の恨みを買って、それがついにその身に振り返って来たので、皆そっぽを向いて敵側にまわったのです。そこで、鎌倉幕府に叛逆するために天皇の許可を得ようと、九州地方の武士を誘うために、京都へ行こうとしたのです。又、普段から仲良しなので、源氏に縁のある武田有義を将軍に立てようと企てて出した手紙が、思いもよらず武田有義の屋敷に落としていったのでしたとさ。

二月へ

吾妻鏡入門第十六巻

inserted by FC2 system