吾妻鏡入門第十七巻

建仁元年辛酉(1201)五月小

建仁元年(1201)五月小六日乙夘。昨日。佐々木中務入道經蓮以子息高重。捧一通款状〔去月廿一日状〕今日遠州以善信令披露彼状給。是於身雖無所犯。依傍人之讒。蒙御氣色之條。含愁訴云々。其旨趣。初謝無科之旨。後載數度勳功。去年七月致用心事。大和國賊首等企謀叛。群集王城之由。就諸方之告。召聚淡路阿波土佐三ケ國御家人等。頗可謂忠節歟。随而當彼時。号圓識法師者巧叛逆。縡顯露之間。爲伊賀新平内被生虜。令怖畏經蓮之用心。不達宿望之條。揚焉也云々。謂勲功者。關東草創最初。令誅大夫尉兼隆給之時。經蓮兄弟四人。列討手人數以降。至世屬靜謐之今。度々忘身弃命破敵陣云々。爰被究評儀之淵源。被免云々。但於所領等者。只今不被返付云々。

読下し                   さくじつ  ささきのなかつかさのにゅうどうきょうれん しそくたかしげ  もつ  いっつう  かんじょう 〔さんぬ つきにじういちにち  じょう〕  ささ
建仁元年(1201)五月小六日乙卯。昨日、佐々木中務入道経蓮@、子息高重を以て一通の款状去る月二十一日の状を捧ぐ。

きょう えんしゅうぜんしい もっ  か  じょう  ひろう せし  たま
今日遠州善信を以て彼の状を披露令め給ふ。

これ み  をい  しょはん な    いへど  かたわ ひとの ざん  よっ  みけしき  こうむ のじょう  しゅうそせし    うんぬん
是身に於て所犯無しと雖も、傍ら人之讒に依て御気色を蒙る之條、愁訴令むと云々。

 そ  ししゅ  はじめ とが な    むね  しゃ    のち  すうど  くんこう  の
其の旨趣、初に科無きの旨を謝し、後に數度の勲功を載す。

きょねんしちがつようじん いた  こと  やまとのくに ぞくしゅら むほん  くはだ おうじょう ぐんしゅう   のよし  しょほうの つげ  つ
去年七月用心を致す事、大和国の賊首等謀叛を企て王城に群集する之由、諸方之告に就き、

あわじ   あわ     とさ さんかこく    ごけにんら   め   あつ   すこぶ ちうせつ  い   べきか
淡路、阿波、土佐參箇国の御家人等を召し聚む。頗る忠節と謂う可歟。

したが   か   とき  あた    えんしょくほっし  ごう    ものほんぎゃく たく   こと ろけん    のかん   いが  しんへいない  ため  いけどら
随いて彼の時に當り、圓識法師と号する者叛逆を巧む。縡露顕する之間、伊賀の新平内が為に生虜る。

きょうれんのようじん   ふい せし   すくぼう  たっせずのじょう  けちえんなり うんぬん
経蓮之用心を怖畏令め、宿望を不達之條、掲焉也と云々。

くんこう  い   は   かんとうそうそう  さいしょ  たいふのじょうかねたか ちうせし たま のとき きょうれんきょうだいよにん  うって  にんずう  れっ    いこう
勲功と謂う者、關東草創の最初、大夫尉兼隆を誅令め給ふ之時、経蓮兄弟四人、討手の人数に列する以降、

よ せいひつ ぞく  のいま  いた        たびたびみ  わす  いのち す  てきじん やぶ    
世静謐に属す之今に至るまで、度々身を忘れ命を棄て敵陣を破る。

ここ  ひょうぎ  えんげん きは  られ  めん  られ    うんぬん  ただ  しょりょうら  をい  は   ただいま  かえ  つ   ず   うんぬん
爰に評議の淵源を究め被、免ぜ被ると云々。但し所領等に於て者、只今は返し付け不と云々。

参考@佐々木中務入道経蓮は、佐々木四兄弟の佐々木次郎經高。

現代語建仁元年(1201)五月小六日乙卯。昨日、佐々木仲務丞経高入道経蓮が、息子の高重を使って一通の嘆願書〔先月二十一日の書面〕を提出しました。今日、遠州北條時政殿が三善善信を担当させて、その嘆願書を将軍頼家に披露しました。内容は、身に覚えのない罪を、仲間のでっち上げの悪口で、将軍様のお怒りをかってしまったことを嘆き訴えております。その文章は、最初の方は罪がないことを弁解しており、後の方は過去の手柄を書き並べております。「去年の七月に配慮した事は、大和国の悪者の親分が叛逆をたくらんで京都へ集まると、あちこちから噂を聞き、淡路・阿波・土佐の三カ国の御家人達を守護として軍勢催促で呼び集めたのです。これはとても忠義な事だと云うべきでしょう。それなので、その時に円識法師と名乗る者が叛逆をたくらみ、それがばれたので伊賀の新平内につかまってしまったのです。私経蓮の配慮を恐れて、叛逆を遂げられなかったことはあきらかです。」とのことです。過去の手柄とは、鎌倉旗揚げの頃に、山木判官兼隆を攻め滅ぼした時に、佐々木四兄弟は、攻撃の人数に入って以来、平家が滅び世の中が落ち着くまで、何度もその命を惜しまず敵をやっつけてきました。ここで審議は検討尽くされて、許されることになりました。ただし、没収した領地はすぐには返還されませんでしたとさ。

建仁元年(1201)五月小十三日壬戌。佐々木太郎高重帶父經蓮御氣色厚免御教書歸洛。遠州并廣元朝臣等被遣餞馬云々。

読下し                      ささきのたろうたかしげ   ちちきょうれん みけしきこうめん  みぎょうしょ  たい  きらく
建仁元年(1201)五月小十三日壬戌。佐々木太郎高重、父経蓮が御気色厚免の御教書を帯し帰洛す。

えんしゅうなら   ひろもとあそんら はなむ   うま  つか  され    うんぬん
遠州并びに廣元朝臣等餞けに馬を遣は被ると云々。

現代語建仁元年(1201)五月小十三日壬戌。佐々木太郎高重は、父経蓮の将軍様のお怒りが許された命令書を持って京都へ帰ります。北條時政殿と大江広元が餞別に馬を与えられましたとさ。

建仁元年(1201)五月小十四日癸亥。リ。佐々木三郎兵衛尉盛綱入道使者參着。捧一封状。義盛持參御所。善信。行光於御前讀申之。其状云。日來。城小太郎資盛欲奉謀朝憲。搆城郭於越後國鳥坂。近國之際。存忠直之輩。憖雖來襲。還悉以敗北。爰西念可發向之由奉嚴命。件御教書。去月五日到着于西念之住所上野國礒部郷。仍不廻時尅揚鞭。三ケ日之中。馳下鳥坂口。則遣使者於資盛。相觸御教書之趣間。答早可來城邊之由。因茲發勇士等。于時越後。佐渡。信濃三ケ國輩爭鋒竸集。西念息子小三郎兵衛尉盛季欲先登之處。信濃國住人海野小太郎幸氏抜於盛季之右方。欲進出。爰盛季郎從取幸氏騎轡。此間。盛季如思進先登射一箭。其後幸氏又進寄。相戰之間被疵。資盛已下賊徒飛矢石不異雨脚。合戰之間。彼及兩時。盛季被疵。郎從等數輩。或殞命。或被疵。又有資盛之姨母之。号之坂額御前。雖爲女性之身。百發百中之藝殆越父兄也。人擧謂奇特。此合戰之日。殊施兵略。如童形令上髪。着腹巻。居矢倉之上射襲致之輩。中之者莫不死。西念郎從又多以爲之被誅。于時信濃國住人藤澤四郎C親廻城後山。自高所能窺見之發矢。其矢射通件女左右股。即倒之處。C親郎等生虜。疵及平喩者。可召進之。姨母被疵之後。資盛敗北。出羽城介繁成〔資盛曩祖〕自野干于之手所相傳之刀。今度合戰之刻紛失云々。

読下し                     はれ  ささきのさぶろうひょうえのじょうもりつなにゅうどう   ししゃさんちゃく   いっぽう  じょう ささ
建仁元年(1201)五月小十四日癸亥。リ。 佐々木三郎兵衛尉盛綱入道が 使者參著し、一報の状を捧げる。

よしもり ごしょ  じさん    ぜんしん  ゆきみつ ごぜん  をい  これ  よみもう    そ  じょう  い
義盛御所に持參し、善信、行光御前に於て之を讀申す。其の状に云はく。

ひごろ じょうのこたろうすけもり  ちょうけん  はか たてまつ    ほっ   じょうかくをえちごのくにとっさか  かま    きんごくのきわ ちゅうちょく ぞん    のやから
日來、城小太郎資盛、朝憲を謀り奉らんと欲し、城郭於越後國鳥坂@に搆へ、近國之際の忠直を存ずる之輩、

なまじ   らいしゅう   いへど   かへっ ことごと もっ はいぼく    ここ  さいねんはっこうすべ  のよし げんめい たてまつ
憖ひに來襲すと雖も、還て悉く以て敗北す。爰に西念發向可し之由嚴命を奉る。

くだん みぎょうしょ  さんぬ つきいつかさいねんの す ところ かみつけのくに いそべごうに とうちゃく
件の御教書去る月五日西念之住む所、 上野國 礒部郷A于到著す。

よっ  じこく  めぐらず  むち  あ     さんかにちのうち  とっさかぐち  は  くだ
仍て時尅を廻不、鞭を揚ぐ、參箇日之中に鳥坂口へ馳せ下る。

すなは ししゃを すけもり  つか     みぎょうしょのおもむき あいふ  もんどう    はや  しろへん きた  べ   のよし
則ち使者於資盛に遣はし、御教書之趣に相觸れ間答す。早く城邊に來る可し之由。

ここ  よっ    はっ    ゆうしら  ときに えちご    さど    しなの  さんかこく やからほこ  あらそ きそ  あつ
茲に因て、發する勇士等時于越後、佐渡、信濃の參箇國の輩鉾を爭い競い集む。

さいねん むすここさぶろうひょうえのじょうもりすえ せんと  ほっ    のところ  しなののくにじゅうにんうんののこたろうゆきうじ もりすえの うほうを ぬ  すす  いで    ほっ
西念の息子小三郎兵衛尉盛季、先登を欲する之處、信濃國住人海野小太郎幸氏が盛季之右方於抜き進み出んと欲す。

ここ  もりすえ ろうじゅう ゆきうじ  うま  くつわ と     こ   かん  もりすえおも    ごと  せんと  すす    いっせん  い
爰に盛季の郎從、幸氏の騎の轡を取る。此の間に盛季思いの如く先登に進み、一箭を射る。

そ   ご   ゆきうじまたすす  よ   あいたたか のあいだきずされ    すけもり いげ    ぞくと  やせき  と            あまあし ことならず
其の後、幸氏又進み寄り相戰ふ之間、疵被る。資盛巳下の賊徒矢石を飛ばすこと雨脚に不異。

かっせんのかん ふたとき およ   もりすえ  ろうじゅうらすうやから ある   いのち おと    ある    きずされ
合戰之間兩時に及び、盛季が郎從等數輩、或ひは命を殞し、或ひは疵被る。

また  すけもりのしうとぼ あ     いま  はんがくごぜん  これ  ごう
又、資盛之姨母有り。今に坂額御前と之を號す。

じょせいのみ   な    いへど  ひゃっぱつひゃくちうのげ  ほと    ふけい   こ     なり
女姓之身を爲すと雖も、百發百中之藝、殆んど父兄を越える也。

ひとあ     きどく   い     こ   かっせんのひ こと  へいりゃく ほどこ
人擧げて竒特と謂う。此の合戰之日殊に兵略を施す。

どうぎょう ごと    かみ  あげせし    はらまき  つ     やぐら  うえ  い      い おそ  いた  のやから  なか  しなずもの な
童形の如く、髪を上令め、腹巻を著け、矢倉の上に居て、射襲い致す之輩の中で死不者莫し。

 さいねん ろうじゅうまた おお もっ  これ  ため  ちうされ
西念が郎從又、多く以て之の爲に誅被る。

ときに しなののくにじうにん ふじさわのしろうきよちか しろ うしろやま  めぐ   こうしょ よ  これ  よ   み   や   はっ
時于信濃國 住人 藤澤四郎清親、城の後山に廻り、高所自り之を能く見て矢を發す。

 そ   や  くだん おんな さゆう  また  いとお    すなは たお   のところ  きよちか  ろうとう  いけど
其の矢、件の女の左右の股を射通す。即ち倒れる之處、清親の郎等が生虜る。

きず  へいゆ  およばば  これ  め   しん  べ     しうとぼ  きずされ  ののち  すけもりはいぼく
疵が平愈に及者、之を召し進ず可し。姨母が疵被る之後、資盛敗北する。

ではのじょうすけしげなり 〔すけもり  のうそ〕  やかん  て     そうでん   ところ かたな このたび  かっせんのとき ふんしつ     うんぬん
出羽城介繁成〔資盛が曩祖〕野干の手より相伝する所の刀を今度の合戰之刻に紛失すると云々。

参考@鳥坂城は、新潟県胎内市羽黒(旧新潟県北蒲原郡中条町)にあった。詳しくは、ホームページ埋もれた古城さん ホームページ北の城塞さんを。
参考A磯部郷は、群馬県安中市磯部4−4−27 松岸寺に盛綱夫妻の墓あり。安中市のホームページ

現代語建仁元年(1201)五月小十四日癸亥。晴れです。佐々木三郎兵衛尉盛綱入道の使いが到着して、一通の手紙を差し出しました。和田左衛門尉義盛が御所へ持って来て、三善善信・二階堂行光が将軍頼家の前でこれを朗読しました。その手紙の内容は

「最近、城小太郎資盛が、京都朝廷に叛逆をして、城を越後国鳥坂に城を構築して籠りました。近くの国の幕府へ忠義を感じる連中が、よせばいいのに無理をして攻めましたが、かえって皆負けてしまいました。そこに佐々木盛綱西念が出発するように幕府からの命令を受けました。その命令書は先月五日に私西念が住んでいる上野国磯部郷」に届きました。そこで、時間をかけずにすぐに鞭をあげて三日以内に鳥坂口へ走り下りました。すぐに使いを城資盛に行かせて、幕府の命令書の内容を伝えて問いかけましたが、早く城へ攻めてこいとの事でした。この返事によって、やってきた勇士たちは、越後・佐渡・信濃の三カ国の連中が先を争って集まってきました。佐々木盛綱西念の息子の小三郎兵衛尉盛季は(一番手柄の)先陣を切ろうとしましたが、信濃国の豪族海野小太郎幸氏が盛季の右側から前へ出ようとしました。そしたら盛季の家来が海野幸氏の馬の轡をつかんだので、盛季は思った通りに先頭へ出て、初めの矢を射ました。

その後、海野小太郎幸氏も又、進み出て戦っておりましたら、城資盛を始めとする賊軍は傷つけられました。矢や石は雨あられの如く飛び交いました。戦いは二刻(四時間)にも渡り、佐々木盛季の家来が数人も、命を落としたり、けがをさせられました。又。城資盛におばさんがおりまして、現在は板額御前と呼ばれております。この人が女性ではあっても、百発百中の腕があり、男どもを抜いております。人々は変わり者だと云ってましたが、この合戦の日には、特に活躍をしました。子供の用に髪を束ねて、鎧腹巻を着けて、やぐらの上に立って、射られた者で死なぬ者はありませんでした。佐々木盛綱西念の部下が沢山、彼女のために殺されました。時あたかも、信濃国の豪族の藤沢二郎清親が、城の後ろの山に回って、高い所から彼女をよく見て矢を放ちました。

その矢は、例の彼女の左右の股を射通しました。すぐに倒れるところを清親の家来が捕虜にしました。傷が治りましたら連れて行きましょう。叔母が傷つけられた後、城資盛は負けました。出羽城介繁成〔資盛の先祖〕が野狐からもらったという、先祖代々伝えられてきた刀を、今度の合戦のどさくさでなくしてしまったそうです。」とのことでした。

説明坂額御前は、越後平氏の城一族。板額の宴ホームページ
           ┌─資盛
      ┌─資永─┼─資家     助永(すけなが)=資永(すけなが)
 城 資国─┼─永用 └─資正     長用(ながもち)=永用(ながもち)
      └─板額
(はんがくごぜんは、本来「飯角御前イイズミゴゼン」だが音読みで「ハンガク」と名乗ったので、同じ音の「板額」と書かれてしまった。中条町資料から)

建仁元年(1201)五月小十七日丙寅。佐々木左衛門尉定綱飛脚參着。申云。柏原弥三郎。去年爲三尾谷十郎被襲之刻。逃亡之後。不知行方之處。廣綱弟四郎信綱伺得件在所。今月九日誅戮之云々。

読下し                     ささきのさえもんのじょうさだつな  ひきゃくさんちゃく   もう    い
建仁元年(1201)五月小十七日丙寅。佐々木左衛門尉定綱が飛脚參着す。申して云はく、

かしわばらのいやさぶろう きょねん みおやのじうろう  ため  おそ  れる  とき  とうぼう    ののち ゆくえ  し   ざるのところ
 柏原彌三郎、 去年三尾谷十郎が為に襲わ被の刻、逃亡する之後行方を知ら不之處、

ひろつな おとうと しろうのぶつな  くだん ざいしょ  うかが え    こんげつここのかこれ ちうりく    うんぬん
廣綱が 弟の 四郎信綱、件の在所を伺い得て、今月九日之を誅戮すと云々。

現代語建仁元年(1201)五月小十七日丙寅。佐々木左衛門尉定綱の伝令が到着して申しあげました。「柏原弥三郎為永は、脱税で朝廷が追討の宣旨を発し、去年十二月二十七日三尾谷十郎広徳に攻められた時、逃げて行方不明でしたが、佐々木小太郎広綱の弟の四郎信綱が、そのありかを知って、今月九日に殺しました。」とさ。

六月へ

吾妻鏡入門第十七巻

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