建仁二年壬戌(1202)二月大
建仁二年(1202)二月大二日丁丑。京都使者到來。去月廿三日。左金吾令敍正三位給云々。 |
読下し きょうと ししゃ とうらい さんぬ つきにじうさんにち さきんご しょうさんみ じょせし たま うんぬん
建仁二年(1202)二月大二日丁丑。京都の使者到來す。去る月 廿三日、
左金吾正三位に敍令め給ふと云々。
現代語建仁二年(1202)二月大二日丁丑。京都から使いがやってきました。先月二十三日付けで、左衛門督頼家様が正三位に任命されましたとさ。
建仁二年(1202)二月大廿日乙未。相摸國積良邊有古柳。名木之由。就令聞給。爲移植于鞠御壷。渡御彼所。北條五郎已下六十餘輩候御共。又被召具行景。 |
読下し さがみのくにつむら へん
ふる やなぎあ
建仁二年(1202)二月大廿日乙未。相摸國積良@邊に古い柳有り。
めいぼくのよし きかせし たま つ
まりのおんつぼに いしょく ため か ところ とぎょ
名木之由、聞令め給ふに就き、鞠御壷于
移植の爲、彼の所に渡御す。
ほうじょうのごろういか ろくじうよやから
おんとも こう また ゆきかげ めしぐさる
北條五郎已下六十餘輩
御共に候ず。又、行景を召具被る。
参考@積良は、津村と思われ、神奈川県鎌倉市津であろう。翌日の記事で一泊しているので、掘るのに手間取ったか?近所の腰越宿で遊んだか。
現代語建仁二年(1202)二月大二十日乙未。相模国の津村のあたりに、古い柳の木があって、かなり銘木だとお聞きになられたので、御所の蹴鞠をする内庭に移植したいので、その場所へ出かけられました。北条五郎時連を始めとして六十数人がお供をしました。紀内所行景を指名してお連れになりました。
建仁二年(1202)二月大廿一日丙申。左金吾還御鎌倉。件柳被引之。即被殖石御壷内。行景奉行之。但非良木之由申之云々。 |
読下し さきんご かまくら かんご くだん やなぎ これ ひかれ すなは いしのおんつぼ うち うえらる
建仁二年(1202)二月大廿一日丙申。左金吾鎌倉へ還御す。件の柳、之を引被、即ち石御壷の内に殖被る。
ゆきかげこれ
ぶぎょう ただ りょうぼく あらずのよし これ もう うんぬん
行景之を奉行す。但し良木に非之由、之を申すと云々。
現代語建仁二年(1202)二月大二十一日丙申。左衛門督頼家様が鎌倉へお帰りです。例の柳の木を引いてきて、石の坪庭内に植えられました。紀内所行景が指揮担当です。ただし、銘木と云うほどではありませんでしたとさ。
建仁二年(1202)二月大廿七日壬寅。鶴岳別當阿闍梨招請鞠足等饗應。是依左金吾内々仰如此。被賞翫行景之餘也。及晩可見鞠之由。坊主所望之間。各進立懸下。數三百之後退散。 |
読下し つるがおかべっとうあじゃり まりあしら しょうせい きょうおう
建仁二年(1202)二月大廿七日壬寅。鶴岳別當阿闍梨、鞠足等を招請し饗應す。
これ さきんご ないない
おお よっ かく ごと ゆきかげ しょうがんされ のあま なり
是、左金吾の内々の仰せに依て此の如し。行景を賞翫被る之餘り也。
ばん
およ まり み べ のよし ぼうずしょもうのかん おのおの かかりした すす た かずさんびゃくののちたいさん
晩に及び鞠を見る可き之由、坊主所望之間、 各 懸下に進み立つ。數三百之後退散す。
現代語建仁二年(1202)二月大二十七日壬寅。鶴岡八幡宮長官の阿闍梨尊暁が、蹴鞠上手の連中を招待し、御馳走を振る舞いました。実は、左衛門督頼家様からの内々の命令でこのようにしました。紀内所行景を可愛がっている余りからです。夜になって、蹴鞠を見たいと尊暁が望んだので、それぞれ蹴鞠用の木の下に立ちました。数は三百をだして引き揚げました。
建仁二年(1202)二月大廿九日甲辰。壞渡故大僕卿〔義朝〕沼濱御舊宅於鎌倉。被寄附于榮西律師龜谷寺。行光奉行之。此事。當寺建立最初。雖有其沙汰。僅爲彼御記念。幕下將軍殊被修復其破壞。暫不可有顛倒儀之由。被定之處。僕卿入于尼御臺所御夢中。被示云。吾常在沼濱亭。而海邊極漁。壞之令建立于寺中。欲得六樂云々。御夢覺之後。令善信記之給。被遣榮西云々。大官令云。六樂者六根樂歟云々。 |
読下し
こたいぼくきょう 〔よしとも〕 ぬまはま ごきゅうたくを
かまくら こぼ わた ようさいりっし かめがやつじに きふ さる
建仁二年(1202)二月大廿九日甲辰。故大僕@卿〔義朝〕が沼濱の御舊宅於鎌倉へ壞ち渡し、榮西律師の龜谷寺于寄附被る。
ゆきみつこれ ぶぎょう
行光之を奉行す。
こ こと とうじこんりゅうさいしょ そ さた あ いへど わずか か ごきねん ため ばっかしょうぐんこと そ はか しゅうふくさる
此の事、當寺建立最初に、其の沙汰有ると雖も、僅に彼の御記念の爲、幕下將軍殊に其の破壞を修復被る。
しばら てんとう ぎ あ べからずのよし さだ らる のところ ぼっきょうあまみだいどころ ごむちうに い しめされ い
暫く顛倒の儀有る不可之由、定め被る之處、僕卿尼御臺所の御夢中于入り、示被て云はく、
われつね ぬまはまてい あ しか かいへんりょう きは これ こぼ じちうに こんりゅうせし ろくらく
え ほっ うんぬん
吾常に沼濱亭に在り。而るに海邊漁を極むA。之を壞ち寺中于建立令め、六樂を得んと欲すと云々。
おんゆめさめ ののち ぜんしん し
これ き たま ようさい
つか さる うんぬん だいかんれい い
ろくらくは ろっこんらくか うんぬん
御夢覺る之後、善信を令て之を記し給ひ、榮西に遣は被ると云々。大官令云はく、六樂者、六根B樂歟と云々。
参考@大僕は、馬頭の唐名。典厩とも云う。
参考A海邊漁を極むは、魚を盛んに取るので=殺生をするので。
参考B六根は、仏教用語で
感覚や意識をつかさどる六つの器官とその能力。すなわち眼根(げんこん)・耳根(にこん)・鼻根・舌根・身根・意根の総称。六つの根。
現代語建仁二年(1202)二月大二十九日甲辰。左典厩〔義朝〕の沼間の古い住宅を分解して鎌倉へ運ばせて、葉上坊律師栄西の亀ケ谷の寺に寄付しました。二階堂民部大夫行光が指揮担当です。この話は、この寺を建立した初めにこれを決めましたが、唯一残っている父の記念として、頼朝様が特にその壊れたところを修復させたのです。しばらくの間壊してはならないとお決めになられておりました。しかし、左典厩〔義朝〕が尼御台所の夢の中にあらわれて、わざわざ申されるのには、「私は何時でも沼間の屋敷にいる。しかし、近くの海では猟師が盛んに魚を取る殺生をするので、これを分解して寺の中に建ててくれて、六楽を得たいのだ。」とのことでした。夢が覚めてすぐに大夫属入道三善善信にこれを書き残させ、葉上坊律師栄西に送らせました。大官令大江広元が云うには「六楽とは、六根清浄の六根楽と云うことでしょうね。」だとさ。