建仁二年壬戌(1202)十月大
建仁二年(1202)十月大三日甲戌。將軍家自駿河國還御。 |
読下し
しょうぐんけ するがのくによ かんご
建仁二年(1202)十月大三日甲戌。將軍家、駿河國自り還御す。
現代語建仁二年(1202)十月大三日甲戌。将軍頼家様が、駿河国からお帰りになりました。
建仁二年(1202)十月大八日己夘。時雨屡灑。將軍家〔御騎馬〕俄渡御于隼人入道宅。庭樹紅葉依添艶色也。リ天之後有御鞠。其庭頗湛水之間。太有煩云々。 |
読下し
しぐれしばしばそそ しょうぐんけ
〔 おんきば
〕 にはか はやとにゅうどうたくに とぎょ
建仁二年(1202)十月大八日己夘。時雨
屡 灑ぐ。將軍家〔御騎馬〕俄に隼人入道宅于渡御す。
にわき もみじ つやいろ そ よっ なり
庭樹紅葉艶色を添えるに依て也。
せいてんののち おんまりあ
そ にわすこぶ たんすいのかん はなは わずら あ うんぬん
リ天之後、御鞠有り。其の庭頗る
湛水之間、太だ煩い有りと云々。
現代語建仁二年(1202)十月大八日己卯。時雨が何度か降り注ぎました。将軍頼家様〔馬に乗って〕は、思い立って急に隼人入道三善康清の屋敷へお渡りになりました。庭の木々が紅葉しているからです。雨が上がり晴れ間が出たので、蹴鞠を始めました。しかし庭には雨上がりの水たまりができていて、とてもやり難いのでしたとさ。
建仁二年(1202)十月大廿九日庚子。御所北御壷搆切立。皆被用松。是所被充催人々也。所謂。北條五郎。和田左衛門尉。三浦兵衛尉義村。山口二郎有綱。各用意二本。被採用之。紀内行景見其能悪立之間。依嫌申有綱分。有綱殆變顏色云。數本之中。限有綱所進嫌申。所存之企尤以不審。京下輩多有如此事。不當々々云々。行景不及返答。連立之畢。 |
読下し
ごしょ きたのおんつぼ きったて かま みなまつ もち
らる これ ひとびと あ もよ さる ところなり
建仁二年(1202)十月大廿九日庚子。御所の北御壷に切立を搆う。皆松を用い被る。是、人々に充て催お被る所也。
いはゆる ほうじょうのごろう わだのさえもんのじょう みうらのひょうえのじょうよしむら やまぐちにじろうありつな おのおの にほん ようい これ と もち らる
所謂、
北條五郎、和田左衛門尉、 三浦兵衛尉義村、
山口二郎有綱、 各 二本を用意し、之を採り用い被る。
きないゆきかげ そ
たち よしあし み のかん ありつな ぶん
きら もう よっ ありつなほとん かおいろ か
い
紀内行景其の立の能悪を見る之間、有綱が分を嫌い申すに依て、有綱殆ど顏色を變へて云はく。
すうほんのなか ありつなしん ところ かぎ きら もう しょぞんのくはだ もっと
もっ ふしん きょうげ やからおお かく ごと ことあ ふとう ふとう うんぬん
數本之中、有綱進ず所に限り嫌い申す。所存之企て尤も以て不審。京下の輩多く此の如き事有り。不當々々と云々。
ゆきかげへんとう およばず これ
なら た をはんぬ
行景返答に及不。之を連べ立て畢。
現代語建仁二年(1202)十月大二十九日庚子。御所の北側の内庭に蹴鞠用の懸りの木を四隅に用意しました。全て松の木にして、人々に分担させました。それは、北条五郎時房・和田左衛門尉義盛・三浦平六兵衛尉義村・山口二郎有綱のそれぞれが二本づつ用意して、これを使いました。
紀内所行景はその立て方の良し悪しを見ていましたが、山口有綱の分が形が合わないと嫌ったので、有綱は顔色を変えて怒りながら言いました。
「数本の内、有綱が用意した木ばかりを嫌うのは、腹のうちに考えている事がすごーく怪しい。京都から下ってきた連中は、このような事が多い。まったく不当な奴らだ。」だとさ。紀内所行景は返事をせずに、しぶしぶそれを並べ立て終えました。