吾妻鏡入門第十七巻

建仁三年癸亥(1203)三月小

建仁三年(1203)三月小三日壬申。霽。鶴岳一切經會。將軍家御參宮如例。

読下し                   はれ つるがおか いっさいきょうえ  しょうぐんけごさんぐうれい  ごと
建仁三年(1203)三月小三日壬申。霽。鶴岳の一切經會。將軍家 御參宮例の如し。

現代語建仁三年(1203)三月小三日壬申。晴れました。鶴岡八幡宮での一切経の奉納です。将軍頼家様のお参りは何時もの通りです。

建仁三年(1203)三月小四日癸酉。將軍家渡御隼人入道宅。北條五郎。冨部五郎。比企弥四郎。肥田八郎。紀内。源性。義印等參。有御鞠。

読下し                    しょぐんけ はやとにゅうどうたく  とぎょ
建仁三年(1203)三月小四日癸酉。將軍家隼人入道宅へ渡御す。

ほうじょうのごろう  とみべのごろう  ひきのいやしろう  ひたのはちろう  きない  げんしょう  ぎいんら さん    おんまりあ
北條五郎、冨部五郎、比企弥四郎、肥田八郎、紀内、源性、義印等參じ、御鞠有り。

現代語建仁三年(1203)三月小四日癸酉。将軍頼家様は、隼人入道三善康清の屋敷へ出かけました。北条五郎時房・冨部五郎・比企弥四郎時員・肥多八郎宗直・紀内所行景・大輔房源性・加賀房義印が一緒に行って、蹴鞠がありました。

建仁三年(1203)三月小十日己夘。自去夜亥尅。將軍家俄御病惱。而依有御夢想之告。駿河國方上御厨。止地頭武田五郎信光所務。寄附太神宮領。廣元朝臣奉行之。

読下し                   さんぬ よ いのこくよ    しょうぐんけにはか ごびょうのう
建仁三年(1203)三月小十日己夘。去る夜亥尅自り、將軍家俄に御病惱。

しか     ごむそう の つげ  あ     よっ    するがのくに かたがみのみくりや  ぢとう たけだのごろうのぶみつ  しょむ   と     だいじんぐうりょう  きふ
而して御夢想之告げ有るに依て、駿河國  方上御厨、 地頭 武田五郎信光 が所務を止め、太神宮領に寄附す。

ひろもとあそんこれ  ぶぎょう
廣元朝臣之を奉行す。

現代語建仁三年(1203)三月小十日己卯。夕べの亥の刻(午後十時頃)から、将軍頼家様が病気です。そして夢のお告げがあったので、駿河国片上御厨は、地頭の武田五郎信光の支配を止めさせ、伊勢神宮の領地として寄付させました。大江広元が手続きをします。

参考方上は、静岡県焼津市関方が、元「方の上」らしい。

建仁三年(1203)三月小十四日癸未。將軍家御不例平癒之後御沐浴也。

読下し                      しょぐんけ   ごふれい  へいゆののち   おんもくよくなり
建仁三年(1203)三月小十四日癸未。將軍家の御不例、平癒之後、御沐浴也。

現代語建仁三年(1203)三月小十四日癸未。将軍頼家様の病気が治ったので、穢れを洗い落とすための沐浴の儀式をされました。

参考沐浴は、穢れを洗い流すための儀式。沐は髪を洗い、浴は体を洗う。

建仁三年(1203)三月小十五日甲申。霽。永福寺一切經會。將軍家爲覽舞御出。烟霞眺望。櫻花艶色。有興有感。還御之時。入御行政山庄。晩鐘之程還御。

読下し                     はれ ようふくじ いっさいきょうえ  しょうぐんけまい  み   ためぎょしゅつ
建仁三年(1203)三月小十五日甲申。霽。永福寺一切經會。將軍家舞を覽ん爲御出す。

えんか  ちょうぼう  おうか  えんしょく  きょうあ   かんあ
烟霞の眺望。櫻花の艶色。興有り感有り。

かんごのとき   ゆきまさ  さんそう  にゅうぎょ   ばんしょうのほど かんご
還御之時、行政が山庄へ入御す。晩鐘之程 還御す。

現代語建仁三年(1203)三月小十五日甲申。晴れました。永福寺での一切経の奉納です。将軍頼家様は、踊りの奉納を見るために出かけました。雲か霞かと見まごうほどの桜の満開の花は艶っぽくて、色気があり感激です。帰りがけに主計允藤原行政の別荘へお立ち寄りになり、夕暮れの鐘が鳴るころになってお帰りです。

建仁三年(1203)三月小廿六日乙未。將軍家〔御布衣〕渡御隼人入道宅。有御鞠。人數。北條五郎。紀内。冨部五郎。比企弥四郎。肥田八郎。義印。源性等也。伯耆少將候見證。凡此間隔日御鞠也。

読下し                      しょぐんけ  〔 ごほい 〕  はやとにゅうどうたく  とぎょ    おんまりあ
建仁三年(1203)三月小廿六日乙未。將軍家〔御布衣〕隼人入道宅へ渡御し、御鞠有り。

にんずう ほうじょうのごろう  きない  とみべのごろう  ひきのいやしろう  ひたのはちろう  げんしょう  ぎいんら なり  ほうきしょうしょうげんしょう そうら
人數、北條五郎、紀内、冨部五郎、比企弥四郎、肥田八郎、義印、源性等也。伯耆少將見證に候う。

およ  こ   かんかくじつ  おんまりなり
凡そ此の間隔日に御鞠也。

現代語建仁三年(1203)三月小二十六日乙未。将軍頼家様〔狩衣〕は、隼人入道三善康清の屋敷へ出かけ蹴鞠がありました。人数は、北条五郎時房・紀内所行景・冨部五郎・比企弥四郎時員・肥多八郎宗直・加賀房義印・大輔房源性などです。伯耆少将藤原清基は検査薬に回りました。なんと、この頃は一日おきに蹴鞠をやってています。

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