吾妻鏡入門第十八巻

元久二年乙丑(1205)四月大

元久二年(1205)四月大七日甲午。佐々木判官定綱依病氣出家云々。

読下し                    ささきのほうがんさだつな  びょうき  よっ  しゅっけ    うんぬん
元久二年(1205)四月大七日甲午。佐々木判官定綱、病氣に依て出家すと云々。

現代語元久二年(1205)四月大七日甲午。佐々木判官定綱は、病気が重いので出家しましたとさ。

元久二年(1205)四月大八日乙未。將軍家鎌倉中諸堂巡礼給。御騎馬。御水干也。

読下し                    しょうぐんけ  かまくらちう  しょどう  じゅんれい たま    おんきば   ごすいかんなり
元久二年(1205)四月大八日乙未。將軍家、鎌倉中の諸堂に巡礼し給ふ。御騎馬、御水干也。

現代語元久二年(1205)四月大八日乙未。将軍実朝様は、鎌倉中のお堂を巡りました。馬に乗り水干姿です。

参考水干は、狩衣の変化したもので、水張りにして干した絹の服、下に袴を穿く。

元久二年(1205)四月大九日丙申。檢非違使左衛門少尉源朝臣定綱法師卒云々。

読下し                    けびいし さえもんのしょうじょう みなもとのあそんさだつな ほっし そっ    うんぬん
元久二年(1205)四月大九日丙申。檢非違使 左衛門少尉 源朝臣定綱 法師 卒すと云々。

現代語元久二年(1205)四月大九日丙申。京都警察権限の検非違使で左衛門少尉源朝臣佐々木左衛門尉定綱法師が亡くなりましたとさ。

元久二年(1205)四月大十一日戊戌。鎌倉中不靜。近國之輩群參。被整兵具之由。有其聞。又稻毛三郎重成入道。日來者蟄居武藏國。近曾依遠州招請。引從類參上。人恠之旁有説等云々。

読下し                      かまくらちうしずかならず きんごくのやからぐんさん   ひょうぐ  ととの  らる   のよし  そ   きこ  あ
元久二年(1205)四月大十一日戊戌。 鎌倉中靜不。 近國之輩群參し、兵具を整へ被る之由、其の聞へ有り。

また  いなげのさぶろうしげなちにゅうどう   ひごろは むさしのくに  ちっきょ   ちかごろえんしゅう しょうせい よっ   じゅうるい ひ   さんじょう
又、 稻毛三郎重成入道、 日來者武藏國に蟄居す。近曾遠州の招請に依て、從類を引き參上す。

ひとこれ  あやし ぼうせつら あ    うんぬん
人之を恠み旁説等有りと云々。

現代語元久二年(1205)四月大十一日戊戌。鎌倉中が騒々しい限りです。近場の連中が群れ集まり、武装を準備していると噂が流れています。また、稲毛三郎重成入道は、普段武蔵国の稲毛庄に謹慎していました。最近舅の遠江守北条時政殿に呼ばれて、部下達を連れて鎌倉へ出てきました。人々は、何かありそうだと怪しんでいるとのうわさがあります。

元久二年(1205)四月大十二日己亥。將軍家令詠十二首和歌給云々。

読下し                     しょうぐんけ じうにしゅ   わか   ぎん  せし  たま    うんぬん
元久二年(1205)四月大十二日己亥。將軍家十二首の和歌を詠ぜ令め給ふと云々。

現代語元久二年(1205)四月大十二日己亥。将軍実朝様は、十二種の和歌を作って詠われましたそうな。

五月へ

吾妻鏡入門第十八巻

inserted by FC2 system