元久二年乙丑(1205)七月大
元久二年(1205)七月大一日丙辰。去月合戰以後。始於營中。有盃酒之儀。和田左衛門尉献之。 |
読下し さんぬ つき かっせん
いご
はじ えいちう をい はいしゅのぎ あ わだのさえもんのじょうこれ けん
元久二年(1205)七月大一日丙辰。去る月の合戰以後、始めて營中に於て、盃酒之儀有り。和田左衛門尉之を献ず。
現代語元久二年(1205)七月大一日丙辰。先月の重忠合戦のあと、初めて御所で宴会がありました。和田左衛門尉義盛が設営献上しました。
元久二年(1205)七月大八日癸亥。以畠山次郎重忠餘黨等所領。賜勳功之輩。尼御臺所御計也。將軍家御幼稚之間如此云々。 |
読下し はたけやまのじろうしげただ よとうら しょりょう
もっ くんこうのやから
たま あまみだいどころ おはかりなり
元久二年(1205)七月大八日癸亥。畠山次郎重忠が餘黨等の所領を以て、勳功之輩に賜はる。尼御臺所の御計也。
しょぐんけ ごようち
のかん かく ごと うんぬん
將軍家御幼稚之間、此の如しと云々。
現代語元久二年(1205)七月大八日癸亥。畠山次郎重忠の身内の連中の領地を、手柄を立てた連中に褒美として与えました。尼御台所政子様の裁量です。将軍実朝様が子供の間は、尼將軍が裁量するとのことです。
元久二年(1205)七月大廿日乙亥。尼御臺所御方女房五六輩浴新恩。是又亡卒遺領也云々。 |
読下し あまみだいどころ おんかた にょぼう
ご
ろくやからしんおん よく これまた ぼうそつ いりょうなり うんぬん
元久二年(1205)七月大廿日乙亥。尼御臺所の御方の女房五、六輩新恩に浴す。是又、亡卒の遺領也と云々。
現代語元久二年(1205)七月大二十日乙亥。尼御台所政子様に仕える女官五・六人が領地を与えられました。これもまた、敵対し亡くなった連中の領地なのだそうな。