吾妻鏡入門第十九巻

承元二年戊辰(1208)正月大

承元二年(1208)正月大六日丙子。陰。雪時々飛。午尅大地震。

読下し                        くも    ゆきときどきと     うまのこくおおじしん
承元二年(1208)正月大六日丙子。陰り。雪時々飛ぶ。午尅大地震。

現代語承元二年(1208)正月大六日丙子。曇りですが、時々雪が舞っております。午の刻(昼頃)大地震です。

承元二年(1208)正月大十一日辛巳。リ。御所心經會也。去八日雖爲式日。依將軍家御歡樂。延及今日。其後尼御臺所御參鶴岳宮。被用御車。

読下し                         はれ   ごしょ   しんぎょうえなり
承元二年(1208)正月大十一日辛巳。リ。御所の心經會也。

さんぬ ようか しきじつたり いへど   しょうぐんけ ごかんらく  よっ    の     きょう   およ
去る八日式日爲と雖も、將軍家@御歡樂Aに依て、延びて今日に及ぶ。

そ   ご あまみだいどころ つるがおかぐう  ぎょさん  おんくるま もち  らる
其の後 尼御臺所 鶴岳宮 へ御參。御車を用い被る。

参考@將軍家は、実朝。数えで十七歳。
参考A
御歡樂は、忌み言葉を嫌って云ってるが病気。

現代語承元二年(1208)正月大十一日辛巳。晴れです。御所で般若心経を上げる行事です。本来は正月八日が式の日なのですが、将軍実朝様が病気だったので延期して今日になりました。終わってから、尼御台所政子様は鶴岡八幡宮へお参りです。牛車を使われました。

承元二年(1208)正月大十六日丙戌。午尅。問註所入道名越家燒亡。而於彼家後面之山際搆文庫。將軍家御文籍。雜務文書。并散位倫兼日記已下累代文書等納置之處。悉以爲灰燼。善信聞之。愁歎之餘。落涙數行。心神爲惘然。仍人訪之云々。

読下し                         うまのこく  もんちうじょにゅうどう なごえ  いえしょうぼう
承元二年(1208)正月大十六日丙戌。午尅。問註所入道が名越の家燒亡す。

しか    か   いえ うしろつらのやまぎわ  をい  ぶんこ  かま
而るに彼の家の後面之山際に於て文庫を搆う。

しょうぐんけ   ごもんせき   ぞうむもんじょなら     さんにともかね   にき いか るいだい  もんじょら   おさ  お  のところ ことごと もっ かいじん  な
將軍家の御文籍、雜務文書并びに散位倫兼@が日記已下累代の文書等を納め置く之處、悉く以て灰燼と爲す。

ぜんしん これ  き     しゅうたんのあま   らくるいすうぎょう  しんしんぼうぜん な    よっ  ひと  これ  とぶら   うんぬん
善信、之を聞き、愁歎之餘り、落涙數行。心神惘然と爲す。仍て人、之を訪うと云々。

参考@散位は、位階だけで官職がない事。

現代語承元二年(1208)正月大十六日丙戌。問注所入道三善善信の名越の邸宅が燃えました。しかし、彼の家の後ろの山際に文庫を建てています。将軍家の手紙や書物、裁判記録、それに散位倫兼の日記を始めとする先祖代々伝わってきた文書などが、全て灰になってしまいました。三善善信は、これを聞いてがっかりし過ぎて涙をこぼし、呆然としてしまいました。そこで皆見舞いを云いましたとさ。

説明鎌倉幕府は前例主義なので各文書が大事であったであろう。

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