吾妻鏡入門第十九巻

承元三年己巳(1209)三月

承元三年(1209)三月大一日甲午。今日。高野山大塔料所備後國大田庄乃貢對捍之由。寺家訴申之。仍有其沙汰之處。彼使者僧与地頭大夫属入道代官及口論。依爲御前近々。兩人共被追立。於此事者。暫可閣之旨。直被仰下云々。

読下し                         こうやさんだいとう  りょうしょ  びんごのくに おおたのしょう のうぐたいかんのよし   じけ これ  うった もう
承元三年(1209)三月大一日甲午。今日、高野山大塔の料所、備後國 大田庄@の乃貢對捍之由、寺家之を訴へ申す。

よっ  そ    さた あ   のところ  か   ししゃそうと ぢとうたいふさかんにゅうどう だいかんこうろん  およ    ごぜん  ちかぢかたる  よっ   りょうにんとも  おいたてられ
仍て其の沙汰有る之處、彼の使者僧与 地頭大夫属入道が代官口論に及ぶ。御前の近々爲に依て、兩人共に追立被る。

こ   こと  をい  は   しばら さしおか べ  のむね  じき  おお  くださる    うんぬん
此の事に於て者、暫く 閣る可し之旨、直に仰せ下被ると云々。

参考@大田庄(備後)は、備後国世羅郡全体(名は大田村)で、広島県世羅郡世羅町。1955大見村・東大田村・西大田村が合併して世羅町となり、その後も合併を重ね世羅町(2代)となった。本所は高野山で、領家が後白河法皇、預所職は重盛であった。平家没官領として預所職が関東御領となり、地頭は土肥弥太郎遠平であったが、六巻文治二年(1186)七月二十四日の大塔建立寄付の記事で地頭撤退している。現在は大夫属入道三善善信が地頭になっている。

現代語承元三年(1209)三月一日甲午。今日、高野山の大塔の供養の火を守るための年貢料としての荘園大田庄の年貢が滞納されていると寺関係者が訴えてきました。。そこで、裁定をした所、高野山の使いの僧と地頭の大夫属入道三善善信の代官とが言い争いになりました。将軍実朝様の御前に近い場所で言い争うと云うことで、双方とも追い出されました。この件についてはしばらく時間をおこうと、将軍実朝様がじかにおっしゃられましたとさ。

承元三年(1209)三月大三日丙申。鶴岳宮一切經會。相州爲將軍家奉幣御使。被參廻廊。美作藏人朝親。山城左衛門尉行村等扈從。

読下し                   つるがおかぐう いっさいきょうえ そうしゅう しょうぐんけ  ほうへい  おんし   な     かいろう  まいられ
承元三年(1209)三月大三日丙申。鶴岳宮の一切經會。相州、將軍家の奉幣の御使と爲し、廻廊に參被る。

みまさかくらんどともちか やましろさえもんのじょうゆきむらら こしょう
美作藏人朝親、 山城左衛門尉行村 等扈從す。

現代語承元三年(1209)三月三日丙申。上巳の節句なので、鶴岡八幡宮では一切経を奉納する儀式を行いました。相州義時様は、将軍実朝様の代参として回廊へ参られました。美作蔵人朝親と山城左衛門尉二階堂行村がお供をしました。

承元三年(1209)三月大廿一日甲寅。大夫属入道持參鞠於御所。自京都到來之由申之。又去二日大柳殿御鞠記一紙進覽之。彼日。大輔房源性始參于御鞠云々。是左金吾將軍御時近士也。去建仁三年九月坐事之後所在京也。件御鞠衆。御所刑部卿〔宗長〕。 越後少將範茂 寧王 醫王 山柄 行景 源性等也云々。

読下し                     たいふさかんにゅうどう まりを ごしょ   も   まい    きょうとよ    とうらいのよし これ  もう
承元三年(1209)三月大廿一日甲寅。大夫属入道、鞠於御所へ持ち參る。京都自り到來之由之を申す。

また  さんぬ ふつか だいりゅうでんおんまり き いっし これ  しんらん   か   ひ   たいふぼうげんしょう  はじ   おんまりに まい    うんぬん
又、去る二日 大柳殿@御鞠の記一紙之を進覽す。彼の日、大輔房源性 始めて御鞠于參ると云々。

これ  さきんごしょうぐん  おんとき  きんじなり  さんぬ けんにんさんねんくがつ ことざ   ののちざいきょう  ところなり
是、左金吾將軍の御時の近士也。去る 建仁三年九月A事坐す之後在京する所也。

くだん おんまりしゅう ごしょぎょうぶのきょう 〔むねなが〕  えちごのしょうしょうのりもち ねいおう  いおう  やまがら  ゆきかげ げんしょうらなり  うんぬん
件の 御鞠衆、御所刑部卿〔宗長〕、越後少將範茂、 寧王、醫王、山柄、行景、源性等 也と云々。

参考@大柳殿は、後鳥羽上皇の母七条院藤原殖子の御所。
参考A
建仁三年九月事坐すは、頼家の失脚。源性は頼家の鞠足だった。

現代語承元三年(1209)三月二十一日甲寅。大夫属入道三善善信が、御所へ蹴鞠を持ってきました。京都から取り寄せたんだと申しました。又、先日の二日に後鳥羽上皇の母の御所で行った蹴鞠の次第を書いた書付を差し出しました。その日には大輔房源性も初めて上皇の蹴鞠に参加したそうです。彼は左衛門督頼家様の側近でした。去る建仁三年(1203)九月の失脚後、京都に住んでいるのです。その時の蹴鞠へ参加した連中は、御所刑部卿〔宗長〕・越後少将範茂・寧王・医王・山柄・紀内所行景・大輔房源性などだそうです。

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