吾妻鏡入門第十九巻

承元三年己巳(1209)十月

承元三年(1209)十月大十日庚午。雨降。民部大夫行光。永福寺之傍建立一伽藍。今日遂供養。以明王院僧正公胤爲導師。尼御臺所渡御。相州。武州。前大膳大夫。遠江守。大夫属入道已下。爲聽聞參。堂上堂下如市。導師御布施。會塲儀等盡美。時之壯觀也。

読下し                   あめふる みんぶのたいふゆきみつ ようふくじのかたわら いちがらん  こんりゅう    きょう  くよう   と
承元三年(1209)十月大十日庚午。雨降。民部大夫行光、永福寺之傍に一伽藍を建立す。今日供養を遂ぐ。

みょうおういんそうじょうこういん もっ  どうし  な     あまみだいどころ とぎょ
明王院僧正公胤を以て導師と爲す。 尼御臺所 渡御す。

そうしゅう ぶしゅう  さきのだいぜんだいぶ とおとうみのかみ たいふさかんゆうどういか  ちょうもん  ためまい   どうじょう どうげ いち  ごと
相州、武州、 前大膳大夫、 遠江守、 大夫属入道已下、聽聞の爲參る。堂上 堂下市の如し。

どうし   おんふせ   かいじょう ぎ ら び   つく    ときにそうかんなり
導師の御布施、會塲の儀等美を盡す。時之壯觀也。

現代語承元三年(1209)十月大十日庚午。雨降りです。民部大夫二階堂行光が、永福寺のそばに一つのお堂を建立し、今日その開眼供養がありました。
明王院僧正公胤に指導僧を頼みました。尼御台所政子様もお渡りです。相州義時・武州時房・前大膳大夫大江広元・遠江守源親広・大夫属入道三善善信を始めとする皆様がお経を聴くために来たので、お堂の上も下も市が開かれたような集まりでした。指導僧へのお布施も、会場の設営もそれは贅を尽くしたものでした。実に壮観な見ものでした。

承元三年(1209)十月大十三日癸酉。リ。當于故右大將家御月忌。於法華堂。被修御佛事。導師明王院僧正。施主尼御臺所御參。相州。武州列聽衆給。有書冩妙典圖繪佛像已下之作善。御布施等皆莫非金銀錦繍。更非翰墨之所載。佛經譛嘆。吐冨樓那弁説。幽靈定證正覺於一時之間。施主又期同居於百年之後給歟。

読下し                     はれ  こうだいしょうけ  おんつきいみに あた     ほけどう   をい    おんぶつじ  しゅうさる
承元三年(1209)十月大十三日癸酉。リ。故右大將家の御月忌于當り、法華堂@に於て、御佛事を修被る。

どうし  みょうおういんそうじょう  せしゅ  あまみだいどころ ぎょさん   そうしゅう ぶしゅうちょうしゅう れっ  たま
導師は明王院僧正。施主の尼御臺所 御參す。相州、武州聽衆に列し給ふ。

しょしゃみょうてん ずえ ぶつぞう いか の さぜん あ     おんふせら みな  きんぎんきんしゅう あらず な    さら  かんぼくの の    ところ あらず
書冩妙典、圖繪佛像已下之作善有り。御布施等皆、金銀錦繍に非は莫し。更に翰墨之載せる所に非A

ぶっきょう さんたん  ふるな   べんせつ  は     ゆうれいさだ   しょうかくを いっときのかん  あらは   せしゅまた  どうごを ひゃくねんののち  ご   たま    か
佛經の譛嘆。冨樓那の弁説を吐く。幽靈定めし正覺於一時之間に證し、施主又、同居於百年之後に期し給はん歟。

参考@法華堂は、神奈川県鎌倉市西御門二丁目5−2頼朝墓の場所にあったとされる。
参考A翰墨之載せる所に非は、墨で書き出すことなんてとても出来ない。

現代語承元三年(1209)十月大十三日癸酉。晴れです。故右大将家頼朝様の月違い命日にあたって、頼朝様の墓のある法華堂で法事を行いました。指導僧は明王院僧正公胤。施主の尼御台所政子様が参りました。相州義時・武州時房も説法を聴く皆の列に加わりました。写経や仏絵などの奉納等仏教の良い行いがありました。お布施は全て金銀を使った錦の織物ばかりです。これは沢山でとても書き切れません。坊さんのお説教は、釈迦の弟子で説法第一と云われた富楼那が説いているようでした。亡き人もさぞかし悟りへの正しい境地を一遍に届いたことでしょう。施主もまた、百年先には会えると約束されたのではないでしょうか。

承元三年(1209)十月大十五日乙亥。明王院僧正被參御所。將軍家有御面談。園城寺興隆事。豫州刺史禪室以後。源家代々之間。令歸當寺給事。具述旨趣。前大膳大夫令候廣庇。依仰註僧正之被申事等。是本寺貴徳也。

読下し                     みょうおういんそうじょう ごしょ  まいられ    しょうぐんけごめんだんあ
承元三年(1209)十月大十五日乙亥。明王院僧正、御所へ參被る。將軍家御面談有り。

おんじょうじこうりゅう こと  よしゅうらつし ぜんしつ いご   げんけだいだいのかん  とうじ  き せし  たま    こと  つぶさ  ししゅ  の
園城寺興隆の事、豫州刺史禪室@以後、源家代々之間、當寺に歸令め給はん事、具に旨趣を述べる。

さきのだいぜんだいぶ ひろびさし こう  せし    おお    よっ  そうじょうのもうさる  ことら   ちう    これ  ほんじ  きとくなり
 前大膳大夫、 廣庇Aに候じ令め、仰せに依て僧正之申被る事等を註す。是、本寺の貴徳也。

参考@豫州刺史禪室は、源頼義。
参考A廣庇は、寝殿造りで、母屋と庇の外側にある吹き放ちの部分。孫庇に相当する。庇より長押(なげし)一本分だけ床が低くなっている。広縁。広軒。
玄関が無く広い縁側になっているので、牛車は付ける、輿は載せる

現代語承元三年(1209)十月大十五日乙亥。明王院僧正公胤が、御所へ来られて将軍実朝様と対談をしました。三井寺園城寺の発展には、源頼義以来源家代々がこの寺を大事にした来たことを詳しく話されました。前大膳大夫大江広元が、濡れ縁の広庇にやってきて命令を受けて僧正の云うことを記録しました。それは園城寺のありがたさです。

承元三年(1209)十月大十七日丁丑。リ。權僧正歸洛。而時節属寒天。殊可有遠路煩之間。 將軍家頻雖令拘留給。依可爲長講堂供養導師。被急歸寺云々。相州。大官令已下至諸御家人。餞送物及數百種。剩可獻宿繼兵士之由。被觸仰相摸國以西守護人等云々。

読下し                     はれ  ごんのそうじょうきらく   しか    じせつかんてん  ぞく    こと  えんろ  わずら あ   べ   のかん
承元三年(1209)十月大十七日丁丑。リ。權僧正歸洛す。而るに時節寒天に属し、殊に遠路の煩い有る可き之間、

しょうぐんけしきり かか    とど  せし  たま   いへど   ちょうこうどう くよう  どうし  な   べ     よっ     きじ   いそがれ   うんぬん
將軍家頻に拘わり留ま令め給ふと雖も、長講堂@供養の導師を爲す可きに依て、歸寺を急被ると云々。

そうしゅう だいかんれいいか   しょごけにん  いた    せんそう  ものすうひゃくしゅ  およ
相州、大官令已下の諸御家人に至り、餞送の物數百種に及ぶ。

あまつさ すくつぎ ひょうじ けん  べ   のよし  さがみのくにいせい  しゅごにんら   ふ   おお  らる    うんぬん
剩へ宿繼の兵士Aを獻ず可し之由、相摸國以西の守護人等に觸れ仰せ被ると云々。

参考@長講堂は、京都市下京区にある西山浄土宗の寺。もと後白河法皇の仙洞六条御所内の持仏堂として建立。
参考A兵士は、兵士役(ひょうじやく)
と云って荷物持ちの事。

現代語承元三年(1209)十月大十七日丁丑。晴れです。明王院僧正公胤が京都へ帰ります。しかし今の季節は寒さがきつい時期なのです。特に長旅には差し障りがあるでしょうからと、将軍実朝様は盛んに引き留めましたが、後白河法皇の持仏堂の長講堂の法事の指導僧をすることになっているので、寺へ急いで帰りたいのだそうです。相州義時・大江広元を始めとする御家人達までが出した、餞別の品々は数百種にもなりました。そればかりか道中の荷物持ちの兵隊を差し出すように、相模国から西側の東海道沿線の守護や地頭に命令を出させましたとさ。

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