承元四年庚午(1210)四月大
承元四年(1210)四月大九日丙寅。懷嶋平權守景能入道於相摸國率。 |
読下し ふところじまの
たいらの ごんのかみ かげよし
にゅうどう さがみのくに をい そつ
承元四年(1210)四月大九日丙寅。 懷嶋
平 權守 景能@
入道、相摸國に於て率。
参考@懷嶋平權守景能は、大庭平太景能。神奈川県茅ケ崎市円蔵の神明大神宮のあたりが屋敷跡と云われる。
現代語承元四年(1210)四月大九日丙寅。懐島平権守大庭平太景能入道が相模国で亡くなりました。
承元四年(1210)四月大十九日丙子。リ。京都飛脚參着。去四日。坊門院〔院御姉〕於一條室町故皇太后宮御所崩御。仍南山御幸延引之由申之。又三月十九日。入夜有院号。改中宮職爲陰明門院〔麗子〕云々。 |
読下し はれ きょうと ひきゃくさんちゃく
承元四年(1210)四月大十九日丙子。リ。京都の飛脚參着す。
さんぬ よっか ぼうもんいん 〔いん おんあね〕 いちじょうむろまちこうたいごうぐうごしょ をい ほうぎょ よっ なんざんみゆき えんいんのよし
これ もう
去る四日、坊門院〔院の御姉〕一條室町故皇太后宮御所に於て崩御。仍て南山御幸@延引之由、之を申す。
また さんがつじうくにち
よ い いんごうあ ちうぐうしき
あらた いんめいもんいん 〔れいし〕 な うんぬん
又、三月十九日、夜に入り院号有り。中宮職を改め陰明門院〔麗子〕と爲すと云々。
参考@南山御幸は、熊野詣。
現代語承元四年(1210)四月大十九日丙子。晴れです。京都からの伝令が着きました。先だっての四日に坊門院〔院の姉さん(範子)〕が、一条室町の故皇太后の御所で亡くなられました。それなので、熊野詣は延期になったと報告しました。又、三月十九日の夜になって、院号の宣旨があり、中宮職から陰明門院〔麗子〕としたそうです。
承元四年(1210)四月大廿二日己夘。リ。伊賀守朝光爲使節上洛。依坊門院崩御事也。 |
読下し はれ いがのかみともみつしせつ
な じょうらく
ぼうもんいんほうぎょ こと よっ なり
承元四年(1210)四月大廿二日己夘。リ。伊賀守朝光使節と爲し上洛す。坊門院崩御の事に依て也。
現代語承元四年(1210)四月大二十二日己卯。晴れです。伊賀守朝光が使いとして京都へ上りました。これは坊門院の弔いのためです。