吾妻鏡入門第十九巻

承元四年庚午(1210)十一月

承元四年(1210)十一月大廿日甲辰。戌尅燒亡。此風甚利。相摸太郎殿小町御亭并近隣御家人宅等災。其後不及他所。

読下し                      いぬのこく しょうぼう   こ   かぜはなは さと
承元四年(1210)十一月大廿日甲辰。戌尅、燒亡す。此の風甚だ利し。

 さがみのたろうどの  こまちおんてい なら   きんりん ごけにんたくら わざわい    そ   ご  たしょ   およばず
相摸太郎殿が小町御亭@并びに近隣御家人宅等災す。其の後他所に及不。

参考@小町御亭は、宝戒寺で後の得宗邸のようだ。

現代語承元四年(1210)十一月二十日甲辰。戌の刻(午後八時頃)火事です。この風がずる賢くて、相模太郎泰時さんの小町の屋敷と近所の御家人の家が燃えました。他には燃え移りませんでした。

承元四年(1210)十一月大廿一日乙巳。雪降。於幕府南面。有和歌御會。重胤。朝盛等祗候云々。

読下し                        ゆきふる  ばくふ  なんめん  をい     わか   おんんかいあ   しげたね とももり ら しこう      うんぬん
承元四年(1210)十一月大廿一日乙巳。雪降。幕府の南面@に於て、和歌の御會有り。重胤、朝盛等祗候すと云々。

参考@南面は、大倉幕府の中央で東西に塀をしつらえ、南北に分け、北を私邸、南を公邸としていたようだ。その南面の公邸。

現代語承元四年(1210)十一月二十一日乙巳。雪が降りました。幕府の南面の公邸で和歌の会がありました。東平太重胤・和田三郎朝盛が参加しましたとさ。

承元四年(1210)十一月大廿二日丙午。於御持佛堂。被供養聖徳太子御影〔南無佛〕。眞知房法橋隆宣爲導師。此事日來御願云々。

読下し                        おんじぶつどう  をい    しょうとくたいしみえい 〔なむぶつ〕     くよう さる
承元四年(1210)十一月大廿二日丙午。御持佛堂に於て、聖徳太子御影@〔南無佛〕を供養被る。

しんちぼうほっきょうりゅうせん どうしたり  こ   こと ひごろ   ごがん   うんぬん
眞知房法橋隆宣 導師爲。此の事日來の御願と云々。

参考@聖徳太子御影は、平安中頃に、関西では太子信仰、関東では天神信仰が流行ったそうだ。

現代語承元四年(1210)十一月二十二日丙午。将軍実朝様の守り本尊持仏堂で、聖徳太子の画像〔南無阿弥陀仏〕の法事をしました。真知坊法橋隆宣が指導僧です。この行事は普段から望んでいたことなのだそうな。

承元四年(1210)十一月大廿三日丁未。奥州十二年合戰繪。自京都被召下之。今日御覽。仲業依仰讀申其詞云々。

読下し                        おうしゅうじうにねんかっせん え  きょうとよ   これ  めしくださる    きょう  ごらん
承元四年(1210)十一月大廿三日丁未。奥州十二年合戰@繪。京都自り之を召下被る。今日御覽す。

なかなりおお    よっ  そ  ことば  よ   もう    うんぬん
仲業仰せに依て其の詞を讀み申すと云々。

参考@奥州十二年合戰は、前九年の役と後三年の役。

現代語承元四年(1210)十一月二十三日丁未。前九年後三年合戦絵巻を、京都から取り寄せました。今日拝見しました。右京進仲業が命じられてその書き文章を読み上げましたとさ。

承元四年(1210)十一月大廿四日戊申。駿河國建福(穂)寺鎭守馬鳴大明神。去廿一日夘尅。詫少兒。西歳可有合戰之由云々。別當神主等注進之。今日到來。相州披露之。仍可有御占歟之由。廣元朝臣雖申行之。將軍家彼廿一日曉夢合戰事得其告。非慮夢歟。此上不可及占云々。被進御釼於彼社云々。

読下し                        するがのくに たきょうじちんじゅ まなりだいみょうじん
承元四年(1210)十一月大廿四日戊申。駿河國 建穂寺@鎭守馬鳴大明神A

さんぬ にじういちにち うのこく   しょうに   たく     とりどし  かっせんあ  べ   のよし  うんぬん
去る 廿一日 夘尅、少兒に詫し、西歳に合戰有る可しB之由と云々。

べっとうかんぬしら これ  ちうしん   きょう  とうらい   そうしゅうこれ  ひろう
別當神主等之を注進し、今日到來す。相州之を披露す。

よっ  おんうらあ   べ   か の よし  ひろもとあそんこれ  もう  おこな  いへど   しょうぐんけ か にじういちにち あかつき   ゆめ  かっせん  こと そ  つげ  え
仍て御占有る可き歟之由、廣元朝臣之を申し行うと雖も、將軍家彼の廿一日の 曉、 夢に合戰の事其の告を得る。

きょむ  あらざるか  こ   うえうらな   およ  べからず  うんぬん  ぎょけんを か  しゃ  しん  らる    うんぬん
慮夢に非歟。此の上占いに及ぶ不可と云々。御釼於彼の社に進じ被ると云々。

参考@建穂寺は、静岡県静岡市葵区建穂2丁目12番に所在。元は、馬鳴大明神と神仏混交の建穂寺。神仏分離で移った。
参考A馬鳴大明神は、静岡県静岡市葵区建穂271建穂神社たきょう)。
参考B西歳に合戰有るは、建暦三年(1213)癸酉に和田合戦があるので、予告のように後から書かれたものと思われる。

現代語承元四年(1210)十一月二十四日戊申。駿河国(静岡市)の建穂寺を守る馬鳴大明神は、先日の二十一日卯の刻(午前六時頃)に、子供の口を借りて戦があるぞとお告げがあったと、筆頭の神主が書き出し、今日到着したので、守護の相州義時が将軍実朝様に発表しました。そこで「占いをしましょうか。」と大江広元が云いましたが、将軍実朝様は同じ二十一日の明け方に夢で戦があるとお告げを聞いてます。逆夢ではないので、わざわざ占いをする必要はない。と刀をその神社に奉納することにしましたとさ。

承元四年(1210)十一月大廿五日己酉。於御持佛堂。有例文殊供養。導師莊嚴房行勇云々。

読下し                        おんじぶつどう   をい    れい  もんじゅ くよう あ     どうし  しょうごんぼうぎょうゆう  うんぬん
承元四年(1210)十一月大廿五日己酉。御持佛堂に於て、例の文殊@供養有り。導師は莊嚴房行勇と云々。

現代語承元四年(1210)十一月二十五日己酉。将軍実朝様の守り本尊持仏堂で、五月以来の五字文殊の法事をしました。指導僧は、荘厳坊退耕行勇だそうです。

説明@例の文殊は、十八巻元久二年五月二十五日に御所で五字文殊の供養をしている。九月二十五日条の五字文殊供養。五字文殊は、文殊にその姿は一、五、六、八髻の文殊があり、それぞれの真言の字数により一、五、六、八字文殊と称される。一字文殊は増益、五字文殊は敬愛、六字文殊は調伏、八字文殊は息災の修法の本尊として迎えられる。HP「ほとけ」から。以上から文殊祭りは二十五日らしい。そういえば、大船の常楽寺の文殊祭も1月25日だ。

十二月へ

吾妻鏡入門第十九巻

inserted by FC2 system