吾妻鏡入門第二十巻

建暦二年壬申(1212)正月小

建暦二年(1212)正月小一日己酉。相州被進垸飯。御釼武州持參。御調度遠江守。御行騰沓賀茂冠者。御馬五疋如例。

読下し                   そうしゅう  おうばん  すす  らる    ぎょけん  ぶしゅうじさん    ごちょうど  とおとうみのかみ
建暦二年(1212)正月小一日己酉。相州、垸飯を進め被る。御釼は武州持參す。御調度は遠江守。

おんむかばき   かものかじゃ  おんうまごひきれい  ごと
御行騰沓は賀茂冠者。御馬五疋例の如し。

現代語建暦二年(1212)正月小一日己酉。相州義時様が、将軍への御馳走のふるまいをしました。献上する刀を武州時房が持って来て、弓矢は遠江守源親廣。乗馬袴の行縢は賀茂冠者です。引き出物の馬五頭はいつものとおりです。

建暦二年(1212)正月小二日庚戌。垸飯。前大膳大夫廣元朝臣沙汰。

読下し                   おうばん  さきのだいぜんだいぶひろもとあそん さた
建暦二年(1212)正月小二日庚戌。垸飯。 前大膳大夫廣元朝臣、沙汰す。

現代語建暦二年(1212)正月小二日庚戌。将軍への御馳走のふるまい大江広元さんの負担です。

建暦二年(1212)正月小三日辛亥。垸飯。小山左衛門尉朝政進之。御釼持參役人結城左衛門尉朝光云々。

読下し                   おうばん  おやまのさえもんのじょうともまさ これ  すす    ぎょけんじさん  えき  ひと  ゆうきのさえもんのじょうともみつ うんぬん
建暦二年(1212)正月小三日辛亥。垸飯。小山左衛門尉朝政、之を進む。御釼持參の役の人は結城左衛門尉朝光と云々。

現代語建暦二年(1212)正月小三日辛亥。将軍への御馳走のふるまいは、小山左衛門尉朝政献上です。刀を持って来た人は結城左衛門尉朝光だとさ。

建暦二年(1212)正月小十日己未。快リ。御所被行心經會。

読下し                   かいせい  ごしょ  しんぎょうえ  おこ  らる
建暦二年(1212)正月小十日己未。快リ。御所で心經會を行は被る。

現代語建暦二年(1212)正月小十日己未。空は快晴です。御所で般若心経を唱える儀式心経会でした。

建暦二年(1212)正月小十一日庚申。天顏快リ。御弓始也。
  射手
 一番 小國源兵衛三郎  工藤小次郎
 二番 海野小太郎    藤澤四郎
 三番 佐原又太郎兵衛尉 市河五郎
 四番 愛甲三郎     佐々木小三郎
 五番 和田平太     佐貫五郎
以上十人之中。先召小國源兵衛三郎頼継。是無双精兵也。而不帶弓由申之間。被下鎭西以下諸國進納之荒木弓等賜之。一五度射之處。毎度其弦絶訖。射藝又頗可謂養由。將軍家御感之餘。於當座賜越前國稻津保地頭於頼繼。件御下文云。爲弦麻可令知行者。此頼継者。丹後守源頼行孫。桃園兵衛大夫宗頼子也。

読下し                     てんがんかいせい おんゆみはじめ なり
建暦二年(1212)正月小十一日庚申。天顏快リ。 御弓始 也。

     いて
  射手

  いちばん  おぐにのげんぴょうえさぶろう      くどうのこじろう
 一番 小國源兵衛三郎@    工藤小次郎A

   にばん  うんののこたろう              ふじさわのしろう
 二番 海野小太郎B      藤澤四郎C

  さんばん  さわらのまたたろうひょうえのじょう    いちかわのごろう
 三番 佐原又太郎兵衛尉   市河五郎

  よんばん  あいこうのさぶろう             ささきのこさぶろう
 四番 愛甲三郎D       佐々木小三郎

   ごばん  わだのへいた                さぬきのごろう
 五番 和田平太       佐貫五郎E

いじょうじうにんのなか   ま  おぐにのげんひょうえさぶろうよりつぐ め    これ  むそう  せいへいなり
以上十人之中、先ず小國源兵衛三郎頼継を召す。是、無双の精兵也。

しか    ゆみ  おびず  よし  もう  のかん  ちんぜいいげ しょこくしんのうの あらきゆみ ら   くだされ  これ  たま
而るに弓を帶不の由を申す之間、鎭西以下諸國進納之荒木弓等を下被、之を賜はる。

いちごど  い  のところ  まいど そ  つる た をはんぬ
一五度F射る之處、毎度其の弦絶へ訖。

しゃげいまた すこぶ ようゆう  い   べ    しょうぐんけぎょかんのあま    とうざ   をい  えちぜんのくに いなつのほう  ぢとうしきを よりつぐ  たま
射藝又、頗る養由Gと謂つ可き、將軍家御感之餘り、當座に於て 越前國 稻津保Hの地頭於頼繼に賜はる。

くだん おんくだしぶみ い
件の 御下文に云はく。

 つるを  ためちぎょうせし  べ   てへ    こ   よりつぐは  たんごのかみみなもとよりゆき まご  ももぞのひょうえたいふむねより  こなり
弦麻の爲知行令む可し者り。此の頼継者、丹後守 源頼行 の孫、桃園兵衛大夫宗頼Iの子也。

参考@小國源兵衛三郎は、頼継で頼行流源氏。入道源三位頼政の弟の頼仲ー宗頼ー頼継。越後国小国保。新潟県長岡市小国町。
参考A工藤小次郎は、行光でこの頃、義時の被官になっている。
参考B海野小太郎は、幸氏。諏訪神党。
参考C
藤澤四郎は、C親で二郎とも書かれる。
参考D愛甲三郎は、季隆。畠山重忠を射止めた人。
参考E佐貫五郎は、二度しか出演がなく実名は不明。但し上総国佐貫なので、千葉県富津市佐貫。
参考F一五度は、四十九巻正元二年(1260)正月十二日・十四日の記事により、一五度は、二本づつ五度で、二五度は二本づつ五度を二回らしい。
参考G
養由(基)は、中国、春秋時代の弓の名人。楚の人。百歩の距離から柳葉を射て百発百中し、また、弓矢の調子を整えただけで猿が鳴き叫んだという。Goo電子辞書から
参考
H稻津保は、福井県福井市稲津町。
参考I桃園兵衛大夫宗頼は、福井県福井市桃園。

現代語建暦二年(1212)正月小十一日庚申。空は晴れ渡り快晴です。今年初めて弓を射る弓始式です。

  射手
 一番 小国源兵衛三郎頼継 対 工藤小次郎行光
 二番 海野小太郎幸氏   対 藤沢二郎清親
 三番 佐原又太郎兵衛尉  対 市河五郎行重
 四番 愛甲三郎季隆    対 佐々木小三郎盛季
 五番 和田平太胤長    対 佐貫五郎

以上の十人の中で、初めに小国源兵衛三郎頼継を御指名になりました。彼は、並ぶもののない優秀なつわものです。なのに弓を持て来ていませんと云うので、九州などの諸国から献上された丸木の強弓や矢を下賜して与えました。これで二本を五度射たところ、毎回弓の弦が切れてしまいました。弓を射る技は、中国の弓の名人の養由基と云ってもいいんじゃないと、将軍実朝様は感動のあまり、その場で越前国稲津保の地頭職を頼継に与えました。その命令書には、弓の弦を得るために年貢を取なさいと書かれています。この頼継は、丹後守源頼行の孫の桃園兵衛大夫宗頼の息子です。

建暦二年(1212)正月小十九日戊辰。リ。將軍家御參鶴岳八幡宮。相州。前大膳大夫。安藝權守範高。相摸權守經定。美作藏人朝親。民部丞康俊。和田左衛門尉義盛。同新左衛門尉常盛。小山左衛門尉朝政。同七郎左衛門尉朝光。三浦兵衛尉義村。東平太所重胤。葛西兵衛尉C重等供奉。先々召大須賀四郎胤信。被仰可懸御調度由之處。固辞之。仰云。於當役者。右大將家御時。以二十之箭可射取廿人敵之者可候之由。被定畢。然者奉之勇士者可備面目之處。稱下劣之職。遁避條甚自由也。早可止出仕之旨。蒙御氣色云々。和田新左衛門尉常盛隨此役云々。

読下し                     はれ  しょうぐんけ つるがおかはちまんぐう ぎょさん
建暦二年(1212)正月小十九日戊辰。リ。將軍家、 鶴岳八幡宮 に御參す。

そうしゅう さきのだいぜんだいぶ あきのごんのかみのりたか さがみのごんのかみつねさだ みまさかのくらんどともちか みんぶのじょうやすとし わだのさえもんのじょうよしもり
相州、 前大膳大夫、 安藝權守範高@、 相摸權守經定、 美作藏人朝親、 民部丞康俊、 和田左衛門尉義盛、

おな   しんさえもんのじょうつねもり  おやまのさえもんのじょうともまさ  おな   しちろうさえもんのじょうともみつ  みうらのひょうえのじょうよしむら とうのへいたところのしげたね
同じき新左衛門尉常盛、 小山左衛門尉朝政、 同じき七郎左衛門尉朝光、 三浦兵衛尉義村、 東平太所重胤A

かさいのひょうえのじょうきよしげ ら ぐぶ
葛西兵衛尉C重 等供奉す。

さきざき  おおすがのしろうたねのぶ  め     ごちょうど   か     べ   よしおお  らる  のところ  これ   こじ     おお    い
先々、大須賀四郎胤信Bを召し、御調度を懸ける可し由仰せ被る之處、之を固辞す。仰せて云はく。

とうえき  をい  は   うだいしょうけ  おんとき  にじう の や   もっ  にじうにん てき   いと   べ   のもの  そうら べ   のよし  さだ られをはんぬ
當役に於て者、右大將家の御時、二十之箭を以て廿人の敵を射取る可き之者、候う可し之由、定め被畢。

しからば これ うけたまは ゆうしは  めんもく  そな  べ   のところ  げれつのしき  しょう   とんぴ じょうはなは じゆうなり
然者、之を奉る勇士者、面目を備う可し之處、下劣之職と稱し、遁避の條甚だ自由也。

はや  しゅっし  と     べ   のむね  みけしき  こうむ   うんぬん  わだのしんさえもんのじょうつねもり  こ  えき  したが   うんぬん
早く出仕を止める可し之旨、御氣色を蒙ると云々。和田新左衛門尉常盛、此の役に隨うと云々。

参考@安藝權守範高は、熱田神宮の藤原範雅の子。
参考A東平太所重胤は、東は名字で荘園名。平太は桓武平氏の太郎。所は国衙の侍所経験者。重胤は実名。胤は千葉一族の通字。
参考B大須賀四郎胤信は、下総国大須賀郷で千葉県成田市伊能に大須賀小学校。

現代語建暦二年(1212)正月小十九日戊辰。晴れです。将軍実朝様は鶴岡八幡宮へお参りです。
相州義時・前大膳大夫大江広元・安芸権守藤原範高・相模権守経定・美作蔵人朝親・民部丞町野康俊・和田左衛門尉義盛・同和田新左衛門尉常盛・小山左衛門尉朝政・同結城左衛門尉朝光・三浦兵衛尉義村・東平太所重胤・葛西兵衛尉清重などがお供をしました。
この以前に大須賀四郎胤信を呼んで、弓矢持ちをするよう命じましたが、辞退しました。将軍実朝様がおっしゃられるのには「この役は、頼朝様の時に、二十本の矢で二十人の敵を射る程の腕前の者が仕えるようにお決めになられた。それなので、この役を受ける勇敢なる武士は名誉を与えられることになるのに、それを下品な役だと云って逃げるなどとんでもないわがまま勝手だ。幕府への勤務を止めさせるように。」と、お怒りになりましたとさ。それで和田新左衛門尉常盛がこの役につくことになりましたとさ。

建暦二年(1212)正月小廿六日甲戌。霽。將軍家二所御精進始。親職擇申日次也。

読下し                     はれ  しょうぐんけ にしょ  ごしょうじんはじ    ちかもと ひなみ えら  もう  なり
建暦二年(1212)正月小廿六日甲戌。霽。將軍家二所@の御精進始め。親職日次Aを擇び申す也。

参考@二所は、二所詣でといって箱根権現と伊豆山権現の二箇所に詣でる。必ず三島神社にも詣でる。皆、頼朝が平家討伐を祈願した神社。
参考A
日次は、その日の吉凶。おひがら。

現代語建暦二年(1212)正月小二十六日甲戌。晴れました。将軍実朝様は、箱根と伊豆の二か所の権現様にお参りするための精進潔斎の始めの日です。親職がお日がらを選んで申しあげました。

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