吾妻鏡入門第二十巻

建暦二年壬申(1212)二月大

建暦二年(1212)二月大一日戊寅。未明。將軍家以和田新兵衛尉朝盛爲御使。被送遣梅花一枝於塩谷兵衛尉朝業。此間仰云。不名謁たれにか見せんと許(計)云て。不聞御返事可歸參云々。朝盛不違御旨。即走參。朝業追奉一首和歌。
  うれしさも匂も袖に餘りけり我爲おれる梅の初花

読下し                    みめい  しょうぐんけ  わだしんひょうえのじょうとももり  もっ  おんし  な
建暦二年(1212)二月大一日戊寅。未明。將軍家、和田新兵衛尉朝盛を以て御使と爲し、

うめ  はなひとえだを  えんやのひょうえのじょうともなり  おく  つか  さる
梅の花一枝於 塩谷兵衛尉朝業@に 送り遣は被る。

かく  あいだおお    い       なのらず         み       ばか  いっ    ごへんじ   き   ず きさんすべ    うんぬん
此の間仰せて云はく。名謁不たれにか見せんと計り云て。御返事を聞か不歸參可しと云々。

とももり  おんむね たがはず すなは はし  まい   ともなりいっしゅ   わか   おっ たてまつ
朝盛、御旨に違不。即ち走り參る。朝業一首の和歌を追て奉る。

              におい そで  あま      わがため      うめ  はつはな
  うれしさも匂も袖に餘りけり我爲おれる梅の初花

参考@塩谷兵衛尉朝業は、下野国塩谷庄で宇都宮左衛門尉朝綱の孫。宇都宮歌壇の初め。栃木県塩谷郡塩谷町。

現代語建暦二年(1212)二月大一日戊寅。夜明け前に将軍実朝様は、和田新兵衛尉朝盛を使いとして、梅の枝一輪を塩谷兵衛尉朝業に持って行かせました。その時云うのには「名前を名乗らずに、誰に見せましょうかと云って、返事を聞かずに帰って来なさい。」とさ。和田朝盛は、云った通りにすぐに走って帰ってきました。塩谷朝業は和歌を一首追ってよこしました。
 嬉しさも 匂いも袖に 余りける 我ため折れる 梅の発初花
(嬉しいことに梅の香りがあふれかえっています 私のためにわざわざ咲き始めの梅を折って届けてくれたのですね)

建暦二年(1212)二月大三日庚辰。リ。辰刻。將軍家并尼御臺所二所御進發。相州。武州。修理亮以下扈從云々。

読下し                   はれ  たつのこく  しょうぐんけなら  あまみだいどころ  にしょ  ごしんぱつ  そうしゅう ぶしゅう  すりのすけ いげ こしょう    うんぬん
建暦二年(1212)二月大三日庚辰。リ。辰刻。將軍家并びに尼御臺所、二所へ御進發。相州、武州、修理亮以下扈從すと云々。

現代語建暦二年(1212)二月大三日庚辰。晴れです。辰の刻(午前八時頃)将軍実朝様と尼御台所政子様は、箱根と走湯山の二所詣でに出発です。相州義時・武州時房・修理亮泰時以下がお供をしましたとさ。

建暦二年(1212)二月大八日乙酉。將軍家以下自二所御歸着。

読下し                   しょうぐんけ いげ   にしょよ    ごきちゃく
建暦二年(1212)二月大八日乙酉。將軍家以下、二所自り御歸着。

現代語建暦二年(1212)二月大八日乙酉。将軍実朝様以下が、二所詣でから帰りました。

建暦二年(1212)二月大十四日辛夘。武藏國々務間事。時房朝臣被致興行沙汰。於郷々被補郷司職。而匠作〔泰時〕聊雖有被執申之旨。任入道武藏守義信國務之例。可令沙汰之由被仰下之間。所存其趣也。難領状之由。被答申云々。

読下し                     むさしのくに  こくむ  あいだ こと  ときふさあそんこうぎょう  さた   いたされ  ごうごう  をい  ごうししき  ぶさる
建暦二年(1212)二月大十四日辛夘。武藏國の々務の間の事、時房朝臣興行の沙汰を致被、郷々に於て郷司職を補被る。

しか   しょうさく 〔やすとき〕 いささ と   もうさる  のむね あ    いへど   にゅうどうむさいのかみよしのぶ  こくむのれい  まか     さた せし  べ   のよし
而るに匠作@〔泰時〕聊か執り申被るA之旨有ると雖も、 入道武藏守義信が 國務之例に任せ、沙汰令む可き之由

おお  くださる  のかん  そ おもむき ぞん   ところなり  りょうじょう がた   のよし  こた  もうさる    うんぬん
仰せ下被る之間、其の趣を存ずる所也。領状し難き之由、答へ申被ると云々。

参考@匠作は、修理亮の唐語。
参考A執り申被るは、口を挟む。

現代語建暦二年(1212)二月大十四日辛卯。武蔵国の国司の公田の調査については、時房さんが昔通りに復興させるために、各郷に郷を管理する郷司職を任命しました。しかし、匠作泰時さんが多少口を挟んできましたが、入道武藏守大内義信が国司の時の管理の仕方に合わせて処理するように、将軍実朝様が仰せになったので、その通りにすることになりました。しかし泰時は、承知できないなと答えたそうですよ。

建暦二年(1212)二月大十九日丙申。京都大番懈緩國々事。就被尋聞召之。今日有其沙汰。於向後者。一ケ月無故令不參者。三ケ月可懃加之由。被仰諸國守護人等。義盛。義村。盛時奉行之。又近日南都北嶺不靜。去月廿二日以後。山門騒動。可燒三井寺之由有風聞。廿七日夜。雷電之際。奈良法師成群。入蓮花王院寳藏。縛兵士。破開寳藏。盜銀藥師像一躰。御釼二十逃去。而今月四日依賣銀事露顯。其使者被搦取之故。南都蜂起云々。切り貼りの誤謬で建暦元年三月十九日から移動

読下し                     きょうとおおばんけかん  くにぐに  こと  たず  きかれ    つ   これ  めさる     きょう そ    さた あ
建暦二年(1212)二月大十九日丙申。京都大番懈緩の國々の事、尋ね聞被るに就き之を召被る。今日其の沙汰有り。

きょうご  をい  は   いっかげつゆえな   ふさんせし  ば    さんかげつつと  くは  べ   のよし  しょこくしゅごにんら   おお  らる
向後に於て者、一ケ月故無く不參令め者、三ケ月懃め加う可き之由、諸國守護人等に仰せ被る。

よしもり  よしむら  もりときこれ ぶぎょう
義盛、義村、盛時@之を奉行す。

また  きんじつ なんと ほくれい しず ならず さんぬ つきにじうににち いご   さんもんそうどう    みいでら  や   べ   のよし  ふうぶんあ
又、近日 南都 北嶺 靜か不。去る月廿二日以後、山門騒動す。三井寺を燒く可き之由、風聞有り。

にじうしちにち よ  らいでんのさい   ならほうし むれ  な     れんげおういん  ほうぞう  い     へいし  しば    ほうぞう  やぶ  ひら
廿七日の夜、雷電之際、奈良法師群を成し、蓮花王院の寳藏に入り、兵士を縛り、寳藏を破り開き、

ぎん  やくしぞういったい  ぎょけんにじう  ぬす  に   さ
銀の藥師像一躰、御釼二十を盜み逃げ去る。

しか    こんげつよっか ぎん  う   こと  よっ  ろけん     そ   ししゃ から  とられ   のゆえ  なんと ほうき    うんぬん
而るに今月四日銀を賣る事に依て露顯す。其の使者搦め取被る之故、南都蜂起すと云々。

参考@義盛、義村、盛時は、この記事から義盛が侍所別当なので、義村は梶原平三景時の後をついで所司になってるようだ。盛時は事務官。

現代語建暦二年(1212)二月大十九日丙申。京都朝廷の御所の警備をする京都大番役を怠けている国などについて、将軍実朝様がお尋ねになりたいので、政務担当御家人をお呼になりました。今日、その裁決がありました。今後については、一ヶ月理由もなく出てこなかった者は、三か月勤務期間を追加するように、諸国の守護人達に命令されました。和田義盛・三浦義村・平民部烝盛時が指揮担当します。
又、最近南都奈良と北嶺比叡山では、騒ぎが起きている。先月二十二日以後、延暦寺が大騒ぎだ。三井寺を焼き払いに行くと噂がたっています。二十七日の夜、雷鳴に乗じて奈良の僧兵どもが群れを作って、蓮華王院三十三間堂の宝物庫になだれ込み、警備の兵隊を縛って、蔵の扉を壊して開け、銀の薬師如来像一体と奉納された刀二十本を盗んでいきました。しかし、今月四日に銀を売った事から足がついて、その売りに来た使いをとっつかまえたので、奈良の僧兵が暴動を興しました。

建暦二年(1212)二月大廿三日庚子。山門騒動事。任被仰下之旨。相催京畿御家人。可警固園城寺之由。被仰駿河守季時。左衛門尉廣綱等。足立八郎元春爲御使。切り貼りの誤謬で建暦元年三月二十三日から移動

読下し                     さんもんそうどう  こと  おお  くださる  のむね  まか    けいき   ごけにん  あいもよお
建暦二年(1212)二月大廿三日庚子。山門騒動の事、仰せ下被る之旨に任せ、京畿の御家人を相催し、

おんじょうじ  けいごすべ  のよし  するがのかみすえとき さえもんのじょうひろつなら  おお  らる   あだちのはちろうもとはる おんし  な
園城寺を警固可き之由、 駿河守季時、左衛門尉廣綱等に仰せ被る。 足立八郎元春 御使と爲す。

現代語建暦二年(1212)二月大二十三日庚子。延暦寺の騒ぎについて、将軍の命令通りに、関西の御家人を集めて、園城寺を警備するように、駿河守中原季時と佐々木左衛門尉広綱に命令を出しました。足立八郎元春を使者としました。

建暦二年(1212)二月大廿五日壬寅。於御持佛堂。有恒例文殊供養。導師隆宣法橋云々。

読下し                     おんじぶつどう  をい    こうれい  もんじゅくようあ     どうし  りょううせんほっきょう うんぬん
建暦二年(1212)二月大廿五日壬寅。御持佛堂に於て、恒例の文殊供養有り。導師は隆宣法橋と云々。

現代語建暦二年(1212)二月大二十五日壬寅。将軍実朝様の守り本尊の持仏堂で、定例となった五字文殊の法事がありました。指導僧は、隆宣法橋だそうな。

建暦二年(1212)二月大廿八日乙巳。相摸國相摸河橋數ケ間朽損。可被加修理之由。義村申之。如相州。廣元朝臣。善信有群議。去建久九年。重成法師新造之。遂供養之日。爲結縁之。故 將軍家渡御。及還路有御落馬。不經幾程薨給畢。重成法師又逢殃。旁非吉事。今更強雖不有再興。何事之有哉之趣一同之旨。申御前之處。仰云。故 將軍家薨御者。執武家權柄二十年。令極官位給後御事也。重成法師者。依己之不義。蒙天譴歟。全非橋建立之過。此上一切不可稱不吉。有彼橋。爲二所御參詣要路。無民庶往反之煩。其利非一。不顛倒以前。早可加修復之旨。被仰出云々。

読下し                     さがみのくに さがみがわばし すうかけんきゅうそん   しゅうり  くは  らる  べ   のよし  よしむらこれ  もう
建暦二年(1212)二月大廿八日乙巳。相摸國 相摸河橋 數ケ間朽損す。修理を加へ被る可き之由、義村之を申す@

そうしゅう ひろもとあそん  ぜんしん  ごと  ぐんぎ あ     さんぬ けんきゅうくねん しげなりほっしこれ しんぞう
相州、廣元朝臣、善信の如き群議有り。去る建久九年、重成法師之を新造す。

くよう   と      のひ   これ  けちえん  ため  こしょうぐんけ とぎょ    かんろ  およ  おんらくば あ      いくほど  へず こうむ たま をはんぬ
供養を遂げる之日、之と結縁の爲、故將軍家渡御す。還路に及び御落馬有りて、幾程を經不薨り給ひ畢。

しげなりほっしまた わざわい あ   かたがた きちじ あらず
重成法師又 殃に逢う。旁、吉事に非。

 いまさらあなが  さいこう あらず いへど  なにごとの あ     やのおもむき いちどうのむね  ごぜん  もう    のところ
今更強ちに再興有不と雖も、何事之有らん哉之趣 一同之旨、御前に申する之處、

おお    い       こしょうぐんこうむ  たま  は    ぶけ   けんぺいにじうねん  と     かんい   きは  せし  たま  のち  おんことなり
仰せて云はく。故將軍家薨り御う者、武家の權柄二十年を執り、官位を極め令め給ふ後の御事也。

しげなりほっしは   おのれのふぎ  よっ    てんけん こうむ か   まった はしこんりゅうのとが あらず かく  うえ  いっさいふきつ  しょう  べからず
重成法師者、己之不義に依て、天譴を蒙る歟。全く橋建立之過に非。此の上は一切不吉と稱す不可。

か   はし あ      にしょ ごさんけい  ようろ  ため  みしょおうはんのわずらいな   そ   り ひとつ あらず
彼の橋有りて、二所御參詣の要路の爲、民庶往反之煩無く、其の利一に非。

てんとうせざるいぜん   はや しゅうふく くは  べ   のむね  おお  いださる    うんぬん
顛倒不以前に、早く修復を加う可き之旨、仰せ出被ると云々。

参考@義村之を申すは、三浦義村は相模国の介の立場としてらしい。

現代語建暦二年(1212)二月大二十八日乙巳。相模国の相模川の橋が数か所古くなって破損しております。修理した方が良いのではないかと三浦義村が提案しました。相州義時・大江広元・三善善信等の討議がありました。この橋は、去る建久九年(1198)稲毛重成法師が新しく造りました。橋の落成記念の橋供養の日に、この功徳との縁を結ぶため、故頼朝将軍も出席なされました。この帰り道で落馬されて、それから程なく亡くなられました。稲毛重成も畠山重忠事件で三浦一党に殺されました。どれもこれも縁起の悪い事ばかりです。今さら、わざわざ作り直さなくても、何てこともないだろうと意見が一致したので、将軍実朝様に報告した所、おっしゃられるのには、「故頼朝将軍が亡くなられたのは、武家の頭領の権力を握って二十年政治をとり、出世の官位も上がるところまで上がった後の事である。稲毛重成は、自分が従兄弟の畠山重忠への裏切りによって、天罰を受けたんじゃないの。全然橋の建立による神罰ではないよ。だから、これ以上不吉だと云うのはおかしい。あの橋があるから、二所詣でへの本道だから、一般民衆の行き来にも不便がなく、その利益は一つ二つではないよ。壊れて倒れてしまう前に、早く修理を施すように。」と仰せになられましたとさ。

三月へ

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