吾妻鏡入門第二十巻

建暦二年壬申(1212)十一月

建暦二年(1212)十一月大八日庚戌。於御所有繪合之儀。以男女老若。相分左右。被决其勝負。此事。自八月上旬。有沙汰之間。面々結搆尤甚。或自京都尋之。或態令圖風情。廣元朝臣献覽繪者。圖小野小町一期盛衰事。朝光分繪者。吾朝四大師傳也。數巻之中。此兩部頻及御自愛。仍老方勝訖云々。

読下し                      ごしょ   をい  えあわ   の ぎ あ    なんにょろうにゃく もっ     さゆう  あいわか    そ  しょうぶ  けっ  らる
建暦二年(1212)十一月大八日庚戌。御所に於て繪合せ@之儀有り。男女老若を以て、左右に相分れ、其の勝負を决せ被る。

こ   こと  はちがつじょうじゅん よ    さた あ   のかん  めんめん  けっこうもっと はなは
此の事、 八月上旬 自り、沙汰有る之間、面々の結搆尤も甚だし。

ある    きょうと よ   これ  たず    ある   わざわざ ふぜい  ずせし
或ひは京都自り之を尋ね。或ひは態と風情を圖令む。

ひろもとあそん けんらん  えは  おののこまちいちごせいすい  こと  ず     ともみつ  ぶん  えは   わがちょう よんだいしでんなり
廣元朝臣献覽の繪者、小野小町一期盛衰の事を圖し。朝光の分の繪者、吾朝 四大師傳也。

すうかんの なか  こ  りょうぶすこぶ  ごじあい   およ    よっ  おいかた  か  をは      うんぬん
數巻之中、此の兩部頻る御自愛に及ぶ。仍て老方が勝ち訖んぬと云々。

参考@絵合わせは、平安時代、参加者を左右に分け、両方から絵、または絵に和歌などを添えたものを出し合い優劣を争った遊び

現代語建暦二年(1212)十一月大八日庚戌。御所で、持ち寄った絵の優劣を争う絵合わせ会をしました。男女を老若に分けて勝負比べをしました。このことは、八月上旬からやるからと仰せがあって、それぞれ準備に余念がありませんでした。ある人は京都から取り寄せたし、又ある人は注文までして絵を描いてもらいました。大江広元さんの提出した絵は、小野小町の絶世時代から落ちぶれ行く様子を絵にしてます。結城朝光の出した絵は、この日本国の四人の大師の伝説でした。何巻も出された中で、将軍実朝様はこの二つがとても気に入ったので、老年組の方が勝ちとなりましたとさ。

建暦二年(1212)十一月大十一日癸丑。河内國關東藍御候畢(作手六十人事。任例以中右衛門尉朝定。爲奉行人。可致官仕之旨。被仰下之。

読下し                       かわちのくに かんとうあいおんさくてろくじうにん  こと  れい  まか  なかうえもんのじょうともさだ  もっ
建暦二年(1212)十一月大十一日癸丑。河内國 關東藍御作手六十人の事、例に任せ中右衛門尉朝定を以て、

ぶぎょうにん  な     かんじ いた  べ   のむね  これ  おお  くださる
奉行人と爲し、官仕致す可し之旨、之を仰せ下被る。

現代語建暦二年(1212)十一月大十一日癸丑。河内国の関東用の藍の栽培の作り手六十人は、今まで通りに中原右衛門尉朝定を監督者として、勤務するように命令を出されました。

建暦二年(1212)十一月大十三日乙夘。將軍家令參法華堂給。供僧等參入。以國絹被施之。行光爲奉行。

読下し                       しょうぐんけ   ほけどう   まい  せし  たま    ぐそうら さんにゅう
建暦二年(1212)十一月大十三日乙夘。將軍家、法華堂へ參ら令め給ふ。供僧等參入す。

くにぎぬ  もっ  これ  ほどこされ    ゆきみつぶぎょう  な
國絹を以て之を施被る。行光奉行を爲す。

現代語建暦二年(1212)十一月大十三日乙卯。将軍実朝様は、(月違え命日なので)頼朝法華堂へお参りをしました。坊さん達が参りました。お礼に越後国産の絹を配りました。二階堂行光が担当しました。

建暦二年(1212)十一月大十四日丙辰。去八日繪合事。負方献所課。又召進遊女等。是皆摸兒童之形。評文水干付紅葉菊花等着之。各郢律盡曲。此上堪藝若少之類及延年云々。

読下し                       さんぬ ようか   えあわ     こと  まけかた しょか  けん    またゆうじょら   め  しん
建暦二年(1212)十一月大十四日丙辰。去る八日の繪合せの事、負方所課@を献ず。又遊女等を召し進ず。

これみな  じどうのかたち  も     ひょうもん  すいかん  もみじ きっから   つ   これ  き   おのおの えいりつきょく つく
是皆、兒童之形を摸しA、評文Bの水干に紅葉菊花等を付け之を着て、各、郢CD曲を盡す。

こ   うえげい  た    じゃくしょうのたぐい えんねん  およ    うんぬん
此の上藝に堪うる若少之類、延年に及ぶEと云々。

参考@所課は、負け組みの罰としての割り当て。
参考A兒童之形を模しは、稚児の格好をして。
参考B評文は、装束に用いた、彩色や刺繍(ししゅう)による種々の色の組み合わせ文様。
参考Cは、曲で催馬楽(さいばら)・風俗歌(ふぞくうた)・朗詠・今様(いまよう)など、中古・中世の歌謡類の総称。
参考Dは、不文律や戒律に使うが、自然に周期をもって作動する事でリズムをも現す。
参考E延年に及ぶは、延年の舞を踊る。または、雑芸を披露する。

現代語建暦二年(1212)十一月大十四日丙辰。先日の八日の絵合わせについて、負け組は罰金に品物を献上しました。又、遊女なども呼び寄せました。この遊女たちは皆、男の子の真似をして、一ヵ所に二三個づつ模様がある水干に紅葉や菊の花を縫い付けて着て、それぞれが今様などを披露しました。そればかりか芸達者な若者たちが雑芸を披露しましたとさ。

建暦二年(1212)十一月大十五日丁巳。リ。爲將軍家御祈。可被進奉幣御使於南山事。今日於政所有其沙汰。日次已下治定。行光參御所。申其由云々。

読下し                       はれ  しょうぐんけおいのり ため  ほうへい  おんしを なんざん  すす  らる  べ   こと  きょう まんどころ をい  そ    さた あ
建暦二年(1212)十一月大十五日丁巳。リ。將軍家御祈の爲、奉幣の御使於南山へ進め被る可き事、今日政所に於て其の沙汰有り。

ひなみ いげ ちじょう    ゆきみつ ごしょ  まい    そ   よし  もう    うんぬん
日次已下治定す。行光御所へ參り、其の由を申すと云々。

現代語建暦二年(1212)十一月大十五日丁巳。晴れです。将軍実朝様のご祈願の為に、幣を捧げる代参を熊野権現へ行かせるようにと、今日、政治の会議で決めました。お日柄の良い日などを撰びました。二階堂行光が御所へ行って、そのことを将軍実朝様に報告しましたとさ。

建暦二年(1212)十一月大廿一日癸亥。リ。荻野三郎景継於永福寺遂出家。梶原平次左衛門尉景高子也。景高誅伏之後。遺息等頗沈淪。而景継心操存穩便之間。被召仕之處。俄有此事。是去夜於御前。誤兮滅常燈。稱耻辱如此云々。將軍家就被聞食之。以伊賀次郎爲御使。敢以非可憚事。無其科之上者。難處耻辱。更早可歸參之由。雖被仰下。不對面御使。逐電云々。若求事次歟云々。

読下し                       はれ おぎののさぶろうかげつぐ ようふくじ   をい  しゅっけ  と    かじわらへいじさえもんのじょうかげたか こ なり
建暦二年(1212)十一月大廿一日癸亥。リ。荻野三郎景継、永福寺に於て出家を遂ぐ。梶原平次左衛門尉景高の子也。

かげたかちう  ふく  ののち  いそくら すおぶ ちんりん    しか    かげつぐ  しんそうおんびん ぞん    のかん  めしつかはれ のところ  にはか こ  ことあ
景高誅に伏す之後、遺息等頗る沈淪す。而るに景継、心操穩便を存ずる之間、召仕被る之處、俄に此の事有り。

これ  さんぬ よ ごぜん  をい    あやま て じょうとう  めっ    ちじょく  しょう  かく  ごと    うんぬん
是、去る夜御前に於て、誤っ兮常燈を滅す。耻辱と稱し此の如しと云々。

しょうぐんけ これ  き     めされ    つ     いがのじろう   もっ   おんし  な     あえ  もっ  はばか べ   こと  あらず
將軍家之を聞こし食被るに就き、伊賀次郎を以て御使と爲し、敢て以て憚る可き事に非。

そ   とが な  のうえは   ちじょく  しょ  がた    さら    はや  きさんすべ  のよし  おお  くださる   いへど   おんし  たいめんせす  ちくてん   うんぬん
其の科無き之上者、耻辱に處し難し。更に、早く歸參可し之由、仰せ下被ると雖も、御使に對面不に逐電すと云々。

も   こと  ついで もと    か   うんぬん
若し事の次を求める歟@と云々。

参考@若し事の次を求める歟は、かねがね用意の心があったのか。

現代語建暦二年(1212)十一月大二十一日癸亥。晴れです。荻野三郎景継が、永福寺で出家しました。この人は梶原平次左衛門尉景高の息子です。父景高は、祖父景時の乱で征伐された後、残された息子たちはすっかり落ちぶれてしまいました。しかし、景継は心前が穏やかなタイプなので将軍実朝様に特に使われていましたが、急にこの出来事がありました。その原因は、先だっての夜将軍実朝様の面前で、(油を足すのを忘れて)うっかり常夜灯を消してしまったことが恥ずかしいからだそうです。

将軍実朝様は、この話を聴いて、伊賀二郎を使いに「何もそれほどまでに恥じる事ではない。何も罪はないので、恥ずかしい事ではありません。いいから早く戻って来なさい。」と仰せになられましたが、使者に合うこともなく行方をくらましましたそうな。もしかしたら、かねがね用意の心があったのかも知れませんね。

建暦二年(1212)十一月大廿七日庚午。可被遣奉行人於國々事。日來雖有其沙汰。依人數不定。暫可被止之。

読下し                       ぶぎょうにんを くにぐに  つか  さる  べ   こと  ひごろ そ   さた あ     いへど
建暦二年(1212)十一月大廿七日庚午。奉行人於國々へ遣は被る可き事、日來其の沙汰有ると雖も、

にんずうさだまらず よっ   しばら これ  と   らる  べ
人數定不に依て、暫く之を止め被る可し。

現代語建暦二年(1212)十一月大二十七日庚午。支配人を各国へ派遣するように、普段その審議がありましたが、人数が決まらないので、しばらく止めることにしました。

十二月へ

吾妻鏡入門第二十巻

inserted by FC2 system