吾妻鏡入門第廿一巻

建暦三年癸酉(1213)一月大

建暦三年(1213)十一月大五日辛未。小雨。丑刻。御所邊騒動。但不經時刻靜謐。是三浦平九郎右衛門尉胤義依女事起鬪乱之間。彼一族等遽馳候故也。

読下し                     こさめ   うしのこく  ごしょ   あた  そうどう    ただ  じこく   へず   せいひつ
建暦三年(1213)十一月大五日辛未。小雨。丑刻、御所の邊り騒動す。但し時刻を經不に靜謐す。

これ みうらのへいくろううえもんのじょうたねよし おんな こと  よっ  とうらん  おこ  のあいだ  か   いちぞくら には    は   こう      ゆえなり
是、三浦平九郎右衛門尉胤義、女の事に依て鬪乱を起す之間、彼の一族等遽かに馳せ候ずるの故也。

現代語建暦三年(1213)十一月大五日辛未。小雨です。丑の刻(午前二時頃)御所の近辺が騒がしい。しかし、いくらもせずに静かになりました。これは、三浦平九郎右衛門尉胤義が、女性問題で喧嘩を起こしたので、その一族が急に走ってきたからです。

建暦三年(1213)十一月大十日丙子。天霽。入夜。故左金吾將軍家若公。於御所俄以令落餝給。是尼御臺所御計也。

読下し                     そらはれ  よ   い     こさきんごしょうぐんけ   わかぎみ  ごしょ   をい  にはか もっ  らくしょくせし たま
建暦三年(1213)十一月大十日丙子。天霽。夜に入り、故左金吾將軍家の若公、御所に於て俄に以て落餝令め給ふ。

これ あまみだいどころ  おはか  なり
是、尼御臺所の御計り也。

現代語建暦三年(1213)十一月大十日丙子。空は晴れました。夜になって、亡き頼家の若君が、御所で急に出家をしました。これは、尼御台所政子様の指図です。

建暦三年(1213)十一月大廿三日己丑。天リ。京極侍從三位〔定家卿〕献相傳私本万葉集一部於將軍家。是以二條中將〔雅經〕依被尋也。就之。去七日。羽林請取之送進。今日到着之間。廣元朝臣持參御所。御賞翫無他。重寳何物過之乎之由。有仰云々。彼卿家領伊勢國小河(阿)射賀御厨地頭澁谷左衛門尉致非法新儀之間。領家之所務如無。三品雖爲年來之愁訴。本自依不染世事。不奔營此事。思而渉旬月許也。而去比。以廣元朝臣消息。有愁訴歟之由。至被觸遣之時。爲休土民之歎。始發言之間。有其沙汰。被停止件非儀云々。是併被賞哥道之故也。

読下し                     そらはれ  きょうごくじじゅうじゅさんみ〔さだいえきょう〕そうでん  しぼん  まんようしゅういちぶを しょうぐんけ  けん
建暦三年(1213)十一月大廿三日己丑。天リ。京極侍從三位〔定家卿〕相傳の私本の万葉集一部於將軍家に献ず。

これ  にじょうちうじょう 〔まさつね〕   もっ  たず  らる    よっ  なり  これ  つ     さんぬ なぬか  うりん これ  う   と   おく  すす
是、二條中將〔雅經〕を以て尋ね被るに依て也。之に就き、去る七日、羽林之を請け取り送り進める。

きょう   とうちゃくのあいだ ひろもとあそん ごしょ  じさん    ごしょうがん  ほかな    ちょうほうこれなにもの すぐ  や のよし  おお  あ     うんぬん
今日、到着之間、廣元朝臣御所へ持参す。御賞翫の他無し。重寳之何物に過る乎之由、仰せ有りと云々。

か   きょう  かりょう  いせのくに  こあざかのみくりや  ぢとう しぶやのさえもんのじょう ひほう  しんぎ  いた  のあいだ  りょうけじさんの しょむ な     ごと
彼の卿の家領、伊勢國小阿射賀@御厨の地頭 澁谷左衛門尉 非法の新儀を致す之間、領家持參之所務A無きが如し。

さんぽんこれ ねんらいしゅうそたり いへど  もとよ   よ  こと  そまらず  よっ    こ   こと  ふんえいせず  おも  てしゅんげつ わた  ばか  なり
三品之を年來愁訴爲と雖も、本自り世の事に染不に依て、此の事を奔營不。思い而旬月に渉る許り也。

しか    さんぬ ころ  ひろもとあそん  しょうそこ  もっ    しゅうそあ   か のよし  ふ   つか  さる  のとき  いた    どみんの なげ    たす    ため
而るに去る比、廣元朝臣の消息を以て、愁訴有る歟之由、觸れ遣は被る之時に至り、土民之歎きを休めん爲、

はつげん はじ   のあいだ  そ    さた あ    くだん  ひぎ   ちょうじさる    うんぬん  これ  あわ    かどう  しょうさる  のゆえなり
發言を始める之間、其の沙汰有り。件の非儀を停止被ると云々。是、併せて哥道を賞被る之故也。

参考@小阿射賀は、三重県松坂市小阿坂町120に阿射加神社あり。
参考A所務は、領地関係。金銭相続関係は、雑務。

現代語建暦三年(1213)十一月大二十三日己丑。空は晴れです。京極侍従三位〔藤原定家〕は、家に代々伝わっている私の本の万葉集一部を将軍実朝様に献上しました。これは、二条中将〔雅経〕に命じて定家に聞かせていたからです。と云うわけで先日の七日に雅経が受けとって送ってきたのです。今日、到着したので、早速大江広元さんが御所へ持ってきました。大喜びをされて「これの宝は何ものよりもまさるものだ。」と仰せになられましたとさ。定家さんの領地、伊勢国小阿射賀御厨(三重県松阪市小阿坂町の伊勢神宮の荘園)の地頭渋谷左衛門尉が横取りをしているので、上級荘園管理者として持っている領地関係がないのと同じです。定家はこれを何年も嘆いてはいても、本来が世事に疎いので、本気で争いもしないで、ただ思っているだけで年月が過ぎて行くだけでした。しかし、先日来大江広元さんの手紙で、何か嘆きはありませんかと伝えた時になってようやく、農民の苦労を少なくするために発言をしたので、その決定がありました。その横暴を止めるようにとの事です。それもこれも、歌道を賞賛されているからです。

建暦三年(1213)十一月大廿四日庚寅。天リ。辰刻。將軍家御參永福寺。是依爲恒例一切經會也。

読下し                     そらはれ たつのこく  しょうぐんけようふくじ  まい  たま    これ  こうれい  いっさいきょうえたる  よっ  なり
建暦三年(1213)十一月大廿四日庚寅。天リ。辰刻、將軍家永福寺へ參り御う。是、恒例の一切經會爲に依て也。

現代語建暦三年(1213)十一月大二十四日庚寅。空は晴れです。辰の刻(午前八時頃)将軍実朝様は永福寺へお参りです。これは恒例の一切経を上げる供養です。

建暦三年(1213)十一月大卅日丙申。天リ。六波羅飛脚參。申云。南都騒動事。遣官軍被防禦之間。去廿日。衆徒自宇治無爲退出云々。關東之御使大友左衛門尉能直。于今在京云々。

読下し                     そらはれ  ろくはら  ひきゃくさん    もう    い
建暦三年(1213)十一月大卅日丙申。天リ。六波羅の飛脚參じ、申して云はく。

なんと   そうどう  こと  かんぐん  つか   ぼうぎょさる  のあいだ  さんぬ はつか  しゅと うじよ     むい  たいしゅつ   うんぬん
南都の騒動の事、官軍を遣はし防禦被る之間、去る廿日、衆徒宇治自り無爲に退出すと云々。

かんとうの おんし  おおともさえもんのじょうよしなお いまにざいきょう  うんぬん
關東之御使、大友左衛門尉能直、今于在京すと云々。

現代語建暦三年(1213)十一月大三十日丙申。空は晴れです。六波羅からの伝令がやってきて申しあげました。「興福寺の騒ぎですが、朝廷から軍隊を派遣して防いだので、先達ての二十日に無事に僧兵は宇治から引き退きました。関東からの使いの大友左衛門尉能直は、未だに京都におります。」だとさ。

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