吾妻鏡入門第廿二巻

建保三年乙亥(1215)十一月小

建保三年(1215)十一月小五日庚申。御牧御馬少々到來。義村將參。於南面覽之。分賜人々給云々。」入夜。有庚申御會。

読下し                       みまき  おんうま しょうしょう とうらい    よしむら み  まい
建保三年(1215)十一月小五日庚申。御牧@の御馬 少々 到來す。義村將て參るA

なんめん  をい  これ  み     ひとびと  わ   たか    たま    うんぬん
南面に於てB之を覽て、人々に分ち賜はり給ふと云々。」

 よ   い     こうしん  おんえ あ
夜に入り、庚申の御會C有り。

参考@御牧は、将軍家直轄の牧場。
参考A
義村將て參るは、三浦義村が牧司らしい。小笠原の御牧カ?
参考B南面に於ては、8月22日に鷺や地震のたたりよけに義時の屋敷へ移って来ている。
参考C庚申の御會は、庚申の晩に口を開いて寝ていると、身体の中に住む三尸虫が抜け出て、天帝に日頃の行状を言いつけ、命が縮むと云われるので、寝ないために皆で講を組み、一晩中仏事をする。後に宴を催し、その費用を積み立てたのが庚申講である。

現代語建保三年(1215)十一月小五日庚申。将軍家直轄の牧場から馬が届きました。三浦平六兵衛尉義村が撰んで引き連れてきました。義時さんの屋敷の南面で(将軍実朝様が)ご覧になり、御家人達に分け与えましたとさ。」
夜になって庚申の法要がありました。

建保三年(1215)十一月小八日癸亥。快リ。將軍家自相州御亭。還御々所。依鷺恠。御旅宿已經七十五日訖。藤右衛門尉景盛豫參。儲御所經營。有御引出物并供奉人贈物。

読下し                      かいせい  しょうぐんけそうしゅう おんていよ     ごしょ  かえ  たま
建保三年(1215)十一月小八日癸亥。快リ。將軍家相州の御亭自り@、々所へ還り御う。

さぎ  あやし よっ    ごりょくしゅくすで  しちじうごにち  へをはんぬ  とうのうえもんのじょうかげもり あらかじ まい    ごしょ  けいえい  もうけ
鷺の恠に依て、御旅宿已に七十五日を經訖。 藤右衛門尉景盛、 豫め參り、御所に經營を儲る。

おんひきでものなら     ぐぶにん    おくりものあ
御引出物并びに供奉人への贈物有り。

参考@相州の御亭よりは、8月22日に鷺や地震のたたりよけに義時の屋敷へ移って来ている。

現代語建保三年(1215)十一月小八日癸亥。快晴です。将軍実朝様は、義時さんの屋敷から御所へお戻りになりました。鷺の怪異によって旅の宿も75日を過ぎたからです。安達右衛門尉景盛は、先だって来て御所帰りの儀式の用意をしました。御家人への引き出物やお供への贈り物も用意しました。

建保三年(1215)十一月小十二日丁夘。於御靈社有解謝等。日來頻依有怪異也云々。

読下し                        ごれいしゃ   をい  げしゃ ら あ     ひごろ  しきり   けひ  あ     よっ  なり  うんぬん
建保三年(1215)十一月小十二日丁夘。御靈社@に於て解謝A等有り。日來、頻に怪異有るに依て也と云々。

参考@御靈社は、鎌倉権五郎景政を祀った神奈川県鎌倉市坂の下4-9御霊神社。
参考A
解謝は、謝ること。その式典。

現代語建保三年(1215)十一月小十二日丁卯。御霊神社でお祓いがありました。最近。やたらと怪しい現象があるからだそうな。

建保三年(1215)十一月小廿日乙亥。リ。戌刻。太白迥犯哭星第一星〔七寸所〕云々。

読下し                      はれ いぬのこく たいはく こくしょうだいいちせい〔ななすん ところ〕   けいはん   うんぬん
建保三年(1215)十一月小廿日乙亥。リ。戌刻、太白 哭星第一星@〔七寸の所〕を迥犯すと云々。

参考@哭星第一星は、やぎ座ガンマ星。

現代語建保三年(1215)十一月小二十日乙亥。晴れです。午後八時頃、金星がやぎ座ガンマ星〔21cmの所〕の軌道を通過したそうです。

建保三年(1215)十一月小廿一日丙子。霽。亥刻。太白迥犯哭星第二星〔七寸所〕由。陰陽少允親職參申御所之間。將軍家於南面御覽之。

読下し                        はれ  いのこく たいはく こくしょうだいにせい〔ななすん ところ〕  けいはん    よし
建保三年(1215)十一月小廿一日丙子。霽。亥刻。太白 哭星第二星@〔七寸の所〕迥犯すの由、 

おんみょうしょうじょうちかもと ごしょ まい  もう  のあいだ  しょうぐんけなんめん  をい  これ  ごらん
陰陽少允親職 御所へ參り申す之間、將軍家南面に於て之を御覽。

参考@哭星第二星は、やぎ座デルタ星。

現代語建保三年(1215)十一月小二十一日丙子。晴れました。午後十時頃、金星がやぎ座デルタ星〔21cmの所〕の軌道を通過したと、陰陽師少允親職が御所へ来て云うので、将軍実朝様は南面へ出てこれを見ました。

建保三年(1215)十一月小廿四日己夘。安樂寺領筑前(後)國岩田庄事。此間聊雖有豫儀。今日遂所賜于左近大夫菅原時賢之子有成也。相州。武州。并前掃部頭。遠江守等。加署判於御下文云々。是有成同意平家之由。兄弟成賢依訴申之。欲被収公當庄之處。不与彼悪行之旨陳謝。可然之間。被令安堵云々。

読下し                        あんらくじ りょう ちくごのくに  いわたのしょう こと  かく あいだ いささ  よぎ あ    いへど
建保三年(1215)十一月小廿四日己夘。安樂寺@領 筑後國 岩田庄Aの事、此の間 聊か豫儀有りと雖も、

きょう   つい  さこんたいふすがわらときかた の こ ありなりに たま   ところなり
今日、遂に左近大夫菅原時賢 之子有成于賜はる所也。

そうしゅう ぶしゅうなら  さきのかもんのかみ とおとうみのかみら しょはんを おんくだしぶみ  くは    うんぬん
相州、武州并びに前掃部頭、遠江守等、 署判於 御下文に 加うと云々。

これ  ありなり へいけ  どういの よし きょうだいなりかた これ  うった  もう     よっ    とうしょう しゅうこうされ   ほっ  のところ  か  あくぎょう  よ   ざるのむねちんしゃ
是、有成平家に同意之由、兄弟成賢 之を訴へ申すに依て、當庄を収公被んと欲す之處、彼の悪行に与さ不之旨陳謝す。

しか  べ   のあいだ  あんどせし  られ    うんぬん
然る可し之間、安堵令め被ると云々。

参考@安樂寺は、筑前大宰府安楽寺天満宮。
参考A岩田庄は、筑後岩田庄で福岡県小郡市上岩田、下岩田。

現代語建保三年(1215)十一月小二十四日己卯。太宰府天満宮の領地の筑後国岩田庄(福岡県小郡市岩田)について、最近問題があってためらっていたが、今日、とうとう左近大夫菅原時賢の子供の有成に与えられました。相州義時さん・武州時房さん・前掃部頭中原親能・遠江守源親広が花押を命令書にサインしました。これは、有成が平家の見方をしていたと、弟の成賢が訴えて来たので、この荘園を没収しようとしたところ、過去の業績を否定してきました。それならと従前どおり認められたんだとさ。

建保三年(1215)十一月小廿五日庚辰。於幕府。俄令行佛事給。導師行勇律師云々。是將軍家去夜有御夢想。義盛以下亡卒群參御前云々。

読下し                        ばくふ   をい    にはか ぶつじ  おこな せし  たま    どうし  ぎょうゆうりっし  うんぬん
建保三年(1215)十一月小廿五日庚辰。幕府に於て、俄に佛事を行は令め給ふ。導師は行勇律師と云々。

これ  しょうぐんけさんぬ よ ごむそう あ       よしもり いげ   ぼうそつ  むれ  ごぜん  まい    うんぬん
是、將軍家去る夜御夢想有りて、義盛以下の亡卒の群、御前に參ると云々。

現代語建保三年(1215)十一月小二十五日庚辰。幕府で突然急に法要を行いました。指導僧は荘厳房退耕行勇だそうな。これは将軍実朝様が夕べ夢の中で、和田義盛以下の合戦の死者が集まってきたからだそうな。

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