建保六年戊寅(1218)二月小
建保六年(1218)二月小四日丙午。快霽。尼御臺所御上洛。相州〔時房(朱)〕扈從。是爲熊野山御斗薮也。以此次。令伴故稻毛三郎重成入道孫女〔年十六。綾小路三品師季卿女〕給。依可被嫁于土御門侍從通行朝臣也〔同廿一日入洛給云々〕。 |
読下し
かいせい あまみだいどころ
ごじょうらく そうしゅう 〔ときふさ(しゅ)〕 こしょう これ くまのさん ごとそう ためなり
建保六年(1218)二月小四日丙午。快霽。尼御臺所御上洛す。相州〔時房(朱)〕扈從す。是、熊野山御斗薮@の爲也。
かく
ついで もっ こいなげのさぶろうしげなりにゅうどう まごむすめ 〔としじうろく あやのこうじさんぽんもろすえきょう むすめ〕 ともな せし たま
此の次を以て、故稻毛三郎重成入道が孫女〔年十六。綾小路三品師季卿が女。〕を伴は令め給ふ。
つちみかどじじゅうみちゆきあそんに とつがせ べ よっ なり 〔おな にじういちにちじゅらく たま うんぬん〕
土御門侍從通行朝臣A于嫁被る可きに依て也。〔同じき廿一日入洛し給ふと云々。〕
参考@御斗薮は、詣で。
参考A土御門侍從通行朝臣は、土御門(源)通親の五男。
現代語建保六年(1218)二月小四日丙午。快晴です。尼御台所政子様が、京都へ出発です。相州時房さんがお供です。これは熊野詣でのためです。このついでに故稲毛三郎重成入道の孫娘〔年は十六。綾小路三位師季さんの娘です〕を一緒に連れて行きました。土御門侍従通行さんに嫁がせるためなのです。〔この月の二十一日に京都入りだそうな〕
建保六年(1218)二月小十日壬子。リ。廣元朝臣奉仰。發使者於京都。是將軍家依大將御所望事也。 |
読下し
はれ ひろもとあそんおお
うけたまは ししゃを きょうと はっ これ
しょうぐんけたいしょう ごしょもう こと よっ なり
建保六年(1218)二月小十日壬子。リ。廣元朝臣仰せを奉り、使者於京都へ發す。是、將軍家大將を御所望の事に依て也。
現代語建保六年(1218)二月小十日壬子。晴れです。大江広元さんは将軍実朝様の命令で、使いを京都へ行かせました。それは将軍実朝様が大将の位を希望しているからです。
建保六年(1218)二月小十二日甲刀。霽。波多野弥次郎朝定爲使節上洛。大將事。必可令任左給之由。被申之故也。 |
読下し
はれ
はたののいやじろうともさだ しせつ な じょうらく
建保六年(1218)二月小十二日甲寅。霽。波多野弥次郎@朝定、使節と爲し上洛す。
たいしょう こと かなら さ にんぜし たま べ のよし もうされ のゆえなり
大將の事、必ず左に任A令め給ふ可し之由、申被る之故也。
参考@弥次郎は、父も次郎。次郎の次郎を又次郎、小次郎、弥次郎と呼ぶ。
参考A必ず左に任は、「右」への任官はその役どまりだから。
現代語建保六年(1218)二月小十二日甲寅。晴れました。波多野弥次郎朝定は、使者として京都へ上りました。大将任命について、必ず左大将に任命されるように、上申するためです。
建保六年(1218)二月小十四日丙辰。霽。將軍家二所御參詣。辰剋御進發。 |
読下し
はれ しょうぐんけ
にしょ ごさんけい たつのこくごしんぱつ
建保六年(1218)二月小十四日丙辰。霽。將軍家二所へ御參詣。辰剋御進發。
現代語建保六年(1218)二月小十四日丙辰。晴れました。将軍実朝様は、箱根・走湯二権現へのお参りの二所詣でに、午前八時頃に出発しました。
説明二月十八日条の愚管抄に、西園寺公経(母は一条能保の女)後鳥羽上皇に大納言をせがみ、断られたので「鎌倉へ頼もう」と云って謹慎させられた。実朝に手紙を書いて二月十八日に謹慎を許された。とある。
建保六年(1218)二月小十九日辛酉。リ。自二所還御。而於路次。無其故御馬一疋俄以斃云々。 |
読下し
はれ にしょ
よ かえ たま しか ろじ をい そ
ゆえな おんうまいっぴき にはか もっ
たお うんぬん
建保六年(1218)二月小十九日辛酉。リ。二所自り還り御う。而るに路次に於て、其の故無く御馬一疋
俄に以て斃ると云々。
現代語建保六年(1218)二月小十九日辛酉。晴れです。二所詣でからお帰りです。なんと道の途中で、何の理由もなく馬が一頭急に倒れ死にましたとさ。
建保六年(1218)二月小廿三日乙丑。霽。京都使者參着。關東令擧讃岐守給事。去十二日達 天聽。早可被申任人之由。被仰下云々。 |
読下し
はれ きょうと ししゃさんちゃく かんとうさぬきのかみ
あ せし たま
こと さんぬ じうににちてんちょう たっ
建保六年(1218)二月小廿三日乙丑。霽。京都の使者參着す。關東讃岐守を擧げ令め給ふ@事、去る十二日天聽に達す。
はや
にんにん もうされ べ のよし おお
くだされ うんぬん
早く任人に申被る可き之由、仰せ下被ると云々。
参考@關東讃岐守を擧げ令め給ふは、鎌倉幕府が讃岐守を推薦している。
現代語建保六年(1218)二月小二十三日乙丑。晴れました。京都の使いが来ました。鎌倉幕府からの讃岐守の推薦について、先日の十二日に後鳥羽院のお耳に入れました。将軍実朝様、早く任命予定人に伝えるようにと仰せになりましたとさ。
建保六年(1218)二月小廿四日丙刀。霽。新補地頭八人進發伊与國。毎郡被補之云々。 |
読下し
はれ しんぽ
ぢとう はちにんいよのくに
しんぱつ まいぐんこれ ぶされ うんぬん
建保六年(1218)二月小廿四日丙寅。霽。新補地頭@八人伊与國へ進發す。毎郡A之を補被ると云々。
参考@新補地頭は、新しく任命された。
参考A毎郡は、郡ごとに郡地頭を置いたらしい。
現代語建保六年(1218)二月小二十四日丙寅。晴れました。新しく地頭に任命された八人が、伊予国へ出発しました。郡ごとに地頭を任命したんだとさ。
疑問伊予の国の半分は、河野四郎通信が守護だったはずだが?