建保七年己卯(1219)二月小
建保七年(1219)二月小一日戊戌。鶴岡供僧淨意坊豎者良祐有其誤之由。依讒訴輩之説。被經御沙汰之處。不相交謀反事之間。又可安堵之旨。京兆下知給云々。凡一天大乱起於宮寺。四海安危在此時。矧武將薨御僅三ケ日。哀慟之外無他事歟。而當宮御勤者。爲關東最初之御願。治承以來無片時退轉。然間。或以御使被停止武士之乱入。或下御書。被安堵本職。依之於貫首之伴類。悉雖被誅戮。至古老之僧侶者。敢無窂籠。長日勤行恒例神事。無違而令相續也。賢慮之至。人感之。敬神之誠。世知之。 |
読下し つるがおかぐそう
じょういぼうりゅうしゃ りょうゆう そ あやま あ
のよし ざんそ やからのせつ よっ
建保七年(1219)二月小一日戊戌。鶴岡供僧の
淨意坊豎者@良祐 其の誤り有る之由、讒訴の輩之説に依て、
おんさた へられ のところ むほん こと あいまじらざるのあいだ
またあんどすべ のむね けいちょう げち
たま うんぬん
御沙汰を經被る之處、謀反の事に相交不之間、
又安堵可き之旨、京兆下知し給ふと云々。
およ いってん たいらんぐうじ をい お しかいあんき こ とき
あ いはん ぶしょう こうご
わずか みっかび あいどうのほか たごとな か
凡そ一天の大乱宮寺に於て起こる。四海安危此の時に在り。矧や武將の薨御僅に三ケ日、哀慟之外他事無き歟。
しか とうぐう おんつとめは かんとうさいしょの ごがん な じしょういらい
かたとき たいてんな
而るに當宮の御勤者、
關東最初之御願と爲し。治承以來片時も退轉無し。
しか あいだ
ある おんし
もっ ぶしの らんにゅう ちょうじされ ある
おんしょ くだ ほんしき あんどされ
然る間、或ひは御使を以て武士之乱入を停止被、或ひは御書を下し、本職を安堵被る。
これ よっ
かんじゅの
ばんるい をい ことごと ちうりくされ
いへど ころうの そうりょ いた は あえ ろうろうな
之に依て貫首之伴類に於ては、悉く誅戮被ると雖も、古老之僧侶に至りて者、敢て窂籠無し。
ちょうじつ ごんぎょう こうれい
しんじ むい て そうぞくせし
なり けんりょのいた ひとこれ
かん きょうしんのまこと よ これ し
長日の勤行、恒例の神事、無違にし而相續令む也。賢慮之至り。人之を感ず。敬神之誠、世之を知る。
参考@豎者は、元は試験管・判定者を指した。
現代語建保七年(1219)二月小一日戊戌。鶴岡八幡宮の坊主の浄意坊豎者良祐は、間違いを犯しているとの、虚偽の咎めを訴える連中の言葉によって、取り調べを受けたら、謀反には加担していないと分かったので、今まで通りに勤めるように、義時さんが命じましたとさ。だいたいとんでもない大騒ぎが鶴岡八幡宮で起こりました。世間平和の危機であり、ましてや将軍が無くなってたった三日なので、悲しみ以外にはありません。それなのに鶴岡八幡宮の坊さん達は、関東での最初の祈願として、治承年間以来ちょっとの間でさえも、サボることはありませんでした。そう云うわけなので、使いを出して武士の乱入を留められ、又命令書を出してその職を保障しました。この処置によって、長官公暁の仲間は全て討たれましたが、古老の僧侶はあえて牢屋に入れらるようなことはありませんでした。一日中続けるお経の勤めや恒例の神事は、無事に続けられます。賢い配慮に人々は皆感心しました。神を敬う心情を世間が理解しました。
建保七年(1219)二月小二日己亥。武藏國熊谷郷者。右大將家御時。直實法師依的立役辞退咎。被寄附于鶴岡。其後寄事於神税。地頭如無。然而恐別當權勢。不達愁訴之處。止宮寺使入部。可進御年貢之由。今日被下右京兆御書於地頭方云々。 |
読下し むさしのくにくまがいごうは うだいしょうけ
おんとき なおざねほっし まとたてやく じたい とが よっ
建保七年(1219)二月小二日己亥。武藏國熊谷郷者、右大將家の御時、直實法師
的立役を辞退の咎に依て、
つるがおかに きふ
され そ ご ことを しんぜい よ じとう な
ごと
鶴岡于 寄附被る。其の後、事於神税に寄せ、地頭無きが如し。
しかしながら べっとう
けんせい おそ しゅうそ
たっせずのところ ぐうじ つか にゅうぶ と ごねんぐ
しん べ のよし
然而、別當の權勢を恐れ、愁訴を達不之處、宮寺の使いの入部を止め、御年貢を進ず可き之由、
きょう
うけいちょう おんしょを じとうがた くだされ うんぬん
今日右京兆
御書於地頭方に下被ると云々。
現代語建保七年(1219)二月小二日己亥。武蔵国熊谷郷は、頼朝様の時代に、熊谷次郎直實さんが的立役を放棄した罪で、鶴岡八幡宮に寄付されました。その後、税は神社が直接支配していて、地頭職が居ないと同じ状態でした。しかし、八幡宮長官が二位家政子様の孫なので、その権力におびえて、嘆きを訴えられませんでしたので、鶴岡八幡宮の代理の干渉を止め、地頭が年貢納付するように、今日義時さんが命令書を地頭の方へくれたそうです。
建保七年(1219)二月小四日辛丑。備中阿闍梨〔悪阿闍後見〕遺跡屋地。女房三條局望申之間。被宛行。彼局者縫殿別當也。此所湛冷水之地也。得其便之故。賜之。仍以甥僧少納言律師觀豪。爲其留守云々。 |
読下し びっちゅうあじゃり 〔あくあじゃ こうけん〕 ゆいせき やち にょぼうさんじょうのつぼね
のぞ もう のあいだ あておこなはれ
建保七年(1219)二月小四日辛丑。備中阿闍梨〔悪阿闍が後見〕遺跡の屋地、 女房三條局
望み申す之間、宛行被る。
か つぼねは ぬいどのべっとうなり こ ところれいすい たた
の ち なり
そ びん え のゆえ これ たま
彼の局者、
縫殿別當也。
此の所冷水を湛える之地也。其の便を得る之故、之を賜はる。
よっ おいそう しょうなごんりっしかんごう もっ
そ るす な うんぬん
仍て甥僧
少納言律師觀豪を以て、其の留守と爲すと云々。
現代語建保七年(1219)二月小四日辛丑。備中阿闍梨〔悪阿闍梨公暁の後見人です〕の残された屋敷地を、女官の三条局が欲しがっているので与えました。この女官は、幕府の縫い物係の筆頭です。ここは、冷たい水が湧き出すところなのです。反物を洗うのに丁度良いので、これを与えられました。それなので、甥の坊さんの少納言律師観豪を代理預かり人としました。
建保七年(1219)二月小五日壬寅。下向上達部殿上人等皈洛。始慶賀之道揚鞭。今悲哀之涙霑纓云々。 |
読下し げこう かんだちめてんじょうびとら きらく
建保七年(1219)二月小五日壬寅。下向の上達部殿上人等皈洛す。
はじ けいがのみち
むち
あ いま ひるいのなみだ えい しおら うんぬん
始め慶賀之道に鞭を揚げ、今に悲哀之涙で纓@を霑すと云々。
参考@纓は、冠がぬげないように顎(あご)の下で結ぶ紐。冠の後ろに突き出ている巾子(こじ)の根もとをしめた紐(ひも)の余りを背に垂れ下げたもの。
現代語建保七年(1219)二月小五日壬寅。京都からやって来ていた派遣員や公卿が帰りました。来るときゃ祝いに急いで鞭を上げ、今は悲しみの涙で顎紐をぬらしながら帰ります。
建保七年(1219)二月小六日癸夘。故鶴岳別當阿闍梨使白河左衛門尉詣大神宮。遂奉幣還向之處。於三河國矢作宿。聞彼滅亡事自殺云々。 |
読下し こつるがおかべっとうあじゃり つか しらかわさえもんのじょう
だいじんぐう もう ほうへい と かんこうのところ
建保七年(1219)二月小六日癸夘。故鶴岳別當阿闍梨の使い
白河左衛門尉
大神宮へ詣で、奉幣を遂げ還向之處、
みかわのくにやはぎ
しゅく をい か めつぼう こと き じさつ
うんぬん
三河國矢作@の宿に於て、彼の滅亡の事を聞き自殺すと云々。
参考@矢作は、愛知県岡崎市矢作町。
現代語建保七年(1219)二月小六日癸卯。故鶴岡八幡宮長官の使いの白河左衛門尉は、伊勢神宮へ詣でて、幣を捧げ終えて帰ってくる途中の、三河国矢作の宿場で、公暁の滅亡を聞いて自殺したんだそうです。
建保七年(1219)二月小八日乙巳。右京兆詣大倉藥師堂給。此梵宇。依靈夢之告。被草創之處。去月廿七日戌剋供奉之時。如夢兮白犬見御傍之後。御心神違亂之間。讓御劍於仲章朝臣。相具伊賀四郎許。退出畢。而右京兆者。被役御劔之由。禪師兼以存知之間。守其役人。斬仲章之首。當彼時。此堂戌神不坐于堂中給云云。 |
読下し うけいちょう おおくらやくしどう もう たま
建保七年(1219)二月小八日乙巳。右京兆、大倉藥師堂に詣で給ふ。
こ ぼんう れいむのつげ よっ そうそうされ のところ さんぬ つき
にじうしちにちいぬここく ぐぶのとき
此の梵宇、靈夢之告に依て、草創被る之處、去る月 廿七日
戌剋供奉之時、
ゆめ
ごと して
しろいぬ おんかたわら み ののち ごしんしん
いらんのあいだ ぎょけんを なかあきらあそん ゆず
夢の如くに兮白犬を
御傍に 見る之後、御心神 違亂之間、御劍於
仲章朝臣に讓り、
いがのしろう ばか あいぐ たいしゅつ をはんぬ
伊賀四郎許りを相具し、退出し畢。
しか うけいちょうは
ぎょけん えきされ のよし ぜんじ かね もっ
ぞんちのあいだ そ やく
ひとまも なかあきらのくび き
而して右京兆者、御劔を役被る之由、禪師兼て以て存知之間、其の役の人守りて、仲章之首を斬る。
とう か とき こ どう いぬがみ
どうちうに お たまはざる うんぬん
當の彼の時、此の堂の戌神
堂中于坐り給不と云云。
現代語建保七年(1219)二月小八日乙巳。義時さんは、大蔵薬師堂(後の覚園寺)へお参りです。このお堂は夢のお告げで建てたのですが、先月27日戌の刻(午後八時頃)にお供をしていた時、まるで夢のように白い犬をそばに見てから、気分が悪くなっておかしいので、刀持ちの刀を源仲章さんに渡して、伊賀四郎朝行だけをつれて引き揚げてしまいました。なんと義時さんが刀持ちをしていることを公暁は知っていたので、その役の人を目指して仲章の首を切ってしまったのです。丁度その時間に、このお堂の戌神将はお堂の中に居なかったんだとさ。
建保七年(1219)二月小九日丙午。加藤判官次郎自京都歸參。去二日入京。申彼薨御由之處。洛中驚遽。軍兵竸起。自仙洞御禁制之間。靜謐云々。 |
読下し
かとうほうがんじろう きょうとよ きさん
建保七年(1219)二月小九日丙午。加藤判官次郎京都自り歸參す。
さんぬ ふつかにゅうきょう
か
こうご よし もう のところ らくちう
おどろき あわただ ぐんぴょうきそ おこ
去る二日入京し、彼の薨御の由を申す之處、洛中
驚き遽し。軍兵竸い起る。
せんとうよ ごきんせいのあいだ せいひつ うんぬん
仙洞自り御禁制之間、靜謐すと云々。
現代語建保七年(1219)二月小九日丙午。加藤判官次郎(加藤次景廉)が京都から帰りました。先日の二日に京都入りして、将軍実朝様の死を話したので、京都中が驚き騒いで、武士が武装して出合いました。院から禁止令が出たので静かになりましたとさ。
建保七年(1219)二月小十三日庚戌。信濃前司行光上洛。是六條宮。冷泉宮兩所之間。爲關關(東)將軍可令下向御之由。禪定二位家令申給之使節也。宿老御家人又捧連署奏状。望此事云云。 |
読下し しなのぜんじゆきみつじょうらく
建保七年(1219)二月小十三日庚戌。信濃前司行光上洛す。
これ
ろくじょうのみや れいぜいのみや りょうしょのあいだ かんとう
しょうぐん な げこうせし たま べ のよし
是、六條宮@、 冷泉宮A
兩所之間、關東の將軍と爲し下向令め御う可し之由、
ぜんじょうにいけ もうせし たま のしせつなり
すくろう ごけにん またれんしょ
そうじょう ささ かく こと のぞ うんぬん
禪定二位家申令め給ふ之使節也。宿老の御家人又連署の奏状を捧げ、此の事を望むと云云。
参考@六條宮は、雅成親王。承久の乱後但馬へ配流。
参考A冷泉宮は、頼仁親王。承久の乱後備前へ配流。
現代語建保七年(1219)二月小十三日庚戌。信濃前司二階堂行光が、京都へ上りました。これは、六条宮と冷泉宮のどちらかを関東の將軍として鎌倉へ下ってもらいたいと云う、二位家政子様が申す派遣者なのです。幕府の大物の御家人が連名で上申書を用意し、これを望んでいるのだそうな。
建保七年(1219)二月小十四日辛亥。卯剋。伊賀太郎左衛門尉光季爲京都警固上洛。又同時爲右京兆御願。被修天下泰平御祈等。天地災變祭以下也。」丑剋。將軍家政所燒亡。失火云云。郭内不殘一宇者也。 |
読下し うのこく いがのたろうさえもんんじょうみつすえ きょうとけいご ためじょうらく
建保七年(1219)二月小十四日辛亥。卯剋、伊賀太郎左衛門尉光季@京都警固の爲上洛す。
また どうじ うけいちょう ごがん な てんかたいへい おいのりら しゅうされ
てんちさいへんさい いげ なり
又、同時に右京兆の御願と爲し、天下泰平の御祈等を修被る。天地災變祭以下也。」
うしのこく しょうぐんけ
まんどころ しょうぼう
しっか うんぬん かくないいちうのこ
ざるものなり
丑剋、將軍家
政所 燒亡す。失火と云云。郭内一宇殘さ不者也。
参考@伊賀光季は、義時の義理の兄。
現代語建保七年(1219)二月小十四日辛亥。午前六時頃、伊賀太郎左衛門尉光季は、京都を警備するために上りました。又、義時さんの願いとして天下泰平のお祈りをさせました。天地災変祭などです。午前二時頃に、将軍家の家政機関が火事になりました。失火だそうです。敷地内の建物は一軒も残さず燃えてしまいました。
建保七年(1219)二月小十五日壬子。未剋。二品御帳臺内。鳥飛入。申剋。駿河國飛脚參申云。阿野冠者時元〔法橋全成子。母遠江守時政女〕去十一日引率多勢。搆城郭於深山。是申賜 宣旨。可管領東國之由。相企云云。 |
読下し ひつじのこく にほん ごちょうだい うち からすと い
建保七年(1219)二月小十五日壬子。未剋、二品の御帳臺@の内に、烏飛び入るA。
さるのこく するがのくに ひきゃくさん もう い
申剋、駿河國の飛脚參じ申して云はく。
あのうのかじゃときもと 〔ほっきょうぜんじょう こ はは とうとうみかみときまさ め 〕 さんぬ ついたち たぜい いんそつ じょうかくを
しんざん かま
阿野冠者時元〔法橋全成Bが子。母は遠江守時政が女C〕去る一日多勢を引率し、城郭於深山Dに搆う。
これ せんじ
たま もう とうごく かんりょうすべ のよし あいくはだ うんぬん
是宣旨を賜はると申す。東國を管領可き之由、相企つと云云。
参考@御帳臺は、ベッド。
参考A烏飛び入るは、忌兆。悪い兆候。
参考B全成は、元今若丸。
参考C時政が女は、阿波局。
参考D深山は、阿野庄で、静岡県裾野市須山大泉寺。
現代語建保七年(1219)二月小十五日壬子。午後二時頃、縁起が悪いことに二位家政子様の帳台(ベッド)にカラスが入ってきました。午後四時頃に駿河国の伝令が来て申しあげました。阿野冠者時元〔法橋全成の子、母は北条時政の娘〕先日の一日に大勢を率いて、砦を深山に構えました。それは天皇家から命令を貰ったと云ってます。関東を支配しようと計画しているそうです。
建保七年(1219)二月小十九日丙辰。依禪定二品之仰。右京兆被差遣金窪兵衛尉行親以下御家人等於駿河國。是爲誅戮阿野冠者也。 |
読下し ぜんじょうにほんの
おお よっ うけいちょう かなくぼひょうえのじょうゆきちか いげ ごけにんらを
建保七年(1219)二月小十九日丙辰。禪定二品之仰せに依て、右京兆、金窪兵衛尉行親以下の御家人等於
するがのくに さしつか され これ あのうのかじゃ ちうりく ためなり
駿河國へ差遣は被る。是、阿野冠者を誅戮せん爲也。
現代語建保七年(1219)二月小十九日丙辰。二位家政子様の命令で、義時さんは金窪兵衛尉行親を始めとする御家人を駿河へ派遣しました。それは阿野冠者時元を打ち殺すためです。
建保七年(1219)二月小廿日丁巳。入夜。或卿相書状自京都參着于二位家。去六日。致故右府將軍御祈祷之陰陽師等。悉以被停所職。是 上皇御沙汰也云云。 |
読下し よ い あるけいしょう しょじょうきょうとよ にいけ に さんちゃく
建保七年(1219)二月小廿日丁巳。夜に入り、或卿相@の書状京都自り二位家于參着す。
さんう むいか こうふしょうぐん ごきとう いた のおんみょうじら ことごと もっ しょしき とめられ これ じょうこう ごさた なり うんぬん
去る六日、故右府將軍を御祈祷致す之陰陽師等、悉く以て所職を停被る。是、上皇の御沙汰也と云云。
現代語建保七年(1219)二月小二十日丁巳。夜になって、あるお公卿さんの手紙が京都から二位家政子様に届きました。先日の六日に故右大臣将軍実朝様を祈祷していた陰陽師が、全て職を止められました。これは後鳥羽上皇のお指図だそうな。
推定@或卿相は、この当時京都朝廷で唯一の親幕派の西園寺公経らしい。
建保七年(1219)二月小廿一日戊午。白河左衛門尉義典爲悪別當使詣大神宮。剩於途中自殺之間。依其科被収公彼遺領。被補地頭。在相摸國大庭御厨内之地云々。而祭主神祗大副隆宗朝臣。以加藤左衛門大夫光員。進状申云。義典遺跡内於外家傳領御厨分者。輙難被収公歟。可被返付神宮者。仍即有其沙汰。可被付神宮之由。今日被定云々。 |
読下し しらかわさえもんのじょうよしのり
あくべっとう つかい な だくぃじんぐう もう
建保七年(1219)二月小廿一日戊午。白河左衛門尉義典、悪別當の使と爲し大神宮へ詣で、
あまつさ とちゅう をい じさつ のあいだ そ とが よっ か ゆいりょう しゅうこうされ ぢとう ぶされ
剩へ途中に於て自殺する之間、其の科に依て彼の遺領を収公被、地頭を補被る。
さがみのくに
おおばのみくりや ないのち あ うんぬん
相摸國
大庭御厨@内之地に在りと云々。
しか さいしゅじんぎだいふくたかむねあそん かとうさえもんたいふみつかず もっ じょう すす もう い
而るに祭主神祗大副隆宗朝臣、加藤左衛門大夫光員を以て、状を進め申して云はく。
よしのり ゆいせき うち がいけ でんりょう みくりやぶん をい は
たやす しゅうこうされがた か
義典が遺跡の内、外家A傳領の御厨分に於て者、輙く
収公被難き歟。
じんぐう かへ
つ られ べ てへ よっ すなは そ さた あ じんぐう つ られ べ のよし きょう さだ られ うんぬん
神宮に返し付け被る可し者れば、仍て即ち其の沙汰有りて、神宮に付け被る可き之由、今日定め被ると云々。
参考@大庭御厨は、神奈川県藤沢市。現地代官は烏森神社らしい。烏森神社は鵠沼神明とも皇大神宮とも云う。天養記の義朝が襲った神社。
参考A外家は、妻の分。
現代語建保七年(1219)二月小二十一日戊午。白河左衛門尉義典は、公暁の使いとして伊勢神宮へお参りに行った上、帰りの途中で自殺したので、その罪によって彼の領地を取り上げて、別な地頭を任命しました。相模国大庭御厨(伊勢神宮領)の土地の内にあります。そしたら、鵠沼神明社の神主の神祇大副隆宗さんが、加藤左衛門尉大夫光員を通して上申書を出して云うのには、「義典の遺領の内、奥さんが親から相続した伊勢神宮領分については、取り上げる訳にはいかないでしょうから、伊勢神宮に返してください。」と云ったので、すぐに裁決があって、伊勢神宮の管理にするように、今日決められましたとさ。
建保七年(1219)二月小廿二日己未。發遣勇士到于駿河國安野郡。攻安野次郎。同三郎入道之處。防禦失利。時元并伴類皆悉敗北也。 |
読下し はっけん ゆうしするがのくにあのうぐんに いた あのうのじろう どうさぶろうにゅうどうのところ せ
建保七年(1219)二月小廿二日己未。發遣の勇士駿河國安野郡@于到り、安野次郎、同三郎入道之處を攻める。
ぼうぎょ り うしな ときもとなら ばんるい
みなことごと はいぼくなり
防禦利を失い、時元并びに伴類A皆
悉く敗北也。
参考@安野郡は、静岡県沼津市。同市井出の大泉寺に阿野全成と時元の墓がある。
参考A伴類は、大森と葛山。
現代語建保七年(1219)二月小二十二日己未。派遣された兵士たちは駿河国阿野郡に着いて、阿野次郎頼高・三郎入道頼全の陣地を攻めました。守る方は力を失って、時元とその仲間は全て負けました。
建保七年(1219)二月小廿三日庚申。酉刻駿河國飛脚參着。阿野自殺之由申之。 |
読下し とりのこく
するがのくに ひきゃくさんちゃく あのう じさつ のよし これ もう
建保七年(1219)二月小廿三日庚申。酉刻、駿河國の飛脚參着す。阿野自殺する之由、之を申す。
現代語建保七年(1219)二月小二十三日庚申。午後六時頃、駿河国の伝令が到着して、阿野時元が自殺したと報告しました。
建保七年(1219)二月小廿九日丙寅。武藏守親廣入道爲京都守護上洛。 |
読下し むさしのかみちかひろにゅうどう きょうと しゅご な じょうらく
建保七年(1219)二月小廿九日丙寅。
武藏守親廣入道@、 京都守護と爲し上洛す。
参考@親廣入道は、大江広元の息子で源(土御門)通親の養子。義時の娘婿。
現代語建保七年(1219)二月小二十九日丙寅。武蔵守大江源親広入道が、京都守護(鎌倉幕府京都駐在員)として京都へ上りました。