吾妻鏡入門第廿七巻

安貞二年戊子(1228)十二月大

安貞二年(1228)十二月大一日庚子。天陰。日蝕不正現。

読下し                     そらくも    にっしょく せいげんせず
安貞二年(1228)十二月大一日庚子。天陰り。日蝕 正現不。

現代語安貞二年(1228)十二月大一日庚子。空は曇りで、日食はきちんと現れません。

安貞二年(1228)十二月大三日壬寅。リ。筥根社遷宮事。條々被經評定。仰陰陽道擇申日次。而去月廿八日戊戌有上棟之儀。彼日非可被建宮社。戌日不載神吉之日之旨。有傾申之輩。依之有驚御沙汰。被尋下之處。不及擇日時。只爲社家計遂行之由。答申云々。

読下し                     はれ  はこねしゃせんぐう  こと じょうじょう ひょうじょう  へられ   おんみょうどう  おお    ひなみ  えら  もう
安貞二年(1228)十二月大三日壬寅。リ。筥根社遷宮の事、 條々 評定を經被る。陰陽道に仰せて日次を擇び申す。

しか   さんぬ つき にじうはちにち つちのえいぬ じょうとうのぎ あ
而るに去る 月 廿八日 戊戌 上棟之儀有り。

 か   ひ   ぐうしゃ  たてられ  べ    あらず いぬのひ かみきちの ひ  のせざるのむね  かたぶ もう  のやからあ
彼の日は宮社を建被る可きに非。戌日は神吉之日に載不之旨、傾け申す之輩有り。

これ  よっ  おどろ    ごさた あ       たず  くだされ のところ   にちじ  えら   およばず  ただ  しゃけ  はから   な   すいこうの よし  こた  もう    うんぬん
之に依て驚きの御沙汰有りて、尋ね下被る之處、日時を擇ぶに及不。只、社家の計ひと爲し遂行之由、答へ申すと云々。

現代語安貞二年(1228)十二月大三日壬寅。晴れです。箱根神社の新築の社殿への引っ越しについて、何度か会議を行いました。陰陽師を呼んでお日和を撰ばせました。しかし、先月28日戊戌の日に上棟式がありました。その日は、神社を建てるべきではない。戌の日は神様には吉の日だとは載っていませんと、反対の人もおります。これを聞いて驚いて命じられ、陰陽師にお聞きになられたところ、「日時を選ぶ必要はありません。神社関係者の行為として遂行しておりますので問題ありません」と答えましたとさ。

安貞二年(1228)十二月大四日癸卯。天リ。馬塲殿曳西方被建直之。同北面切戸被改平門云々。武州令監臨給云々。

読下し                     そらはれ  ばばどの せいほう  ひ   これ  たてなおされ  おな    ほくめん  きりど   ひらもん  あらた られ    うんぬん
安貞二年(1228)十二月大四日癸卯。天リ。馬塲殿 西方に曳き之を建直被る。同じく北面の切戸@を平門Aに改め被ると云々。

ぶしゅう かんりんせし  たま    うんぬん
武州 監臨令め給ふと云々。

参考@切戸は、くぐり戸に同じ。
参考A平門は、2本の柱の上に平たい屋根を付けた門。コトバンクから

現代語安貞二年(1228)十二月大四日癸卯。空は晴れです。馬場の建物を西側へ引き動かし建て直しました。同様に北側のくぐり戸を平門に取り替えました。武州泰時さんも見回りに来ましたとさ。

安貞二年(1228)十二月大六日乙巳。リ。午刻地震。

読下し                     はれ うまのこくぢしん
安貞二年(1228)十二月大六日乙巳。リ。午刻地震。

現代語安貞二年(1228)十二月大六日乙巳。晴れです。昼頃に地震です。

安貞二年(1228)十二月大十二日辛亥。天リ。南風頻吹。辰刻。由比民居火出來。至越後守名越亭後山之際。南北二十余町災。及午刻火止。

読下し                       そらはれ なんぷうしき    ふ
安貞二年(1228)十二月大十二日辛亥。天リ。南風頻りに吹く。

たつのこく  ゆい  みんきょ    ひ いできた    えちごのかみ なごえてい うしろやまのきわ  いた   なんぼく にじうよちょう わざわ    うまのこく  およ    ひ や
辰刻、由比の民居から火出來り、越後守が名越亭の後山之際に至り、南北二十余町災いし、午刻に及びて火止む。

現代語安貞二年(1228)十二月大十二日辛亥。空は晴れです。南風が盛んに吹いています。午前8時頃、由井の民家から火が出て、越後守北条朝時の名越の屋敷の後ろ山の際まで延焼し、南北二十余町(2km)が焼けて、昼頃に火がおさまりました。

安貞二年(1228)十二月大十九日戊午。御祈等重始行云々。

読下し                       おいのりら かさ   しぎょう    うんぬん
安貞二年(1228)十二月大十九日戊午。御祈等重ねて始行すと云々。

現代語安貞二年(1228)十二月大十九日戊午。お祈りをなおも増やして始めました。

安貞二年(1228)十二月大廿八日丁夘。筥根社遷宮。

読下し                       はこねしゃせんぐう
安貞二年(1228)十二月大廿八日丁夘。筥根社遷宮。

現代語安貞二年(1228)十二月大二十八日丁卯。箱根神社の新築社殿への引っ越しです。

安貞二年(1228)十二月大廿九日戊辰。リ。將軍家明年二所御參詣事。有其沙汰。供奉人散状并御神物員數注文及披覽。助教師員奉行之。御物注文者。被下政所。早可令施行。供奉人散状者。賜侍所司。可加催促之旨。被仰下云々。

読下し                       はれ  しょうぐんけ みょうねん にしょ ごさんけい  こと  そ   さた あ
安貞二年(1228)十二月大廿九日戊辰。リ。將軍家、明年の二所御參詣の事、其の沙汰有り。

 ぐぶにん  さんじょうなら   ごしんもつ  いんずう  ちうもん  ひらん   およ   じょきょうもろかずこれ  ぶぎょう
供奉人の散状并びに御神物の員數の注文を披覽に及ぶ。助教@師員A之を奉行す。

 ごもつ  ちうもんは  まんどころ  くだされ  はや  しこうせし  べ
御物の注文者、政所に下被、早く施行令む可き。

ぐぶにん  さんじょうは さむらいしょし  たま      さいそく  くは    べ   のむね  おお  くだされ    うんぬん
供奉人の散状者、侍所司に賜はり、催促を加へる可き之旨、仰せ下被ると云々。

参考@助教は、律令制で,大学寮の職員。明経科に置かれ,博士を助けて教授や課試にあたった。定員 2 名。助(すけ)博士。
参考A師員は、中原師員(1185-1251)。1218に助教。中原親能・大江広元の従兄弟。後評定衆となり、大夫外記となり、摂津守明経博士となる。法名は行厳。

現代語安貞二年(1228)十二月大二十九日戊辰。晴れです。将軍頼経様から来年の箱根・伊豆の二所権現詣でについて、指示がありました。お供の人の名簿の回覧や神社への捧げものの数などの書き出しをご覧になりました。助教中原師員が担当です。捧げ物の書き出しを政務事務所に渡し、早く整えておくようにとの事です。お供の人の回覧名簿は、軍事担当の侍所の次官に与え、催促をしておくように仰せになられたそうな。

安貞二年(1228)十二月大卅日己巳。自晨至于夜半雪降。余尺。日中以後。被催其興。將軍家俄渡御竹御所。御騎馬也。駿河守。陸奥四郎。同五郎。駿河藏人。三浦駿河次郎。小山五郎。後藤左衛門尉。源式部大夫等爲御共。各歩行云々。自廊御歸。近邊山舘令歴覽給云々。

読下し                     あしたよ  やはんに いた  ゆきふ     しゃく あま
安貞二年(1228)十二月大卅日己巳。晨自り夜半于至り雪降る。尺に余る。

にっちゅういご  そ  きょう  もよ  され  しょうぐんけ にはか たけごしょ  わた  たま    おんんきばなり
日中以後、其の興を催ほ被、將軍家 俄に竹御所に渡り御う。御騎馬也。

するがのかみ  むつのしろう  どうごろう   するがくらんど   みうらのするがじろう   おやまのごろう  ごとうのさえもんのじょう げんしきぶたいふら おんとも  な
駿河守、陸奥四郎、同五郎、駿河藏人、三浦駿河次郎、小山五郎、後藤左衛門尉、源式部大夫等御共と爲す。

おのおの かち うんぬん  ろうよ   おかえ    きんぺん  やま  たち  れきらんせし  たま    うんぬん
 各 歩行と云々。廊自り御歸り。近邊の山、舘を歴覽令め給ふと云々。

現代語安貞二年(1228)十二月大三十日己巳。早朝から夜半まで雪が降り、一尺(30cm)を越えました。午後になって、その風情を楽しみに、将軍頼経様は急に竹御所に出かけました。乗馬です。駿河守北条重時・陸奥四郎北条政村・同五郎北条実泰・駿河蔵人・三浦駿河次郎泰村・小山五郎長村・後藤左衛門尉基綱・源式部大夫親行などがお供をしました。それぞれ歩きです。竹御所では、寝殿の入口用廊下まででお帰りです。近所の山や館の積雪の風情を楽しまれたそうな。

安貞三年(1229)正月大へ

吾妻鏡入門第廿七巻

inserted by FC2 system