吾妻鏡入門第廿七巻

寛喜元年己丑(1229)十月大

寛喜元年(1229)十月大九日癸夘。長尾寺院主圓海門弟僧爲受戒上洛之間。賜路次過書。相州武州連署状也。雖非指高僧事。依歸依佛法之御志如此云々。

読下し                    ながおじ いんじゅ えんかい もんていそう じゅかい ためじょうらくのあいだ  ろじ   かしょ  たま
寛喜元年(1229)十月大九日癸夘。長尾寺@院主 圓海が門弟僧、受戒の爲上洛之間、路次の過書Aを賜はる。

そうしゅう ぶしゅう れんしょじょうなり   さ     こうそう  あら    こと  いへど   ぶっぽう     きえ のおんこころざし よっ  かく  ごと    うんぬん
相州、武州が連署状也。指せる高僧に非ざる事と雖も、佛法への歸依之 御志 に依て此の如しと云々。

参考@長尾寺は、川崎市多摩区長尾三丁目の妙楽寺がかつての源氏祈願寺の長尾山威光寺跡と云われる。近くに長尾神社あり。
参考A
過書は、通過証書(通行許可証)で後の手形。これにより関所があったことが推定される。

現代語寛喜元年(1229)十月大九日癸卯。長尾寺の住職円海の弟子の坊さんが、戒を授かるため京都へ上るので、道中手形を与えられました。相州時房さんと武州泰時さんの連名の書状です。たいした偉い坊さんでもないけど、仏法への信仰の志が篤いので、このように計られましたとさ。

寛喜元年(1229)十月大十四日戊申。リ。奉爲故右府將軍十三年〔明後年〕南新御堂内可被建塔婆之由。於政所有其沙汰。爲彈正忠季氏奉行。召日次勘文云々。

読下し                     はれ  こうふしょうぐん じうさんねん 〔さらいねん〕  おほんため みなみしんみどうない とうば   たてられ  べ   のよし
寛喜元年(1229)十月大十四日戊申。リ。故右府將軍十三年〔明後年〕の奉爲、南新御堂内に塔婆を建被る@可き之由、

まんどころ  をい  そ   さた あ     だんじょうのちうすえうじ ぶぎょう  な     ひなみ  かんもん  め    うんぬん
政所に於て其の沙汰有り。 彈正忠季氏 奉行と爲し、日次Aの勘文を召すと云々。

参考@塔婆を建被るは、三重の塔を建てる。
参考A
日次は、その日の吉凶。日柄。

現代語寛喜元年(1229)十月大十四日戊申。晴れです。故右府将軍源実朝様の13回忌〔再来年〕にために、勝長寿院内に三重塔を建てるように、政務事務所にて決められました。弾正忠清原季氏が担当して、お日和の上申書を陰陽師に出させましたとさ。

寛喜元年(1229)十月大廿二日丙辰。リ。將軍家令出由比浦給。有流鏑馬。相摸四郎。足利五郎。小山五郎。駿河四郎。武田六郎。小笠原六郎。三浦又太郎。城太郎。佐々木三郎。佐々木加地八郎等爲射手。三的之後。三々九四六三以下作物等各射之。此藝朝夕非可被御覽事之由。如相州。内々雖被諌申。凡依有御入興。不及被止之。連々可被御覽云々。

読下し                     はれ  しょうぐんけ  ゆいのうら  いでせし  たま     やぶさめ あ
寛喜元年(1229)十月大廿二日丙辰。リ。將軍家 由比浦に出令め給ふ。流鏑馬有り。

するがのしろう  あしかがのごろう  おやまのごろう  するがのしろう  たけだのろくろう  おがさわらのろくろう  みうらのまたたろう  じょうのたろう  ささきのさぶろう
相摸四郎、足利五郎、小山五郎、駿河四郎、武田六郎、小笠原六郎、 三浦又太郎、城太郎、佐々木三郎、

ささきかじのはちろう ら  いて たり   みまとののち  さんざんく   しろくさん いげ  つくりものら おのおの これ  い
佐々木加地八郎等射手爲。三的之後、三々九、四六三以下の作物等 各 之を射る。

かく  げい ちょうせき  ごらんされ  べ   こと  あらざるのよし そうしゅう ごと      ないない  かん  もうされ   いへど   およ ごにゅうきょうあ     よっ
此の藝、朝夕に御覽被る可き事に非之由、 相州の如きが、内々に諌じ申被ると雖も、凡そ御入興有るに依て、

これ  と   られ   およばず  れんれん ごらんされ  べ     うんぬん
之を止め被るに及不、 連々御覽被る可しと云々。

現代語寛喜元年(1229)十月大二十二日丙辰。晴れです。将軍頼経様(12歳)は、由比の浦へお出になり、流鏑馬がありました。相模四郎北条朝直・足利五郎長氏・小山五郎長村・駿河四郎三浦家村・武田六郎信長・小笠原六郎時長・三浦又太郎氏村・城太郎安達義景・佐々木三郎泰綱・佐々木加治八郎信朝達が射手です。三的のあと、三三九・四六三などの作り物の的をそれぞれが射ました。「こういう弓の芸は、長々と見ているものではありませんぞ。」と相州北条時房さんがそっと諫めましたが、余りにも面白いので止めさせないで、ずうっと見ていましたとさ。

寛喜元年(1229)十月大廿四日戊午。リ。申刻地震。相州被献新鞠并鞋等於武州云々。

読下し                     はれ  さるのこくぢしん  そうしゅう しんまりなら   くつら を ぶしゅう  けん  られ    うんぬん
寛喜元年(1229)十月大廿四日戊午。リ。申刻地震。 相州 新鞠并びに鞋等於武州に献じ被ると云々。

現代語寛喜元年(1229)十月大二十四日戊午。晴れです。午後四時頃に地震です。相州北条時房さんが新品の鞠と蹴鞠用の沓を武州北条泰時さんに贈りましたとさ。

寛喜元年(1229)十月大廿五日己未。リ。未刻地震。

読下し                     はれ ひつじのこくぢしん
寛喜元年(1229)十月大廿五日己未。リ。未刻地震。

現代語寛喜元年(1229)十月大二十五日己未。晴れです。午後二時頃に地震です。

参考未刻は、午後二時頃。

寛喜元年(1229)十月大廿六日庚申。天リ。將軍家爲御覽蹴鞠。渡御永福寺。御布衣。御輿也。路次御劍佐原三郎左衛門尉持之。寺門内者。駿河前司義村所役也。供奉人爲立烏帽子直垂。小山五郎以下携此藝之輩者着布衣。是相州點紅葉林間。被申子細。殊以有結搆之儀。子息三郎入道眞昭今更被召出。源式部大夫等祗候之間。御鞠之後。有當座和歌御會云々。

読下し                     そらはれ  しょうぐんけ けまり   ごらん  ため   ようふくじ   わた  たま    おんほい  おんこしなり
寛喜元年(1229)十月大廿六日庚申。天リ。將軍家 蹴鞠を御覽の爲、永福寺へ渡り御う。御布衣。御輿也。

 ろじ   ぎょけん  さはらのさぶろうさえもんのじょう これ  も     てら  もんないは  するがのぜんじよしむら しょやくなり  ぐぶにん  たてえぼし ひたたれたり
路次の御劍は 佐原三郎左衛門尉 之を持つ。寺の門内者、駿河前司義村が所役也。供奉人は立烏帽子@直垂爲。

おやまのごろう いげ かく  げい  かか   のやからは   ほい   き     これ  そうしゅう もみじ  りんかん  てん    しさい  もうされ
小山五郎以下此の藝に携はる之輩者、布衣を着る。是、相州 紅葉の林間を點じ、子細を申被る。

こと  もっ  けっこうの ぎ あ     しそくさぶろうにゅうどうどうしょう いまさら  めしいだされ
殊に以て結搆之儀有り。子息三郎入道眞昭A今更にB召出被る。

げんしきぶたいふら しこうのあいだ  おんまりののち   とうざ   わか   おんえ あ     うんぬん
源式部大夫C等祗候之間、御鞠之後、當座に和歌の御會有りと云々。

参考@立烏帽子は、右の図。
参考A
三郎入道眞昭は、時房の三男資時で和歌の名人。
参考B今更には、「今、更に」で特別に。
参考C源式部大夫は、親行で実朝が作った和歌所奉行。

現代語寛喜元年(1229)十月大二十六日庚申。空は晴れです。将軍頼経様は、蹴鞠をご覧になるため、永福寺へお出でです。狩衣に輿です。道中での太刀は佐原三郎左衛門尉家連が持ちました。寺の門内は、駿河前司三浦義村の役です。お供の人は、立烏帽子に直垂です。小山五郎長村以下の蹴鞠関係者は狩衣を着ています。これは、相州北条時房さんが紅葉の林に合わせたと謂れを云ったからです。特に手をかけた準備がされているので、倅の三郎入道真昭(北条資時)が特別に呼び出されました。源式部大夫親行も来ているので、蹴鞠が終わってから、その場で和歌の会を開くからだそうな。

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