天福元年癸巳(1233)七月大
天福元年(1233)七月大九日癸亥。大風以前出擧利倍事。爲救窮民被定減少之法。畿内西國事者。被仰六波羅畢。而丹波國夜久郷。有稱神人先達之者。寄事於神威。背嚴制及呵責。百姓不堪其愁。參訴云々。武州殊憐。召出庭中。直問答給。仍可令計下知之旨。被仰遣六波羅云々。 |
読下し おおかぜ いぜん すいこ りばい こと きゅうみん すく
ためげんしょうのほう さだ られ
天福元年(1233)七月大九日癸亥。大風@以前の出擧の利倍の事、窮民を救はん爲減少之法を定めA被、
きない
さいごく ことは ろくはら
おお られをはんぬ
畿内西國の事者、六波羅に仰せ被
畢。
しか
たんばのくに やくごう じんにんせんだつ しょう
のものあ ことを しんい よ
げんせい そむ かしゃく
およ
而るに丹波國夜久郷Bに神人先達と稱する之者有り。事於神威に寄せ、嚴制に背き呵責に及ぶ。
ひゃくしょうそ うれ たまらず さんそ
うんぬん
百姓其の愁ひに堪不、參訴すと云々。
ぶしゅうこと
あわれ ていちう めしいだ
じき もんどう たま よっ
はから げち せし べ のむね ろくはら
おお つか さる うんぬん
武州殊に憐み、庭中に召出し、直に問答し給ふ。仍て計ひ下知令む可き之旨、六波羅へ仰せ遣は被ると云々。
参考@大風は、二十七巻寛喜二年(1230)八月八日条の大風らしい。
参考A法を定めは、四月十六日条。倍返しを止めて、一束に付き五把(五割)の利子を倍返しとみなす。10割の利子を5割にした。
参考B夜久郷は、京都府福知山市夜久野町。
現代語天福元年(1233)七月大九日壬亥。大風以前の貸付米の利子については、窮乏している農民を助けるために、利子を減少する規則を決めて、京都周辺やその以西の扱いを六波羅へ通知してあります。
ところが丹波国の夜久郷(福知山市夜久野町)に神様の下部でお参りの先導者がいます。神様の権威を着て、命令を無視して強引な取り立てをしている。百姓はその横暴を嘆いて訴えてきました。
武州北条泰時さんは特に気の毒に思い、庭に呼んで直接話を聞きました。それできちんと調べて対処するように、六波羅へ命令を出しましたとさ。
天福元年(1233)七月大十日壬子。甘雨降。終日不休止。去月廿七日雷雨以後。炎旱又及數日。此雨既潤國土。天下豊饒之基也。 |
読下し かんう ふ しゅうじつ やまず さんぬ つきにじうしちにち らいう いご えんかんまた すうじつ
およ
天福元年(1233)七月大十日壬子。甘雨降る。終日休止不。去る月
廿七日の雷雨以後、炎旱又も數日に及ぶ。
こ
あめすで こくど うるお
てんかほうぎょうのもと なり
此の雨既に國土を潤し、天下豊饒之基い也。
現代語天福元年(1233)七月大十日壬子。救いの雨が降りました。一日中降りやめませんでした。先月27日の雷雨から旱が何日も続きました。この雨は国の土を潤し、世間の豊作の元となるでしょう。
天福元年(1233)七月大十一日癸丑。二位家御月忌御佛事。導師良信法印也。御臺所爲御聽聞。入御南御堂。武州又詣給。 |
読下し にいけ おんつきいみ ごぶつじ どうし りょうしんほういんなり
天福元年(1233)七月大十一日癸丑。二位家の御月忌の御佛事。導師は良信法印也。
みだいどころ
ごちょうもん ため みなみみどう
い たま ぶしゅうまたもう たま
御臺所 御聽聞の爲、南御堂に入り御う。武州又詣で給ふ。
現代語天福元年(1233)七月大十一日癸丑。二位家尼御台所政子様の祥月命日の法事です。指導僧は良信法印です。将軍妻竹御所はお経を聞き追善供養のため南御堂勝長寿院に入りました。武州北条泰時さんも一緒にお参りです。
天福元年(1233)七月大廿日壬戌。リ。申刻。内藤判官盛時頓滅。及子刻蘇生。相語妻子云。如夢迷行曠野中處。一僧來引手。假令如土門之所。出思之程。蘇生云々。是寤寐奏皈敬地藏菩薩者也。若預彼利生方便歟。末代希有事也。 |
読下し はれ
さるのこく ないとうほうがんもりとき
とんめつ ねのこく そせい
およ さいし あいかた い
天福元年(1233)七月大廿日壬戌。リ。申刻。内藤判官盛時
頓滅し、子刻蘇生に及び、妻子に相語りて云はく。
ゆめ ごと こうや なか まよ ゆ
ところ いちそうきた て ひ
けりょう どもん ごと のところ い おも のほど そせい うんぬん
夢の如く曠野の中を迷い行く處、一僧來りて手を引く。假令土門の如き之所に出づと思う之程に、蘇生すと云々。
これ ごび
じぞうぼさつ
ききょう たてまつ ものなり も か りしょうほうべん
あず
か まつだい けう ことなり
是、寤寐@に地藏菩薩を皈敬し奏る者也。若し彼の利生方便に預かる歟。末代までの希有の事也。
参考@寤寐は、目ざめている時と寝ている時。から何時でも。常に。
現代語天福元年(1233)七月大二十日壬戌。晴れです。午後4時頃に内藤判官盛時が気を失い、夜中の12時頃に息を吹き返して、妻子に話しました。「夢の中で荒野を彷徨い行くと、一人の坊さんが来て手を引くのです。おそらく土門の様な所に出たなと思ったら、目が覚めました。」なんだそうな。これは、目覚めている時であろうと眠っている時であろうと、何時でもお地蔵様を信心しているからでしょう。もしかしたらその御利益に預って行き帰ったのかも知れません。だとしたら不思議な事もあるもんですね。
天福元年(1233)七月大廿一日癸亥。霽。去月廿日。前齋宮令立皇后宮御。今月十三日入内之由。自京都被申之。 |
読下し
はれ
さんぬ つきはつか さきのさいくう
こうごうぐう た せし たま
天福元年(1233)七月大廿一日癸亥。霽。去る月
廿日、 前齋宮@皇后宮に立た令め御う。
こんげつじうさんにち
じゅだいのよし きょうと よ これ もうさる
今月 十三日
入内之由、京都自り之を申被る。
参考@前齋宮は、利子内親王。四条天皇の準母。
現代語天福元年(1233)七月大二十一日癸亥。晴れました。先月20日、前斎宮利子内親王が皇后に指名されました。今月13日に内裏へ入りますと、京都から知らせてきました。