吾妻鏡入門第廿九巻

天福元年癸巳(1233)十一月大

天福元年(1233)十一月大三日癸夘。藏人大夫大江季光法師〔法名西阿〕被召加評定衆。大和前司倫重爲御使。相觸其由西阿云々。

読下し                     くらんどたいふおおえのすえみつ ほっし〔ほうみょうせいあ〕ひょうじょうしゅう め  くは  らる
天福元年(1233)十一月大三日癸夘。藏人大夫大江季光@法師〔法名西阿〕評定衆に召し加へ被る。

やまとのぜんじともしげ  おんし  な     そ   よし  せいあ  あいふる    うんぬん
大和前司倫重、御使と爲し、其の由を西阿に相觸ると云々。

参考@大江季光は、大江広元の四男なれど相模国毛利庄を相続した。後の毛利元就の先祖。

現代語天福元年(1233)十一月大三日癸卯。蔵人大夫大江季光法師〔出家名は西阿〕が、政務会議担当の評定衆に加えられました。大和前司三善倫重が、使いとしてその事を西阿に伝えましたとさ。

天福元年(1233)十一月大十日庚戌。今日有評議。及晩事訖。武州令還御亭給之後。招大和前司倫重。玄番允康連。民部丞業時等。賜盃酒。公事之間致勤厚。殊神妙之由。褒美給云々。是近日雜訴等事。相積之間。連々有評議。毎度武州早參給。人々面々雖倒衣不奉先立之。仍此三人令談合。自夜中參候于評定所。至翌朝。奉待彼御參事。既及五六ケ度之間。預此御感云々。

読下し                     きょう ひょうぎあ     ばん  およ  ことをはんぬ
天福元年(1233)十一月大十日庚戌。今日評議有り。晩に及び事 訖。

ぶしゅう  おんてい  かえ  せし  たま  ののち  やまとのぜんじともしげ  げんばのじょうやすつら  みんぶのじょうなりとき ら  まね  はいしゅ  たま
武州、御亭へ還ら令め給ふ之後、大和前司倫重、 玄番允康連、 民部丞業時 等を招き盃酒を賜はる。

 くじのあいだきんこういた    こと  しんみょうのよし   ほうび   たま    うんぬん
公事之間勤厚致し、殊に神妙之由、褒美し@給ふと云々。

これ  きんじつざっそ ら  こと  あいつ  のあいだ  れんれんひょうぎあ    まいど ぶしゅうはや  さん  たま
是、近日雜訴等の事、相積む之間、連々評議有り。毎度武州早く參じ給ふ。

ひとびと めんめん ころも さかしま    いへど これ  さきだ たてまつ ず
人々 面々に衣を倒にすAと雖も之に先立ち奉ら不。

よっ  こ   さんにんだんごうせし   よなか よ  ひょうじょうしょにさんこう    よくちょう いた    か   ぎょさん  ま  たてまつ こと
仍て此の三人談合令め、夜中自り評定所于參候し、翌朝に至り、彼の御參を待ち奉る事、

すで  ご ろくど   およ  のあいだ  かく  ぎょかん  あずか   うんぬん
既に五六ケ度に及ぶ之間、此の御感に預ると云々。

参考@褒美しは、褒め称えた。
参考A衣を倒にすは、衣服を反対に着てしまう程にあわて急いだの例え。

現代語天福元年(1233)十一月大十日庚戌。今日、政務会議の評議がありました。夜になって終了しました。泰時さんは、屋敷へ帰った後、大和前司天野倫重・玄番允三善太田康連・民部丞佐藤業時などを招待して酒を出しました。公務を真面目に勤めてくれて、けなげで感心であると褒め称えましたとさ。これは、最近訴訟事が重なり、連日政務会議があり、毎回泰時さんは早く出勤してきます。人々が衣服を逆さまに着るほど、あわてて出勤しても先にはなれませんでした。そこでこの三人は相談し合って、夜中から政務事務所に出てきて翌朝、泰時さんの出勤を待っていたことが、5・6度にもなるので、このお褒めに預ったのです。

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