天福二年甲午(1234)六月大
天福二年(1234)六月大十九日丙子。左衛門少尉爲光被召加評定衆。 |
読下し さえもんのしょうじょうためみつ ひょうじょうしゅう め くは らる
天福二年(1234)六月大十九日丙子。左衛門少尉爲光、
評定衆に 召し加へ被る。
現代語天福二年(1234)六月大十九日丙子。左衛門少尉狩野為光が、政務会議のメンバー評定衆に命じられて加わりました。
天福二年(1234)六月大卅日丁酉。陸奥五郎依病痾。辞小侍所別當。而此事爲重職。子息太郎實時年少之間。難讓補之由。雖有其沙汰。武州雖重役。雖年少。可加扶持之由。依令申請給。所被仰付也云々。 |
読下し むつのごろう びょうあ よっ こさむいどころべっとう じ
しか かく ことちょうしきたり
天福二年(1234)六月大卅日丁酉。陸奥五郎@病痾に依て、小侍所A別當を辞す。而して此の事重職爲。
しそく たろうさねとき
ねんしょうのあいだ じょうぶ がた のよし そ さた あ いへど
ぶしゅうちょうえき いへど ねんしょう いへど
子息太郎實時
年少之間、讓補し難き之由、其の沙汰有りと雖も、武州重役と雖も、年少と雖も、
ふち くは べ のよし もう う せし たま よっ おお つ らる ところなり うんぬん
扶持を加へる可し之由、申し請け令め給ふに依て、仰せ付け被る所也と云々。
参考@陸奥五郎は、實泰。義時五男。金沢流北条氏初代。
参考A小侍所は、将軍の身の回りを世話をする役所(やくどころ)。
現代語天福二年(1234)六月大三十日丁酉。陸奥五郎実泰が、病気のために将軍の身の回りの世話をする小侍所の筆頭を降りました。この職は重要な職(ポスト)です。「息子の太郎実時は、未だ若すぎるので世襲は無理ではないか。」と申しておられましたが、武州泰時さんは「重要な役目とはいえ、又年が若いとはいえ、私が手助けいたしますので。」と申し出ましたので、任命されることになりましたとさ。