吾妻鏡入門第廿九巻

天福二年甲午(1234)八月大

天福二年(1234)八月大一日丁卯。北條弥四郎經時被補小侍所別當。是陸奥太郎實時依令奉行竹御所御後事有憚。暫不可出仕之故也云々。

読下し                   ほうじょうのいやしろうつねとき こさむらいどころ べっとう  ぶさる
天福二年(1234)八月大一日丁卯。北條弥四郎經時、 小侍所@ 別當に補被る。

これ  むつのたろうさねとき   たけごしょ  おんあと  こと  ぶぎょうせし    よっ    はばか あ      しばら  しゅっし   べからずの ゆえなり  うんぬん
是、陸奥太郎實時、竹御所の御後の事を奉行令むに依て、憚り有りて、暫く出仕する不可之故也と云々。

参考@小侍所は、将軍の身の回りを世話をする役所(やくどころ)。

現代語天福二年(1234)八月大一日丁卯。北条小四郎経時が、将軍の身の回りの世話する小侍所の筆頭に任命されました。これは、陸奥太郎実時さんは、竹御所の死後の行事などを担当し、その穢れがあるのでしばらく将軍のそばへは行かないためなのだそうな。

天福二年(1234)八月大廿一日丁亥。武州家令尾藤左近入道々然。依所勞辞職。平左衛門尉盛綱補其闕云々。同廿二日。左近將監藤原景綱法師〔法名道然〕死去云々。

読下し                     ぶしゅう  かれい  びとうさこんにゅうどうどうねん   しょろう  よっ  しき  じ
天福二年(1234)八月大廿一日丁亥。武州が家令の尾藤左近入道々然、所勞に依て職を辞す。

へいさえもんのじょうもりつな  そ   けつ  ぶ     うんぬん
平左衛門尉盛綱、其の闕に補すと云々。

おな    にじうににち  さこんしょうげんふじわらかげつなほっし 〔ほうみょうどうねん〕 しきょ    うんぬん
同じき廿二日、 左近將監藤原景綱法師 〔法名道然〕死去すと云々。

現代語天福二年(1234)八月大二十一日丁亥。泰時家の家庭内を取り仕切っている尾藤左近入道道然が、病気が重いので辞職しました。平三郎左衛門尉盛綱がその欠員に任命されましたとさ。その翌日の22日に左近将監藤原氏の尾藤景綱〔出家名は道然〕法師が亡くなりましたとさ。

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