吾妻鏡入門第卅四巻

仁治二年辛丑(1241)五月小

仁治二年(1241)五月小五日壬辰。鶴岡八幡宮神事如例。將軍家御參宮。前武州扈從給。

読下し                  つるがおかはちまんぐう しんじ れい  ごと    しょうぐんけ ごさんぐう  さきのぶしゅう こしょう たま
仁治二年(1241)五月小五日壬辰。鶴岡八幡宮の神事例の如し。將軍家御參宮。前武州 扈從し給ふ。

現代語仁治二年(1241)五月小五日壬辰。鶴岡八幡宮の端午の節句の神事は何時もの通りです。将軍頼経様はお参りです。泰時さんもお供をしました。

仁治二年(1241)五月小六日癸巳。有臨時評定。昨式日依鶴岡神事延引之故也。爲外記左衛門尉俊平奉行。本庄四郎左衛門尉時家被召放所帶云々。是小林小次郎時景所從藤平太妻女通路次之處。時家押取馬二疋〔一疋乘馬。一疋有荷〕。搦取口付小次郎男訖。可被行狼藉科之由。依時景訴申也。

読下し                   りんじ ひょうじょうあ     さくしきびつるがおか しんじえんいん  よっ  のゆえなり  げきさえもんのじょうとしひらぶぎょう  な
仁治二年(1241)五月小六日癸巳。臨時の評定有り。昨式日鶴岡の神事延引に依て之故也。外記左衛門尉俊平奉行を爲す。

ほんじょうしろうさえもんのじょうときいえ しょたい  めしはな  れる  うんぬん
本庄四郎左衛門尉時家、所帶を召放た被と云々。

これ  こばやしこじろうときかげ  しょじゅうとうのへいた つまじょ ろじ  とお  のところ  ときいえ うまにひき  〔 いっぴきじょうば  いっぴき にあ   〕 おしと
是、小林小次郎時景@が所從藤平太の妻女路次を通る之處、時家馬二疋を〔一疋乘馬。一疋荷有り〕押取り、

くちつけ  こじろう  おとこ から  と をはんぬ
口付Aの小次郎が男Bを搦め取り訖。

ろうぜき  とが  おこなはれ べ   のよし  ときかげうった もう    よっ  なり
狼藉の科を行被る可き之由、時景訴へ申すに依て也。

参考@小林小次郎時景は、上野國小林郷で群馬県藤岡市小林。
参考A口付は、轡(くつわ)とり。
参考B小次郎が男は、小次郎の下男でくつわとり。

現代語仁治二年(1241)五月小六日癸巳。臨時の政務会議がありました。昨日の式典日に鶴岡八幡宮の神事を延期したからです。外記左衛門尉俊平が担当をします。本庄四郎左衛門尉時家は、財産を取り上げられましたとさ。その原因は、小林小次郎時景の部下の藤平太の妻が道を通っていたら、時家が馬二頭〔一頭は乗馬し、一頭は荷物を積んでました〕を強盗し、手綱持ちの小次郎の下男を拉致しました。無法な行為を罰するよう、時景が訴えて来たからです。

仁治二年(1241)五月小十日丁酉。江民部大夫以康問註奉行之間。就有非勘之咎。被召放所領一所訖。而可有御計于傍輩中之由。兼日被儲其法。可賜宮内左衛門尉云々。是紀伊五郎兵衛入道寂西与同七左衛門尉重綱相論。陸奥國小田保追入若木兩村御下知事也。又爲河内式部大夫親行奉行。寄人兵衛次郎景村被収公所領陸奥國賀美郡栗谷澤村。可賜中云々。是景村博奕爲事之由。傍輩野田左近將監秀遠訴申之處。其科依令露顯也。」今日。海老名左衛門尉忠行自京都歸參。去月十六日。禪定殿下於東大寺御潅頂無爲被遂之云々

読下し                    えのみんぶたいふもちやす もんちうぶぎょうのあいだ ひかんのとが あ    つ     しょりょういっしょ  めしはなたれ をはんぬ
仁治二年(1241)五月小十日丁酉。江民部大夫以康@、問註奉行之間、非勘之咎A有るに就き、所領一所を 召放被 訖。

しか   かたわら やからちうに おんはか あ   べ   のよし  けんじつ そ  ほう  もうけられ くないさえもんのじょう  たま    べ     うんぬん
而して傍の 輩中于 御計り有る可き之由、兼日其の法を儲被、宮内左衛門尉に賜はる可しと云々。

これ  きいのごろうひょうえにゅうどうじゃくさん と おな   しちさえもんのじょうしげつな そうろん    むつのくに おだのほう おいれ   わかきりょうそん  おんげち  ことなり
是、紀伊五郎兵衛入道寂西 与 同じき七左衛門尉重綱 相論す。陸奥國 小田保B、追入C、若木兩村Dの御下知の事也。

また  かわちのしきぶたいふちかゆきぶぎょう  な     よりうどひょうえじろうかげむら  しょりょう むつのくに かみぐん くりやざわむら  しょうこうされ  うち  たま    べ     うんぬん
又、河内式部大夫親行奉行と爲し、寄人E兵衛次郎景村、所領の陸奥國賀美郡F栗谷澤村Gを収公被、中に賜はるH可しと云々。

これ  かげむらばくちたることのよし  ぼうはい  のださこんしょうげんひでとお うった もう  のとこと  そ   とがろけんせし  よっ  なり
是、景村博奕爲事之由、傍輩の野田左近將監秀遠訴へ申す之處、其の科露顯令むに依て也。」

参考@江民部大夫以康は、大江氏だが大江氏の系図には載っていない。
参考A
非勘之咎は、何かミステイクをしたらしい。
参考B小田保は、宮城県角田市小田らしい。
参考C
追入村は、宮城県石巻市須恵らしい。
参考D若木村は、宮城県大崎市古川西荒井小字若木かもしれない。
参考E寄人は、事務官。
考F賀美郡は、宮城県加美郡。現在加美町と色麻町の二町。
参考G
栗谷澤村は、不明。
参考H中に賜はるは、中は良くわからない。

きょう   えびなのさえもんのじょうただゆききょうとよ   きさん    さんぬ つきじうろくにち  ぜんじょうでんか とうだいじ  をい  ごかんちょう むい  これ  と   られ    うんぬん
今日、海老名左衛門尉忠行京都自り歸參す。去る月十六日、禪定殿下I東大寺に於て御潅頂無爲に之を遂げ被ると云々。

参考I禪定殿下は、九条道家。頼経父。

現代語仁治二年(1241)五月小十日丁酉。大江民部大夫以康は、裁判所の担当をしていますが、しくじりの罰として領地の内一ヵ所を取り上げられました。それを機会に他の連中に将軍に決裁を貰うため、かねてその規則を作って、宮内左衛門尉公景に渡すようにとの事でした。
それは、紀伊五郎兵衛入道寂西と同族の七左衛門尉重綱が裁判している陸奥国小田保の追入・若木の二つの村の処理についてです。
又、河内式部大夫源親行が担当している、事務官の兵衛次郎三浦景村の領地の陸奥国加美郡栗谷沢村を取り上げられ、中(?)に与えるようにだとさ。これは、景村が博打打だと、同僚の野田左近将監秀遠が訴えていましたが、その罪がばれたからなのです。」
今日、海老名左衛門尉忠行が京都から帰って来ました。先月十六日に前条殿下九条道家様は東大寺での仏位に上る聖水を掛けて貰う儀式を無事に終えたそうです。

仁治二年(1241)五月小十四日辛丑。六浦路造事。此間頗懈緩。今日前武州監臨給。以御乘馬令運土石給。仍觀者莫不奔營云々。

読下し                      むつらみち  ぞうじ   こ あいだすこぶ けかん
仁治二年(1241)五月小十四日辛丑。六浦路の造事、此の間頗る懈緩す。

きょう  さきのぶしゅうかんりん たま    ごじょうば   もっ  どせき   はこ せし  たま    よっ  みるもの いとな はしらざる な     うんぬん
今日、前武州監臨し給ひ、御乘馬を以て土石を運ば令め給ふ。仍て觀者、營み奔不は莫しと云々。

現代語仁治二年(1241)五月小十四日辛丑。六浦道の工事がこのところだいぶ遅れています。今日、泰時さんが言塲を監督して、自分の乗っている馬で土石を運ばれました。それを見た工事人は作業を走らずにはいられませんでしたとさ。

仁治二年(1241)五月小廿日丁未。雨降。今日。佐藤民部大夫業時依有其科。被除評定衆。是落書以下現奇恠云々。

読下し                    あめふ     きょう   さとうみんぶたいふなりとき そ   とがあ     よっ   ひょうじょうしゅう  のぞかれ
仁治二年(1241)五月小廿日丁未。雨降る。今日、佐藤民部大夫業時其の科有るに依て、評定衆から除被る。

これ らくしょ いげ   きっかい  あらは   うんぬん
是、落書以下の奇恠@を現すと云々。

参考@奇恠は、奇怪の罪と云って謀反に同じ。

現代語仁治二年(1241)五月小二十日丁未。雨降りです。今日、佐藤民部大夫業時は、罪があるので、政務会議から外されました。この人は、風刺のいたずら書きなど、狂った行為を始めたからだそうな。

仁治二年(1241)五月小廿三日庚戌。肥後國御家人大町次郎通信与多々良次郎通定相論當國大町庄地頭職事。以御恩地。不可賣買之由。治定訖。然而爲別御計。所賜通信也。是其心操無私曲歟之由。前武州日來内々御覽置之上。於被召放當所者。可失活計之由。依令愁歎。殊被申行之云々。

読下し                      ひごのくに ごけにん おおまちじろうみちのぶ と たたらのじろうみちさだ   とうごく おおまちのしょう  ぢとうしき   こと  そうろん
仁治二年(1241)五月小廿三日庚戌。肥後國御家人大町次郎通信 与多々良次郎通定、當國 大町庄@の地頭職の事を相論す。

ごおん   ち   もっ    ばいばい   べからずのよし  ちじょう をはんぬ
御恩の地を以て、賣買する不可之由、治定し訖。

しかれども べつ おはからい な    みちのぶ  たま   ところなり  これ  そ   しんそう しきょくな   かのよし さきのぶうひごろないない   おらんお   のうえ
 然而、 別の御計と爲し、通信に賜はる所也。是、其の心操私曲無き歟之由、前武州日來内々に御覽置く之上、

とうしょ   めしはなたれ   をい  は  かつ  はか    うしな べ    のよし  うれ  なげ  せし    よっ    こと  これ  もう  おこなはれ  うんぬん
當所を召放被るに於て者、活の計りを失う可き之由、愁い歎か令むに依て、殊に之を申し行被ると云々。

参考@大町庄は、熊本県上益城郡甲佐町大字大町かもしれない。

現代語仁治二年(1241)五月小二十三日庚戌。肥後国(熊本県)の御家人の大町次郎通信と多々良次郎通定が、同国の大町庄の地頭職を巡って裁判を起こしました。幕府から褒美として与えられた領地を売買してはならないと決めてしまいました。
それなので、別な理由を付けて通信に与えられた土地なのです。この人は、心に私情を挟まない性格を、泰時さんは普段から内緒で観察していたのと、この荘園を取り上げられては生活の収入が無くなってしまうと嘆いていたのとで、特にこれを命令して行わせましたとさ。

解説いきさつを推理すると、通信が領地を借金のかたに通定に取り上げられそうなので停止したようだ。個別的徳政令のようだ。

仁治二年(1241)五月小廿六日癸丑。散位業時事。依難被宥其科。配流鎭西云々。

読下し                      さんになりとき  こと   そ   とが  なだ  られがた    よっ    ちんぜい  はいる    うんぬん
仁治二年(1241)五月小廿六日癸丑。散位業時@の事、其の科、宥め被難きに依て、鎭西へ配流すと云々。

参考@散位業時は、佐藤で五月二十日に奇怪の罪で、既に官職は取り上げられてたようだ。

現代語仁治二年(1241)五月小二十六日癸丑。五位で官職の無い佐藤業時について、その罪は許しがたいので、九州へ流罪となりましたとさ。

仁治二年(1241)五月小廿八日乙夘。長井散位從五上(位カ)上大江朝臣時廣法師卒。

読下し                      ながい さんに じゅごいのじょう おおえのあそんときひろほっし そっ
仁治二年(1241)五月小廿八日乙夘。長井散位 從五位上 大江朝臣時廣法師@卒す。

参考@長井大江時廣は、大江広元の次男。

現代語仁治二年(1241)五月小二十八日乙卯。長井散位従五位上 大江時広法師が死にました。

仁治二年(1241)五月小廿九日丙辰。有評定。鶴岡職掌常陸國々井住人悪別當家重。依博奕之科。被解神職。會合衆飯野兵衛尉忠久。并五郎三郎。孫三郎等。可處罪科之旨。被仰含彼等主人國井五郎三郎政氏。那珂左衛門入道々願云々。次所處甲乙人。号神人。多令致煩之由。依有其聞。可被置本數之趣。自當座被相觸宮寺云々。外記左衛門尉俊平爲奉行。

読下し                      ひょうじょうあ
仁治二年(1241)五月小廿九日丙辰。評定有り。

つるがおか しきしょう ひたちのくに くにい じゅうにん あくべっとういえしげ  ばくち のとが  よっ    しんしき  とかれ
鶴岡の 職掌@常陸國 々井の住人 悪別當家重、博奕之科に依て、神職を解被る。

かいごうしゅう いいののひょうえのじょうただひさ なら    ごろうさぶろう  まごさぶろうら   ざいか  しょ  べ   のむね
 會合衆の 飯野兵衛尉忠久 并びに五郎三郎、孫三郎等、罪科に處す可き之旨、

かれら  しゅじん くにいのごろうさぶろうまさうじ  なかのさえもんにゅうどうどうがん  おお  ふく  られ    うんぬん
彼等の主人國井五郎三郎政氏A、那珂左衛門入道々願に仰せ含め被ると云々。

つぎ  しょしょ  とこうにん   じんにん  ごう    おお  わずら いたせし  のよし  そ   きこ  あ     よっ    ほんすう  おかれるべ  のおもむき
次に所處の甲乙人、神人と号し、多く煩い致令む之由、其の聞へ有るに依て、本數を置被可き之趣、

 とうざよ   ぐうじ  あいふれられ    うんぬん  げきさえもんのじょうとしひら ぶぎょう  な
當座自り宮寺へ相觸被ると云々。外記左衛門尉俊平奉行を爲す。

参考@職掌は、中世、社寺で神楽を演ずる役を務めた者。
参考A
国井五郎三郎政氏は、常陸國那珂郡国井保で現水戸市上国井町、下国井町、那珂市上国井町。

現代語仁治二年(1241)五月小二十九日丙辰。政務会議がありました。鶴岡八幡宮の楽団員で常陸国国井の領地持ちの悪別当家重は博打の罪により神職を解雇されました。同僚の飯野兵衛尉忠久それに五郎三郎・孫三郎なども同じく罰するように、彼らの主人国井五郎三郎政氏と那珂左衛門入道道順に仰せになられましたとさ。
次に、あちこちの者が八幡宮の下部だと云って、たかりをして迷惑をかけると、噂があるので、人数を決めておくように、その場から鶴岡八幡宮へ通告しましたとさ。外記左衛門尉俊平が担当です。

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