寛元二年甲辰(1244)七月大
寛元二年(1244)七月大十四日壬子。天霽。巳刻地震。 |
読下し
そらはれ
みのこく ぢしん
寛元二年(1244)七月大十四日壬子。天霽。巳刻地震。
現代語寛元二年(1244)七月大十四日壬子。空は晴れました。午前10時頃地震です。
寛元二年(1244)七月大十五日癸丑。月蝕正現。皆虧也。 |
読下し
げっしょくせんげん みな
か なり
寛元二年(1244)七月大十五日癸丑。月蝕正現す。皆虧くる也。
現代語寛元二年(1244)七月大十五日癸丑。月食がはっきり現れました。皆既月食です。
寛元二年(1244)七月大十六日甲寅。久遠壽量院供花結願也。大殿將軍家入御。岡崎僧正。内大臣法印。大藏卿法印以下參集。垂髪僧徒并俗人相分延年。毎事催興。光村。家村等施藝云々。」今日有評定。筑後國御家人吉井四郎長廣与同御家人矢部十郎直澄相論當國生葉庄内得安名屋敷田畠事。稱當知行。掠給御下知。奸謀之間。召返彼状。任貞應御成敗。可爲本所成敗之由云々。次日野六郎長用与平五郎季長法師〔法名妙蓮〕相論伯耆國日野新印郷。同下村得分事。六月廿日掠給御教書之條。難遁罪科之由。有其沙汰。長用所被止鎌倉出仕也。兩條共對馬前司爲奉行云々。 |
読下し くおんじゅりょういん
くげ けちがんなり おおとの しょうぐんけ い
たま
寛元二年(1244)七月大十六日甲寅。久遠壽量院の供花結願也。大殿、將軍家入り御う。
おかざきそうじょう ないだいじんほういん おおくらきょうほういん いげ さんしゅう
岡崎僧正、内大臣法印、 大藏卿法印 以下參集す。
すいはつそうと なら ぞくじんあいわか えんねん まいじきょう もよお みつむら いえむらら げい ほどこ うんぬん
垂髪僧徒并びに俗人相分れて延年す。毎事興を催す。光村、家村等藝を施すと云々。」
きょうひょうじょうあ
今日評定有り。
ちくごのくに
ごけにん
よしいのしろうながひろ と おな ごけにん やべのじうろうなおずみ そうろん とうごく
いくはのしょうない とくやすみょう やしきでんぱた こと
筑後國御家人
吉井四郎長廣@与同じき御家人矢部十郎直澄Aと相論する當國
生葉庄内 得安名Bの屋敷田畠の事、
とうちぎょう しょう おんげち りゃくきゅう かんぼうのあいだ か じょう めしかえ じょうおう
ごせいばい まか ほんじょ せいばいたるべ のよし うんぬん
當知行と稱し、御下知を掠給し、奸謀之間、彼の状を召返し、貞應の御成敗に任せ、本所の成敗爲可き之由と云々。
つぎ ひのろくろうながもち と へいごろうすえながほっし 〔ほうみょうみょうれん〕 そうろん ほうきのくに ひのしんいんごう おな しもむらとくぶん こと
次に日野六郎長用与平五郎季長法師〔法名妙蓮〕の相論する伯耆國日野C新印郷、同じく下村得分の事、
ろくがつはつか みぎょうしょ りゃくきゅう のじょう ざいか のが がた のよし そ さた あ ながもちかまくら
しゅっし と らる ところなり
六月廿日の御教書を掠給する之條、罪科を遁れ難し之由、其の沙汰有り。長用鎌倉の出仕を止め被る所也。
りょうじょう
とも つしまのぜんじ ぶぎょうたり うんぬん
兩條
共に對馬前司D奉行爲と云々。
参考@吉井は、旧生葉郡吉井町。現福岡県うきは市吉井町。筑後吉井駅あり。
参考A矢部は、福岡県うきは市吉井町屋部。吉井町南外れ。
参考B得安名は、吉井町徳丸カ?
参考C日野は、鳥取県日野日野郡日野町。
参考D対馬前司三善矢野倫重は、35巻寛元二年(1244)六月小四日癸酉。(前略)同日。前對馬守從五位上三善朝臣倫重死去〔年五十五〕とあるので、息子の対馬守矢野倫長らしい。
現代語寛元二年(1244)七月大十六日甲寅。十三日に前大納言家頼経様の持仏堂久遠寿院への献花の儀式(女官数人が順番を組んでのお手伝い)の完了日です。前大納言家頼経様も将軍頼嗣もお堂に入りました。岡崎僧正道慶・内大臣法印・大蔵卿法印良信以下が集まりました。髪を垂らした稚児・下部の坊さんそれに一般人がそれぞれ分かれて、かくし芸を披露しました。芸事に面白くて受けました。三浦光村・四郎家村も芸を見せましたとさ。」
今日、政務会議がありました。筑後国の御家人で吉井四郎長広と同地区御家人の矢部十郎直澄が争っている当国生葉庄内の得安名の屋敷・田畑について、当地を管理していると偽り、幕府の命令書をかすめ取った悪だくみなので、その命令書を取り返して、貞応二年(1223)八月三日の規則通り、御家人以外は対象外なので、荘園の最上級管理者の本所の判断に任せるとのことでした。
次に、日野六郎長用と平五郎季長法師〔出家名は妙蓮〕が争っている伯耆国日野新印郷と、同じ下村得分について、六月二十日の命令書をかすめ取った事は、罪を遁れる事は出来ないとの、決定がありました。日野長用の鎌倉幕府への勤務を停止させました。二つの事項は、どちらも対馬前司(対馬守矢野倫長?)が担当だそうな。
寛元二年(1244)七月大廿日戊辰(午)。別府左近將監成政申相摸國成松名事。召懸物可被糺明之云々。江新民部丞奉行之。此事。自大殿。以三浦式部大夫家村爲御使。別被仰武州云々。」今日。落合藏人泰宗并市河女子藤原氏等〔見西舊妻〕。一七ケ日參籠荏柄社壇。可書進起請之由。爲對馬前司。河勾平右衛門尉等奉行。被仰付之。此上。平右近入道寂阿。鎌田三郎入道西佛等爲御使。可加檢見之由云々。是市河掃部允高光法師〔法名見西〕訴申藤原氏云。密通泰宗之由云々。氏女論申之間。及此儀云々。 |
読下し べっぷさこんしょうげんなりまさ もう さがみのくに
なりまつみょう こと かけもの め これ ただ あかさる べ うんぬん
寛元二年(1244)七月大廿日戊午。別府左近將監成政が申す相摸國 成松名の事、懸物を召し之を糺し明被る可きと云々。
えのしんみんぶのじょう
これ ぶぎょう こ こと おおとのよ みうらしきぶのたいふいえむら もっ おんし な べっ ぶしゅう おお らる うんぬん
江新民部丞 之を奉行す。此の事、大殿自り、三浦式部大夫家村を以て御使と爲し、別して武州に仰せ被ると云々。」
きょう おちあいくらんどやすむね
なら いちかわ めのこふじわらうしら 〔けんさい きゅうさい〕 ひとなぬかにち
えがらしゃだん さんろう
今日、
落合藏人泰宗 并びに市河が女子藤原氏等〔見西が舊妻〕一七ケ日
荏柄社壇に參籠し、
きしょう か しん べ のよしつ しまのぜんじ
かわわのへいうえもんのじょうら ぶぎょう な これ
おお つ らる
起請を書き進ず可き之由、對馬前司、河勾平右衛門尉等
奉行と爲し、之を仰せ付け被る。
こ うえ たいらのうこんにゅうどうじゃくあ かまたのさぶろうにゅうどうせいぶつら おんし な けみ くは べ のよし うんぬん
此の上、平右近入道寂阿、 鎌田三郎入道西佛等 御使と爲し、檢見を加へる可き之由と云々。
これ いちかわかもんのじょうたかみつほっし〔ほみょうけんさい〕 ふじわらうじ うった
もう い やすむね みっつう のよし
うんぬん
是、
市河掃部允高光法師 〔法名見西〕藤原氏を訴へ申して云はく。泰宗に密通之由と云々。
うじじょろん もう のあいだ かく ぎ およ うんぬん
氏女論じ申す之間、此の儀に及ぶと云々。
現代語寛元二年(1244)七月大二十日戊午。別府左近将監成政が訴えてきている相模国成松名について、訴訟担保を出させて調べて明らかにするそうな。大江新民部丞がこれを担当します。この事は、前大納言家頼経様から式部大夫三浦家村を通して、特別に武州経時に言ってきたからだそうな。」
今日、落合蔵人泰宗それに市川の女子で藤原氏〔市川高光見西の元妻〕は、七日間荏柄天神社にお籠りをして、誓約書を書いて出すようにと、対馬前司(対馬守矢野倫長?)・河勾平右衛門尉を指揮担当として、これを命じました。その上で、平右近入道寂阿・鎌田三郎入道西仏は、執権に使いとして、見届けてるようにとのことです。これは、市川掃部允高光法師〔出家名は見西〕が藤原氏の女を訴えて云うには、「落合泰宗と浮気をしたから。」との事です。しかし、女は否定を提訴したので、このような処分にしましたとさ。
寛元二年(1244)七月大廿三日辛未(酉)。爲將軍家御祈。被修藥師法。大納言法印隆弁奉仕之。 |
読下し しょうぐんけ おいのり ため やくしほう しゅうさる だいなごんほういんりゅうべん
これ ほうし
寛元二年(1244)七月大廿三日辛酉。將軍家の御祈の爲、藥師法を修被る。
大納言法印隆弁 之を奉仕す。
現代語寛元二年(1244)七月大二十三日辛酉。将軍家頼嗣のお祈りのために薬師如来のお経を上げました。大納言法印隆弁が勤めました。