吾妻鏡入門第卅六巻

寛元三年乙巳(1245)五月大

寛元三年(1245)五月大三日丙申。今日諸人訴訟事。被定其法。所謂被仰下問註所之處。寄事於左右。當參之輩令難澁之條。自由也。奉行人催促。過五ケ度者。慥隨被注進交名。可被處罪科也。亦奉行人。訴人參對之時令不參。不記申詞者。可註申交名。同可被處其科云々。又諸國守護地頭等。不隨六波羅召文事。三ケ度雖令下知。不參洛者。可被致改易所職之由云々。

読下し                   きょう しょにん  そしょう  こと   そ   ほう  さだ  らる
寛元三年(1245)五月大三日丙申。今日諸人の訴訟の事、其の法を定め被る。

いはゆる  もんちうしょ おお  くださる  のところ  ことを  そう   よ     とうさんのやから なんじゅうせし のじょう  じゆうなり
所謂、問註所に仰せ下被る之處、事於左右に寄せ、當參之輩 難澁令む之條、自由也。

ぶぎょうにん  さいそく    ごかど  す     ば   たしか ちうしんさる きょうみょう したが   ざいか  しょさる  べ   なり
奉行人の催促が、五ケ度を過ぎれ者、慥に注進被る交名に隨い、罪科に處被る可き也。

また ぶぎょうにん  そにんさんたいのときさん せしまず  もう  ことば きさざれば  きょうみょう ちう  もう  べ     おな    そ   とが  しょさる  べ     うんぬん
亦 奉行人、訴人參對之時參じ令不、申す詞を記不者、交名を註し申す可き。同じく其の科に處被る可きと云々。

また  しょこく   しゅごぢとう ら    ろくはら   めしぶみ したが ざること  さんかど げち せし   いへど   さんらくせず  ば   しょしき  かいえき いたさる  べ   のよし  うんぬん
又、諸國の守護地頭等、六波羅の召文に隨は不事、三ケ度下知令むと雖も、參洛不ん者、所職を改易 致被る可き之由と云々。

現代語寛元三年(1245)五月大三日丙申。今日、御家人の訴訟について、その規則を決めました。それは、裁判所に仰せになられたのは、何かと理由をつけて該当者が鎌倉へ来ない事は、わがまま勝手である。裁判担当者の呼び出しが5回を越えたら、しっかりと名前を書きだして名簿によって、処罰しましょう。また、裁判担当者が、訴訟人が来て合う時に来なかったり、訴訟人の言上を書き残さなかったりしたら、名前を書いて申し出れば、同様に処罰することにするそうな。又、諸国の守護や地頭が、六波羅探題の出頭命令を聞かないで、3度呼び出されても京都へ来ない場合は、職を解き取り上げるとの事です。

寛元三年(1245)五月大七日庚子。就懸物年紀。被付美濃國芥見庄於山田郷。可爲萬年入道御使之由云々。C左衛門尉奉行之云々。

読下し                   かけもの ねんき  つ     みののくに あくたみのしょうを やまだごう  ふ   られ
寛元三年(1245)五月大七日庚子。懸物年紀に就き、美濃國 芥見庄@於 山田郷Aに付せ被る。

まんねんにゅうどう おんしたるべ   のよし  うんぬん  せいさえもんのじょう これ  ぶぎょう   うんぬん
萬年入道 御使爲可きB之由と云々。C左衛門尉 之を奉行すと云々。

参考@芥見庄は、岐阜県岐阜市芥見。
参考A
山田郷は、岐阜県関市山田。両所は隣り合っている。
参考B
萬年入道御使爲可きは、得宗領であろう。

現代語寛元三年(1245)五月大七日庚子。裁判担保の事項について、美濃国芥見庄を山田郷の付属とする。万年入道を代官にするそうな。清原左衛門尉満定が担当です。

寛元三年(1245)五月大九日壬寅。金津藏人次郎資成申上野國新田庄内米澤村名主職事。以懸物状。雖申子細。文暦御下知無相違之間。難及改沙汰之由。被仰下云々。

読下し                   かなづくらんどじろうすけなり  もう  こうづけのくに にったのしょうない よねざわむら みょうしゅしき  こと  かけものじょう もっ
寛元三年(1245)五月大九日壬寅。金津藏人次郎資成@が申す上野國 新田庄内 米澤村A 名主職の事、懸物状を以て、

しさい  もう   いへど   ぶんりゃく おんげち そうい な   のあいだ  あらた  さた   およ  がた  のよし  おお  くださる    うんぬん
子細を申すと雖も、文暦の御下知相違無き之間、改め沙汰に及び難き之由、仰せ下被ると云々。

参考@金津は、新潟県新潟市秋葉区金津(旧新津市)。
参考A米澤村は、群馬県太田市米沢町。

現代語寛元三年(1245)五月大九日壬寅。金津蔵人次郎資成が訴えている上野国新田庄内米沢村の地主領主職の名主職について、担保を持って訴えているが、文暦年間の命令書の通りなので、再審には該当できないと、棄却しましたとさ。

解説経時は、自分の部下の訴えであるにもかかわらず、取り上げなかった。

寛元三年(1245)五月大廿二日乙夘。天霽。濱御倉内小蛇出來。五六ケ日惱乱。今日申尅遂死云々。仍爲平左衛門入道盛阿奉行。被行卜筮并御祈等云々。是武州令管領給之庫倉也。被納武藏國乃貢云々。

読下し                     そらはれ  はま  みくら  うち  こへび いできた   ごろっかにち のうらん    きょうさるのこくつい  し     うんぬん
寛元三年(1245)五月大廿二日乙夘。天霽。濱の御倉の内に小蛇出來る。五六ケ日惱乱し、今日申尅遂に死すと云々。

よっ  へいさえもんにゅうどうせいあ ぶぎょう  な    ぼくぜいなら    おいのりら おこなはれ  うんぬん
仍て平左衛門入道盛阿奉行と爲し、卜筮并びに御祈等を行被ると云々。

これ  ぶしゅう かんりょうせし  たま  の こそう なり  むさしのくに  のうぐ  おさ  らる    うんぬん
是、武州 管領 令め給ふ之庫倉也。武藏國の乃貢を納め被ると云々。

現代語寛元三年(1245)五月大二十二日乙卯。空は晴れました。浜にある北条氏の蔵の中に小蛇が出てきました。5・6日のたうちまわっていましたが、今日の午後4時頃死んだそうな。それで平三郎左衛門入道盛阿・盛綱が担当して、陰陽師に占わせたり祈りをさせましたとさ。これは、武州経時が管理している倉庫(得宗家の倉庫)である。武蔵国の年貢をしまってあるんだそうな。

寛元三年(1245)五月大廿三日丙辰。天霽。將軍家〔御歳七〕依可有御嫁娶。日次〔六月廿日〕并造作〔可被廣女房局并御厩〕以下條々。有其沙汰。依之爲御方違。日來雖被點遠江守亭〔御所巽方〕自彼第御厩當于西方。至秋節可爲王相方御方違之間。以大僧正御房〔惠良〕御壇所。被定御方違之所。自今夜渡御云々。

読下し                     そらはれ しょうぐんけ 〔おんとしななさい〕 おんよめと   あ   べ     よっ
寛元三年(1245)五月大廿三日丙辰。天霽。將軍家〔御歳七つ〕御嫁娶り有る可きに依て、

ひなみ 〔ろくがつはつか〕 なら    ぞうさく 〔にょぼうのつぼねなら    みんまや  ひろ  らる   べ   〕  いげ  じょうじょう  そ   さた あ
日次〔六月廿日〕并びに造作〔女房局并びに御厩を廣げ被る可き〕以下の條々、其の沙汰有り。

これ  よっ  おんかたたが   ため  ひごろ とおとうみのかみてい 〔ごしょ  たつみかた〕  てんぜら   いへど  か   だいみんまやよ  せいほうにあた
之に依て御方違への爲、日來 遠江守亭 〔御所の巽方〕を點被ると雖も彼の第御厩自り西方于當り、

しゅうせつ いた   おうそうかた  おんかたが  たるべ   のあいだ
 秋節@に至りて王相A方に御方違へ爲可き之間、

だいそうじょうごぼう 〔えりょう〕 ごだんしょ  もっ    おんかたたが のところ  さだ  られ  こんや よ   とぎょう    うんぬん
大僧正御房〔惠良〕御壇所を以て、御方違へ之所と定め被、今夜自り渡御すと云々。

参考@秋節は、中秋節。8月15日の十五夜で中国の三大節句。
参考A王相は、王神と相神で月ごとに方角が禁忌とされる。

現代語寛元三年(1245)五月大二十三日丙辰。将軍家頼嗣〔歳は7才〕嫁さんを貰う事にするので、お日和〔6月20日〕それと改築〔女官の宿舎それに厩を広げる予定〕などの、いくつかについて検討がありました。この方角替えのため、先日遠江守朝直の屋敷〔御所の東南方向〕を指定しましたけれど、その屋敷は厩からは西に当たり、中秋節にはそちらが禁忌方角へ方角替えをすることになるので、大僧正坊さん〔恵良〕の祈祷所を方角替えの行き先と決めて、今夜からお渡りになりますとさ。

寛元三年(1245)五月大廿六日己未。天リ。大納言家被奉讓御所於將軍御方。仍有其儀。自今無御方違。自將軍御方者。御造作之所無其憚云々。

読下し                     そらはれ  だいなごんけ ごしょを しょうぐん おんかた ゆず たてまつ らる
寛元三年(1245)五月大廿六日己未。天リ。大納言家御所於將軍の御方に讓り奉つ被る。

よっ  そ   ぎ あ     いまよ   おんかたたが な   しょうぐん おんかたよ   は  ごぞうさくのところ そ  はばか な     うんぬん
仍て其の儀有り。今自り御方違へ無し。將軍の御方自り者、御造作之所其の憚り無しと云々。

現代語寛元三年(1245)五月大二十六日己未。空は晴です。前大納言家頼経様の御所を将軍家頼嗣様にお譲りになりました。それなので、その引き継ぎ式がありました。そこで方角替えの必要がまくなりました。この将軍の居場所からは、改築の作業も陰陽道上の差し障りがありませんそうな。

寛元三年(1245)五月大廿九日壬戌。リ。武州有御不例。令患黄疸給云々。

読下し                     はれ  ぶしゅう ごふれい あ     おうだん わずら せし  たま    うんぬん
寛元三年(1245)五月大廿九日壬戌。リ。武州御不例有り。黄疸を患は令め給ふと云々。

現代語寛元三年(1245)五月大二十九日壬戌。晴れです。武州経時さんが、病気になりました。黄疸にかかったようです。

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