吾妻鏡入門第四十一巻

建長三年(1251)十一月大

建長三年(1251)十一月大十二日丁酉。戌尅。將軍爲御方違而。奥州第入御。前右馬權頭。武藏守。遠江守以下供奉。相州被參詣云云。是明年可被建小御所。其地爲南方之間。依當于太白方也。又日來改御寢所。可被用他處云云。

読下し                      いぬのこく しょうぐん おんかたたが  ため    て  おうしゅう  だい  い   たま
建長三年(1251)十一月大十二日丁酉。戌尅。將軍 御方違への爲とし而、奥州の第へ入り御う。

さきのうまごんのかみ むさしのかみ とおとうみのかみ いげ  ぐぶ
前右馬權頭・武藏守・ 遠江守 以下供奉す。

そうしゅう さんけいさる   うんぬん  これ みょうねん こごしょ  たてらる  べ     そ   ち なんぽうたるのあいだ たいはくほうにあた    よっ  なり
 相州 參詣被ると云云。是、明年小御所を建被る可し。其の地 南方爲之間、太白方于當るに依て也。

また  ひごろ   ごしんじょ  あらた    たしょ   もち  らる  べ    うんぬん
又、日來の御寢所を改め、他處を用ひ被る可しと云云。

現代語建長三年(1251)十一月大十二日丁酉。午後8時頃、将軍家頼嗣様の方角替えのためとして、重時さんの屋敷へ入りました。前右馬権頭北条政村・武蔵守北条朝直・遠江守時直以下がお供をしました。時頼さんは、来て挨拶をしました。これは来年将軍用の個人的住まいを建てるので、その土地は南に当たり金星の方角にあたるからです。又、普段の寝所も場所を変えて、他を使うべきだそうな。

参考:太白星(タイハクセイ)は、金星。

建長三年(1251)十一月大十三日戊戌。戌尅。禪定二位家有御移徙之義。龜谷新造御第入御。被用御輿。散位廣資朝臣候反閇。賜祿〔二衣〕。右近大夫仲親役之。
扈從〔直垂立烏帽子〕
 武藏守      尾張前司
 遠江前司     陸奥掃部助
 相摸右近大夫將監 北條六郎
 越後五郎     武藏四郎
 内藏權頭     安藝前司
 小山出羽前司   出羽前司
 和泉前司     越中前司
 長門前司     大隅前司
 伊賀前司     内藤肥後前司
 出雲前司     伊勢前司
 上野三郎兵衛尉  梶原右衛門尉
 和泉二郎左衛門尉 信濃四郎左衛門尉
 伊賀二郎左衛門尉 大須賀左衛門尉
 肥後二郎左衛門尉 葛西新左衛門尉
 出羽二郎左衛門尉 豊後四郎左衛門尉
 下野七郎     城三郎
 佐々木壹岐三郎

読下し                      いぬのこく ぜんじょうにいけ  ごいし  のぎ あ    かめがやつ しんぞう おんだい  い   たま
建長三年(1251)十一月大十三日戊戌。戌尅。禪定二位家@御移徙之義有り。龜谷の新造の御第へ入り御う。

おんこし  もち  らる    さんにひろすけあそん へんばい  そうら   ろく  たま     〔ふたころも〕  うこんたいふなかちかこれ  えき
御輿を用ひ被る。散位廣資朝臣 反閇に候う。祿を賜はる〔二衣〕。右近大夫仲親之を役す。

こしょう 〔ひたたれ    たてぼし 〕
扈從〔直垂、立烏帽子〕

  むさしのかみ            おわりぜんじ
 武藏守      尾張前司

  とおとうみぜんじ          むつかもんのすけ
 遠江前司     陸奥掃部助

  さがみうこんたいふしょうげん  ほうじょうろくろう
 相摸右近大夫將監 北條六郎

  えちごごろう            むさししろう
 越後五郎     武藏四郎

  くらごんののかみ         あきぜんじ
 内藏權頭     安藝前司

  おやまでわぜんじ         でわぜんじ
 小山出羽前司   出羽前司

  いずみぜんじ           えっちゅうぜんじ
 和泉前司     越中前司

  ながとぜんじ            おおすみぜんじ
 長門前司     大隅前司

  いがぜんじ             ないとうひごぜんじ
 伊賀前司     内藤肥後前司

  いずもぜんじ            いせぜんじ
 出雲前司     伊勢前司

  こうづけさぶろうひょうえのじょう かじわらうえもんのじょう
 上野三郎兵衛尉  梶原右衛門尉

  いずみじろうさえもんのじょう   しなのしろうさえもんのじょう
 和泉二郎左衛門尉 信濃四郎左衛門尉

  いがじろうさえもんのじょう     おおすがさえもんのじょう
 伊賀二郎左衛門尉 大須賀左衛門尉

  ひごじろうさえもんのじょう    かさいしんさえもんのじょう
 肥後二郎左衛門尉 葛西新左衛門尉

  でわじろうさえもんのじょう    ぶんごしろうさえもんのじょう
 出羽二郎左衛門尉 豊後四郎左衛門尉

  しもつけしちろう          じょうのさぶろう
 下野七郎     城三郎

  ささきいきさぶろう
 佐々木壹岐三郎

参考@禅定二位家は、頼経室。最近出家したらしい。

現代語建長三年(1251)十一月大十三日戊戌。午後8時頃、前将軍の奥さんで出家した二品の引っ越し儀式がありました。亀谷の新築へ移りました。輿を使いました。散位安倍広資さんがお祓いの歩行をしました。謝礼を与えました〔着物二着〕。右近大夫仲親が担当しました。
お供は、鎧直垂に立烏帽子です。
 武蔵守北条朝直       尾張前司北条時章
 遠江前司北条時直      陸奥掃部助北条実時
 相模右近大夫将監北条時定  北条六郎時定
 越後五郎北条時家      武蔵四郎北条時仲
 
内蔵権頭資親        安芸前司親光
 出羽前司小山長村      出羽前司二階堂行義
 和泉前司二階堂行方    
 越中前司(宇都宮)横田頼業
 長門前司笠間時朝      大隅前司島津忠時
 伊賀前司小田時家      内藤肥後前司盛時
 出雲前司波多野義重     伊勢前司二階堂行綱
 上野三郎兵衛尉畠山国氏   梶原右衛門尉景俊
 和泉次郎左衛門尉二階堂行章 信濃四郎左衛門尉二階堂行忠
 伊賀次郎左衛門尉光房    大須賀左衛門尉朝氏
 肥後次郎左衛門尉藤原為時  葛西新左衛門尉清時
 出羽次郎左衛門尉二階堂行有 豊後四郎左衛門尉島津忠綱
 下野七郎宇都宮経綱     城三郎安達景村
 佐々木壱岐三郎頼綱

建長三年(1251)十一月大十四日己亥。天リ。寅尅。太白迫犯填星。

読下し                      そらはれ とらのこく たいはく てんせい せま  おか
建長三年(1251)十一月大十四日己亥。天リ。寅尅、太白@填星Aに迫り犯す。

参考@太白星は、金星。参考A填星は、土星。

現代語建長三年(1251)十一月大十四日己亥。空は晴です。午前4時頃、金星が土星に迫ったその軌道を犯しました。

建長三年(1251)十一月大十五日庚子。天霽。以大菩薩之御影。鶴岡之于別當坊奉入。勸請云云。

読下し                      そらはれ だいぼさつ の みえい  もっ   つるがおかのべっとうぼうに い たてまつ  かんじょう   うんぬん
建長三年(1251)十一月大十五日庚子。天霽。大菩薩之御影を以て、鶴岡之別當坊于入れ奉り、勸請すと云云。

現代語建長三年(1251)十一月大十五日庚子。空は晴れました。八幡大菩薩の絵像を鶴岡八幡宮筆頭の宿坊に入れて、開眼供養をしましたとさ。

建長三年(1251)十一月大十八日癸夘。雨降。京都之飛脚到着。去十四日酉尅。准后〔將軍家御祖母。御年六十一〕遷化。日來不食之由申之。

読下し                      そらはれ  きょうとのひきゃくとうちゃく
建長三年(1251)十一月大十八日癸夘。雨降。京都之飛脚到着す。

さんぬ じうよっかとりのこく じゅんごう 〔 しょうぐんけ おんそぼ  おんとし ろくじういち 〕 せんげ    ひごろ ふじき のよしこれ  もう
去る十四日酉尅、准后@〔將軍家御祖母。御年六十一〕遷化す。日來不食之由之を申す。

参考@准后は、九条道家の妻で掄子。

現代語建長三年(1251)十一月大十八日癸卯。雨降る。京都からの伝令が到着しました。「先日の14日の午後6時頃に准后〔将軍家頼嗣様の祖母61才〕が亡くなりました。最近食事が取れなくなっていました。」と報告しました。

建長三年(1251)十一月大廿二日丁未。伊勢前司行綱爲使節上洛。依准后御事也。自將軍家。龍蹄以下給餞物云云。

読下し                       いせぜんじゆきつな   しせつ  な  じょうらく   じゅんごう  おんこと  よっ  なり
建長三年(1251)十一月大廿二日丁未。伊勢前司行綱、使節と爲し上洛す。准后の御事に依て也。

しょうぐんけよ   りゅうてい いげ  せんぶつ  たま     うんぬん
將軍家自り、龍蹄以下の餞物を給はると云云。

現代語建長三年(1251)十一月大二十二日丁未。伊勢前司二階堂行綱は、幕府からの代表として京都へ上ります。これは、将軍の祖母の訃報によるものです。将軍家頼嗣様から名馬などの餞別を貰いましたとさ。

建長三年(1251)十一月大廿七日壬子。諏方三郎盛綱爲相州御使而上洛。是又准后御訪事也。

読下し                      すわのさぶろうもりつな  そうしゅう おんし  な   て じょうらく   これまた じゅんごう おんとぶら   ことなり
建長三年(1251)十一月大廿七日壬子。諏方三郎盛綱、相州の御使を爲し而上洛す。是又、准后の御訪ひの事也。

現代語建長三年(1251)十一月大二十七日壬子。諏訪三郎盛綱はが、時頼さんの代理として京都へ上ります。これもまた、将軍の祖母のお弔いのためです。

建長三年(1251)十一月大廿九日甲寅。天リ。於相州御第。被信讀大般若經。關東安全御祈也。

読下し                      そらはれ そうしゅう おんだい  をい   だいはんやきょう しんどくさる    かんとうあんぜん おいの  なり
建長三年(1251)十一月大廿九日甲寅。天リ。相州の御第に於て、大般若經を信讀被る。關東安全の御祈り也。

現代語建長三年(1251)十一月大二十九日甲寅、空は晴です。時頼さんの屋敷で、大般若経のきちんと読みをさせました。鎌倉幕府が無事な祈りです。

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