吾妻鏡入門第四十四巻

建長六年(1254)閏五月小

建長六年(1254)閏五月小一日壬寅。相州隨身下若等。參御所給。將軍家出御廣御所。御酒宴及數献。近習人々被召出之。各乘醉。于時相州被申云。近年武藝癈而自他門共好非職才藝。觸事已忘吾家之礼訖。可謂比興。然者弓馬藝者追可有試會。先於當座被召决相撲。就勝負可有感否御沙汰之由云々。將軍家殊有御入興。爰或逐電。或令固辞。爲陸奥掃部助奉行。於遁避之輩者。永不可被召仕之旨。再三依仰含。十余輩憖及手合〔不撤衣裝〕。長田兵衛太郎被召出候砌。判申勝負是非。依爲譜代相撲也。
   〔左持〕
 一番
   〔右〕
  〔三浦〕
  遠江六郎左衛門尉
  〔結城〕
  上野十郎
 二番
  大須賀左衛門四郎
  波多野小次郎
   〔左持〕
 三番
   〔右〕
  澁谷太郎左衛門尉
  檢牧(校)中務三郎
   〔左勝〕
 四番
   〔右〕
  橘薩摩余一
  肥後弥藤次
   〔左勝〕
 五番
   〔右〕
  廣澤余三
  加藤三郎
   〔左持〕
 六番
   〔右〕
  常陸次郎兵衛尉
  土肥四郎
勝并持者被召御前。賜御釼御衣等。雲客取之。負者不論堪否。以大器各給酒三度。御一門諸大夫等候杓。凡有興有感。時壯觀也。

読下し                    そうしゅう げじゅく ら   み   したが   ごしょ   まい  たま    しょうぐんけひろ  ごしょ   い   たま
建長六年(1254)閏五月小一日壬寅。相州下若@等を身に隨へ、御所に參り給ふ。將軍家廣の御所へ出で御う。

ごしゅえんすうこん  およ   きんじゅう ひとびとこれ  めしい   さる   おのおのすい  の    ときにそうしゅうもうされ  い
御酒宴數献に及ぶ。近習の人々之を召出だ被る。 各 醉に乘る。時于相州申被て云はく。

きんねんぶげい はい  て   じ たもん とも  ひしょく  さいげい   この    こと  ふ   すで  わがや のれい   わす をはんぬ  ひきょう  い     べ
近年武藝を癈し而、自他門A共に非職の才藝Bを好み。事に觸れ已に吾家之礼Cを忘れ訖。比興Dと謂ひつ可し。

しからば  きゅうば  げいは おっ  ため    え あ   べ
然者、弓馬の藝者追て試しの會有る可し。

ま    とうざ   をい  すまい  めしけっ  らる    しょうぶ  つ   かんぴ   ごさた あ   べ   のよし  うんぬん
先ず當座に於て相撲を召决せ被る。勝負に就き感否の御沙汰有る可し之由と云々。

しょうぐんけこと  ごじゅきょうあ
將軍家殊に御入興有り。

ここ  ある    ちくてん    ある    こじ せし    むつかもんのすけぶぎょう  な     とんぴのやから  をい  は  なが  めしつか  らる  べからざるのむね
爰に或ひは逐電し。或ひは固辞令む。陸奥掃部助奉行と爲し、遁避之輩に於て者、永く召仕へ被る不可之旨、

さいさんおお ふく      よっ    じうよやから なまじ  てあわ    およ    〔いしょう  てっせず〕
再三仰せ含めるに依て、十余輩 憖いに手合せに及ぶ〔衣裝を撤不〕

おさだひょうえたろう こう    みぎり めしいだされ しょうぶ   ぜひ   はん  もう    ふだい  すまいたる  よっ  なり
長田兵衛太郎候ずる砌に召出被、勝負の是非を判じ申す。譜代の相撲爲に依て也。

  いちばん〔ひだりもち〕  〔みぎ〕 とおとうみろくろうさえもんのじょう 〔みうら〕   こうづけじうろう 〔ゆうき〕
 一番〔左持〕〔右〕遠江六郎左衛門尉〔三浦〕 上野十郎〔結城〕

   にばん             おおすがさえもんしろう              はたののこじろう
 二番      大須賀左衛門四郎     波多野小次郎   

  さんばん〔ひだりもち〕  〔みぎ〕 しぶやのたろうさえもんのじょう         けんぎょうなかつかささぶろう
 三番〔左持〕〔右〕澁谷太郎左衛門尉     檢校中務三郎   

  よんばん〔ひだりかち〕  〔みぎ〕 たちばなのさつまよいち              ひごのいやとうじ
 四番〔左勝〕〔右〕橘薩摩余一        肥後弥藤次   

   ごばん〔ひだりかち〕  〔みぎ〕 ひろさわのよさ                    かとうさぶろう
 五番〔左勝〕〔右〕廣澤余三         加藤三郎   

  ろくばん〔ひだりもち〕  〔みぎ〕 ひたちにじろうひょうえのじょう            といのしろう
 六番〔左持〕〔右〕常陸次郎兵衛尉      土肥四郎

かちなら   もちは ごぜん  めされ  ぎょけん   ごい ら   たま     うんきゃくこれ  と
勝并びに持者御前に召被、御釼・御衣等を賜はる。雲客之を取る。

まけは たんぴ ろんぜず  たいき  もっ おのおのさけさんど  たま      ごいちもん  しょだいぶら  しゃく そうら   およ きょうあ   かんあ     とき  そうかんなり
負者堪否を論不、大器を以て 各 酒三度を給はる。御一門の諸大夫等杓に候う。凡そ興有り感有り。時の壯觀也。

参考@下若かじゃくは、酒。上林は、肴。
参考A自他門は、北条家と他の一族。
参考B
非職の才芸は、武士之職にない芸事。
参考C我が家の礼は、家に伝わる武芸の作法。
参考D比興は、鎌倉時代はよくないこと。江戸時代には面白い事。

現代語建長六年(1254)閏五月小一日壬寅。時頼さんが、酒や魚を持って御所へ来ました。宗尊親王将軍家は広の御所へお出ましです。酒宴で数杯飲んで、将軍の身の回り担当の連中を呼び出されました。皆酔っぱらいました。その時、時頼さんが云いだしました。「近頃は、武芸が廃れて、内でもよそでも武士の職に相応しくない芸を好んで、何かにつけて武家たる我が家に伝わる武家の作法を忘れしまっています。良くない事と云うべきでしょう。
そういう事で、馬上弓の芸を後日試しの会をやることにしました。差し当たって相撲の勝負をさせました。勝負によって将軍から褒美やお言葉をかけるようにしようとの事でした。宗尊親王将軍家は、特に興味を御持ちになりました。
そしたら、逃げ出したり、辞退したりしました。陸奥掃部助北条実時が指揮担当して、逃げ出した連中については、ずうーっとおそばに使はないと、何度も言い聞かせたので、十数人の連中がいやいや手合わせをしました〔衣装は着たままです〕。長田兵衛太郎は仕度した人々の脇に呼び出されて、勝負の勝ち負けを判定する行事をしました。先祖御代々の相撲名人だからです。
 一番〔左優性勝ち〕 〔右〕遠江六郎左衛門尉佐原時連  上野十郎結城朝村
 二番 (引き分け)    大須賀左衛門四郎朝氏    波多野小次郎定経
 三番〔左優性勝ち〕 〔右〕渋谷太郎左衛門尉武重    検校中務三郎
 四番〔左の勝ち〕  〔右〕橘薩摩余一         肥後弥藤次
 五番〔左の勝ち〕  〔右〕広沢余三          加藤三郎景綱
 六番〔左優性勝ち〕 〔右〕常陸次郎兵衛尉二階堂行雄  土肥四郎実綱
勝ちと優性勝ちは、将軍の前へ呼ばれて、刀や着物を褒美与えられました。公卿達がこれを手渡ししました。負けは、内容にこだわらず、大きな盃で酒を三杯飲まされました。北条氏の者が御酌をしました。とても面白くって将軍は大喜びです。近頃での壮観な出来事です。

建長六年(1254)閏五月小五日丙午。三種神苻御護事。去年五月五日當于壬午干支。令懸彼御護給訖。今月五日又爲丙午。重可有其沙汰歟之由。去比被仰遣京都之處。閏月事不可准恒例節之由云々。

読下し                     さんしゅしんぷ    おまも    こと  きょねん ごがついつか みずのえうま えと にあた     か   おまも    か   せし  たま をはんぬ
建長六年(1254)閏五月小五日丙午。三種神苻@の御護りの事、去年 五月五日 壬午の干支于當り、彼の御護りを懸け令め給ひ訖。

こんげついつか また ひのえうまたり
今月五日 又 丙午 爲。

かさ    そ    さた あ   べ   か のよし  さんぬ ころきょうと  おお  つか  さる のところ うるうづき  ことこうれい  せち  じゅん   べからず のよし うんぬん
重ねて其の沙汰有る可き歟之由、去る比京都へ仰せ遣は被る之處、閏月の事恒例の節に准ずる不可之由と云々。

参考@三種神苻は、43巻建長5年(1253)5月4日条に、一は、辟兵札。この札を掛けていれば、鉾や矢の難を逃れ、敵を滅ぼし、我が身に向って来る者は、自分から滅びてしまう。二は、破敵札。この札を掛けていれば、敵になる人があえて起きません。たとえ弓箭や刀剣の兵が我が身にむかってきても、害を与える事は有りません。すべて砕け散ってしまいます。三は、三台護身札。この札を掛けていれば、三つの災いと九つの病気などの難儀を取り除いてくれます。三つの災いとは、盗人に合う事・病気にかかる事・飢饉に出くわす事です。この三つの災難に合っても一切恐れる事はありません。皆全て消滅し除かれます。九つの難儀とは、色々な厄や難儀を除いてくれるのです。とある。

現代語建長六年(1254)閏五月小五日丙午。三種類の神様の札の御守について、去年の5月5日が壬午にあたったので、その御守を体に掛けて置きました。今月の5日もまた丙午です。もう一度やるべきかどうか、先達て京都へ聞かせたところ、閏月の事は、通常の節句に合わせるべきではないとのことだそうな。

建長六年(1254)閏五月小十一日壬子。奉公諸人面々可爲弓馬藝事之由。被仰出。今日爲陸奥掃部助。和泉前司行方。武藤少卿景頼等奉行。於御所中被觸廻之。相州内々令申行給之故也。於馬塲殿。連日可有遠笠懸小笠懸。御所内々可令射給之由云々。

読下し                       ほうこう  しょにん  めんめん  きゅうば  げい  こと  な   べ   のよし  おお  いださる
建長六年(1254)閏五月小十一日壬子。奉公の諸人、面々に弓馬の藝を事と爲す可き之由、仰せ出被る。

きょう   むつかもんのすけ  いずみのぜんじゆきかた  むとうしょうけいかげよりら ぶぎょう  な     ごしょちゅう  をい  これ  ふれめぐらさ
今日、陸奥掃部助・和泉前司行方・武藤少卿景頼等奉行と爲し、御所中に於て之を觸廻被る。

そうしゅうないない もう  おこな せし  たま  のゆえなり   ばばどの  をい   れんじつとおがさがけ こがさがけ あ   べ
相州 内々に申し行は令め給ふ之故也。馬塲殿に於て、連日遠笠懸・小笠懸有る可し。

ごしょないない    い せし  たま  べ   のよし   うんぬん
御所内々@に射令め給ふ可き之由と云々。

参考@御所内々は、將軍も内々で。射せしめ。

現代語建長六年(1254)閏五月小十一日壬子。将軍の身の回りに勤める者は、それぞれに馬上弓の芸を本文としなさいと、云いだしました。今日、陸奥掃部助北条実時・和泉前司二階堂行方・武藤少卿景頼が指揮担当して、御所中でこれを云い伝えました。時頼さんが、内々に命じたからなのです。馬場殿で連日、遠笠懸や小笠懸がありました。御所も内々で射たそうです。

六月へ

吾妻鏡入門第四十四巻

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