吾妻鏡入門第四十八巻  

正嘉二年(1258)二月大

正嘉二年(1258)二月大八日戊子。若宮御影御正躰等遷御云々。

読下し                   わかみや  みえい  みしょうたいら かんご    うんぬん
正嘉二年(1258)二月大八日戊子。若宮の御影@・御正躰等遷御すと云々。

参考@御影は、建長三年時頼奉納の僧形八幡神像と思われるが、御正躰は、鏡か仏像か?

現代語正嘉二年(1258)二月大八日戊子。鶴岡八幡宮の僧形八幡神の絵象と御正躰(鏡?)をお移ししましたとさ。

正嘉二年(1258)二月大十三日癸巳。リ陰不定。今日。奉爲故中武州十三年御追福。於最明寺被始行七ケ日五種行。相州禪室爲法主。殊令致丁寧給云々。

読下し                    せいいん さだ    ざる   きょう   こなかぶしゅう じゅうさんねんごついぶく おほんため
正嘉二年(1258)二月大十三日癸巳。リ陰@定まら不。今日、故中武州Aの十三年御追福の奉爲、

さいみょうじ をい  なぬかにち  ごしゅぎょう  しぎょうさる   そうしゅうぜんしつ ほうしゅ  な     こと  ていねい いたせし  たま    うんぬん
最明寺に於て七ケ日の五種行を始行被る。相州禪室 法主と爲し、殊に丁寧に致令め給ふと云々。

参考@晴陰は、通常「陰晴」と書かれる。
参考A
中武州は、経時を指す。前武州泰時と後武州時頼の間だからであろう。吾妻鏡ではこの一語である。但し若狭国守護式次第に書かれているそうな。同様の言葉で建武の頃に、鎌倉北条氏を先代とするので、時行の乱を「中先代の乱」と呼んだ。経時の死亡は37巻寛元四年(1246)閏四月一日である。

現代語正嘉二年(1258)二月大十三日癸巳。晴れか曇りか曖昧です。今日、古中武州経時の13回忌の法事のために、最明寺で7日間の5種類のお経を始めました。相州禅室時頼が主催者として、特に丁重に執行しましたとさ。

正嘉二年(1258)二月大十八日戊戌。リ。勝長壽院諸堂塔婆柱立也。武藏前司朝直朝臣被監臨云々。

読下し                     はれ しょうちょうじゅいん しょどう  とうば  はしらだ  なり  むさしのぜんじともなおあそん かんりんさる    うんぬん

正嘉二年(1258)二月大十八日戊戌。リ。勝長壽院の諸堂・塔婆の柱立て@也。武藏前司朝直朝臣 監臨被ると云々。

参考@柱立は、通常「立柱上棟」と使う。

現代語正嘉二年(1258)二月大十八日戊戌。晴れです。勝長寿院の諸堂や三重塔の立柱上棟式です。武蔵前司大仏朝直さんが立ち会いましたとさ。

正嘉二年(1258)二月大十九日己亥。霽。最明寺五種行今日結願。導師信承法印。被供養普賢菩薩并法花經二部。内一部者灑聖靈遺札。爲眞文料紙。第一巻者。法主手自書寫給之。已下七巻者。課習弘誓院亞相家手跡之輩。故以被終其功。是則云法主云聖靈。縁令好彼風情給之故也。唱導言語詳而委述其旨趣。結縁緇素皆嗚咽云々。
 C和天皇崩御之後。東御息所御戀慕悲歎之餘。灑朝夕所被進之數百合 勅書。被書寫若干大小乘經。橘贈納言 廣相草御願文。載同心契變蓮花偈。匪石詞入鑁字門云句云々。薄墨色紙經始例於此時。古今雖事異。其志已相同乎。

読下し                     はれ さいみょうじ  ごしゅぎょう きょう けちがん    どうし  しんしょうほういん
正嘉二年(1258)二月大十九日己亥。霽。最明寺の五種行今日結願す。導師は信承法印。

ふけんぼさつ なら    ほけきょう にぶ    くよう さる    うちいちぶは しょうりょう  いさつ  す     しんぶん  りょうしたり
普賢菩薩并びに法花經二部を供養被る。内一部者聖靈@の遺札Aを灑く。眞文の料紙爲。

だいいっかんは ほうしゅ  てづか  これ  か   うつ  たま
第一巻者、法主B手自ら之を書き寫し給ふ。

 いげ  しちかんは   ぐぜいいん あそう け しゅせき なら  のやから おは   ことさら もっ  そ   こう  おえらる
已下の七巻者、弘誓院亞相C家手跡を習う之輩に課せ、故に以て其の功を終被る。

これすなは ほうしゅ い  しょうりょう い      か  ふぜい   この  せし  たま  と   のゆえなり
是則ち法主と云ひ聖靈と云ひ、彼の風情を好ま令め給ひ縁る之故也。

しょうどう  げんご つまんびら    て そ   ししゅ  くわ    の       けちえん のうそ   みなおえつ   うんぬん
唱導の言語 詳かにし而其の旨趣を委しく述べる。結縁の緇素D、皆嗚咽すと云々。

 C和天皇崩御之後、東の御息所E御戀慕悲歎之餘り、朝夕 進ぜ被る所之數百合の勅書を灑きて、

  そこばく だいしょうじょうきょう か  うつさる
 若干の大小乘經を書き寫被る。

  たちばなぞうなごんひろすけ ごがんもん  そう     どうしんきつへんれんげぐ  ひせきしにゅうばんじもん  い   く   のせ    うんぬん
  橘 贈F納言廣相 御願文を草し、同心契變蓮花偈・匪石詞入鑁字門と云う句を載ると云々。

  うすずみしきしきょう  れいを こ  とき  はじ       ここんことこと      いへど    そ こころざし すで あいおな  と
 薄墨色紙經は例於此の時に始むる。古今事異なると雖も、其の 志 已に相同じ乎。

参考@聖霊は、死者の事で、ここでは経時を指す。
参考A遺札は、経時が書いた紙片。一度使った紙を梳き直した紙を宿紙と云う。黄色っぽくなるので黄紙とも云う。天皇家の勅や院宣は黄紙を使う。
参考B法主は、法事主催者でここでは時頼を指す。
参考弘誓院は、京都市上京区長門町の弘誓寺。この頃、書道には弘誓院流と青蓮院流とがあった。江戸時代に幕府は青蓮院流を採用したので「お家流」との云う。経時・時頼は弘誓院流が好きだったようだ。
参考C亜相は、宰相に次ぐ・大臣に次ぐの意味で「大納言」。九条教家で、良経の次男で道家の弟。書家としてすぐれ弘誓院流を確立する。
参考D緇素は、緇(黒い着物)素(白い着物)の意味で坊主も庶民も(出家も在家も)。
参考E清和天皇の御息所は、高子(たかいこ)で美人。藤原良房の娘で良く外出する癖があり、在原業平と恋仲だった頃もあるそうな。
参考Fは、死後に送られた官位。

現代語正嘉二年(1258)二月大十九日己亥。晴れました。最明寺での5種類のお経の満願の日です。指導僧は信承法印です。普賢菩薩のお経と法華経二部を捧げました。その内一部は、無くなった教時さん自筆の紙を梳きなおしました。これが真の黄紙と云えるでしょう。一巻は主催者みずからこれを書き写しました。残りの七巻は、弘誓院大納言九条教家の弘誓院流を習っている連中に命令して課役させ、無理やりそれを完成させました。
これはもう、主催者と云い、供養される霊と云い、その弘誓院流を好んでいるからなのです。お経の言葉ははっきりしとしていて、その目的を詳しく説明しました。仏縁を結ぼうと集まった人々は皆、有難さのあまり嗚咽する有様だったんだとさ。
 清和天皇が崩御された後、東の御息所高子さまは悲観されて、朝夕戴いていた沢山のお手紙を梳きなおして、沢山の大乗経・小乗経を書き写されました。
 橘広相さんが願い文を下書きして、同心契変蓮華偈・
匪石詞入鑁字門と云う漢詩を載せたんだそうな。
 梳きなおした紙に経を書く薄墨色紙経はこの時から始まったのです。今と昔は違うかもしれないが、その志はもう同じなのです。

  せいわてんのうほうぎょ ののち ひがし みやすどころ ごれんぼひかん のあま   ちょうせき しん  らる  ところのすうひゃくごう ちょくしょ す

参考後文の例え話には、物知り顔の貞顕が想像される。

正嘉二年(1258)二月大廿五日乙巳。霽。將軍家二所御精進始。爲浴潮御。申尅御濱出〔御水干〕。土御門中納言〔水干〕。武州。相摸太郎殿。武藏前司朝直。左近大夫將監公時。陸奥七郎業時。修理亮久時〔嶋津〕。攝津權守等供奉。

読下し                     はれ しょうぐんけ にしょ  ごしょうじんはじ   うしお よく  たま    ため さるのこく おんはまいで 〔ごすいかん〕
正嘉二年(1258)二月大廿五日乙巳。霽。將軍家二所@の御精進始め。潮に浴し御はん爲、申尅に御濱出〔御水干〕

つちみかどちゅうなごん 〔すいかん〕  ぶしゅう  さがみたろうどの  むさしのぜんじともなお さこんのたいふしょうげんきんとき  むつのしちろうなりとき  しゅりのすけひさとき 〔しまづ〕
土御門中納言〔水干〕・武州・相摸太郎殿・武藏前司朝直・ 左近大夫將監公時・ 陸奥七郎業時・ 修理亮久時〔嶋津〕・

せっつのごんのかみら ぐぶ
 攝津權守等 供奉す。

参考@二所は、二所詣でといって箱根權現と伊豆山權現の二箇所に詣でる。必ず三島神社にも詣でる。皆、頼朝が平家討伐を祈願した神社。

現代語正嘉二年(1258)二月大二十五日乙巳。晴れました。宗尊親王将軍家は、二所詣での精進潔斎を始めました。塩水でも沐浴のために、午後4時頃浜へお出ましです〔水干〕。土御門中納言顕方〔水干〕・武州長時・相模太郎北条時宗殿・武蔵前司大仏朝直・左近大夫将監名越公時・陸奥七郎北条堯時・修理亮島津久時・摂津権守中原師員がお供です。

正嘉二年(1258)二月大廿八日戊申。リ。將軍家御濱出〔中御塩〕。」今日有評議。將軍家明年可有御上洛事也。仍可存知其旨之由。觸仰諸國御家人等云々。

読下し                     はれ しょうぐんけおんはまいで 〔なか みしお〕
正嘉二年(1258)二月大廿八日戊申。リ。將軍家御濱出@〔中の御塩A〕。」

きょう  ひょうぎあ    しょうぐんけみょうねんごじょうらく  ことあ   べ   なり  よっ  そ   むね  ぞんちすべ  のよし  しょこく   ごけにんら   ふれおお   うんぬん
今日、評議有り。將軍家明年御上洛の事有る可き也。仍て其の旨を存知可きB之由、諸國の御家人等に觸仰すと云々。

参考@濱出は、精進潔斎の禊(みそぎ)。
参考A中の御塩は、伊弉諾が禊(みそぎ)をした時に、上の汐・中の汐・下の汐と3×3やった内の中断の海水。
参考B上洛を存知すべきは、東海道に領地を持つものは、協力しなければならない。

現代語正嘉二年(1258)二月大二十八日戊申。晴れです。宗尊親王将軍家沐浴に浜へお出ましです〔中の潮でみそぎ〕。
今日、政務会議がありました。宗尊親王将軍家が来年上洛することになりました。そこで、その事を承知しておくように、東海道に領地をもつ御家人に知らせましたとさ。

三月へ

吾妻鏡入門第四十八巻  

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