正嘉二年(1258)九月小
正嘉二年(1258)九月小二日戊申。終日終夜雨降。暴風殊甚。今日。諏方刑部左衛門入道所被梟罪也。此主從共以遂不進分明白状。爰相州禪室被廻賢慮。以無人之時。潜召入諏方一人於御所。直被仰含曰。被殺害事被思食之上。所從高太郎承伏勿論之間。難遁斬刑之旨。評議畢。然而忽以不可終其身命之條。殊以不便也。任實正可申之。就其詞加斟酌。欲相扶之云々。于時諏方且喜抑涙。果宿意之由申之。禪室御仁惠雖相同于夏禹泣罪之志。所犯既究之間。不被行之者。依難禁天下之非違。令糺断給云々。又平内左衛門尉。牧左衛門入道等流刑。就中俊職爲公人与此巨悪之條。殊背物義之間。被配流硫黄嶋云々。治承比者。祖父康頼流此嶋。正嘉今。又孫子俊職配同所。寔是可謂一業所感歟。 |
読下し しゅうじつしゅうや
あめふ ぼうふうこと はなはだ きょう すわぎょうぶさえもんにゅうどう きょうざいさる ところなり
正嘉二年(1258)九月小二日戊申。終日終夜雨降る。暴風殊に甚し。今日、諏方刑部左衛門入道梟罪被る所也。
こ しゅじゅうとも もっ つい ぶんみょう はくじょう しんぜず
此の主從共に以て遂に分明の白状を進不。
ここ そうしゅうぜんしつけんりょ めぐ
され むじん のとき もっ ひそか すわ ひとりを ごしょ めしいれ じき おお ふく られ い
爰に相州禪室賢慮を廻ら被、無人之時を以て、潜に諏方一人於御所へ召入、直に仰せ含め被て曰はく。
せちがいさる ことおぼ め さる のうえ しょじゅうこうたろうしょうぶく
もちろんのあいだ ざんけい のが がた のむね ひょうぎ をはんぬ
殺害被る事思し食被る之上、所從高太郎承伏 勿論之間、斬刑を遁れ難き之旨、評議し畢。
しか て たちま もっ そ しんめい しま べからずのじょう こと もっ ふびんなり じっしょう まか これ もう べき
然り而、忽ち以て其の身命を終う不可之條、殊に以て不便也。實正に任せ之を申す可。
そ ことば つ しんしゃく くは これ あいたす ほっ うんぬん
其の詞に就き斟酌を加へ、之を相扶けんと欲すと云々。
ときに すわ かつう よろこ
なみだ おさ すくい はた のよしこれ もう
時于諏方、且は喜びの涙を抑へ。宿意を果す之由之を申す。
ぜんしつ ごじんえ かと きゅうさいのここころざしに おな いへど おか ところすで きは
のあいだ これ おこなはずん ば
禪室が御仁惠、夏禹泣罪之 志 于相同じと雖も、犯す所既に究める之間、之を行被不ん者、
てんか の ひい
きん がた よっ きゅうだんせし たま うんぬん
天下之非違を禁じ難きに依て、糺断令め給ふと云々。
また へいないさえもんのじょう まきさえもんにゅどうら るけい
又、平内左衛門尉・牧左衛門入道等流刑す。
なかんづくこ としもと こうじんたる こ こあく くみ のじょう こと ぶつぎ
そむ のあいだ いおうじま はいるさる うんぬん
就中に 俊職は公人爲に此の巨悪に与する之條、殊に物義に背く之間、硫黄嶋へ配流被ると云々。
じしょう ころは
そふ やすより こ しま なが しょうか いま また まご としもとどうしょ はい まこと これ いちぎょうしょかん い べ か
治承の比者、祖父康頼此の嶋に流れ、正嘉の今、又孫子俊職同所へ配す。寔に是、一業所感と謂ひつ可き歟。
現代語正嘉二年(1258)九月小二日戊申。一日中雨降りです。暴風が特に激しいです。今日、諏訪刑部左衛門入道は、処刑されました。この主人も家来もついにちゃんと白状を提出しませんでした。
実は、相州禅室時頼さんは、知恵をめぐらして、人の居ない時をねらって、内緒で諏方入道一人だけを御所へ呼び込んで、直接云って聞かせました。
「お主が殺害したと思っているので、家来の高太郎が自白したことは勿論なので、死刑は免れられないと、会議で決まりました。しかしながら、なんでかんで、その命を全うできない事は、とても気の毒だと思っている。事実に基づいて云っているのです。しかし、その結果に情状酌量の余地があると云い聞かせて、なんとか助けようと思っているのだが。」とのことでした。
そしたら、諏訪は、喜びの涙を浮かべながら、「今迄の恨み・落とし前を果たしたのです。」と云いました。
時頼さんの御成敗は、中国の皇帝の「部下の罪は主人の罪でもある」と云う志と同じようですが、既に犯行が立証されたのですから、刑罰を実行しないならば、天下の法による良し悪しを政治出来ないので、刑の執行をさせたのです。
また、平内左衛門尉俊職と牧左衛門入道は流罪にしました。中でも、俊職は公の役職に付いていながら、この悪だくみに加担したことは、特に道理に叛いているので、一番きつい硫黄島への流罪としました。治承年間に鹿ケ谷事件で、祖父の康頼は硫黄島へ流され、正嘉の今、同様に孫の俊職が同じ島へ流される。じつにこれは、因縁があったということでしょうかねえー。
参考夏兎は、中国の皇帝が部下の罪は主人の罪とした話によっている。諏訪はおそらく得宗被官だと思われるので、時頼は本当に助けようと思ったのだろうが、法律上やむを得ず、諏訪を処断したのだと思われる。
参考硫黄嶋は、平家物語の鬼界島。
参考祖父康頼は、成経・俊寛と共に清盛に流された。
参考孫子は、まご。
正嘉二年(1258)九月小廿一日丁夘。諸國悪黨依有蜂起之聞。殊可被竭警巡誠之趣。日來被經群議畢。今日被下御教書於諸國守護人。其詞云。 |
読下し しょこく あくとう
ほうき の きこ あ よっ こと けいじゅん まこと
つくさる べ のおもむき ひごろぐんぎ へられをはんぬ
正嘉二年(1258)九月小廿一日丁夘。諸國の悪黨、蜂起之聞へ有るに依て、殊に警巡の誠を竭被る可き之趣、日來群議を經被畢。
きょう みぎょうしょ
を しょこく しゅごにん くださる そ ことば い
今日、御教書@於諸國守護人へ下被る。其の詞に云はく。
くにぐに あくとう
けいご こと
國々の悪黨警固Aの事
みぎ くにぐに あくとう
ほうき せし ようち ごうとうさんぞくかいぞく くはだ のよし そ きこ あ ろうるい のはなは いましめず べからず
右、國々の悪黨蜂起令め、夜討強盜山賊海賊を企つ之由其の聞へ有り。狠唳之甚しきは、誡不はある不可。
み
かく ききかく べからず のよし たびたびおお くだされをはんぬ そうそう けいご くは べ なり じっぱんのやから をい は そ み めししんぜし べ
見隱し聞隱す不可之由、度々仰せ下被 畢。 早々に警固を加う可き也。實犯之族に於て者、其の身を召進令む可し。
かつう けんもんせいか のりょうたり いへど しゅごにん げち
そむ あくとう つかま お をい は ちゅう もう べ そ とが おこなは べ なり
且は、權門勢家之領爲と雖も、守護人の下知に背き、悪黨を拘へ惜むBに於て者注し申す可き。其の科に行被る可き也。
こ むね もっ そ くにじゅう ふれまわ さた いたせし べ のじょう おお よっ しったつくだん ごと
此の旨を以て其の國中に觸廻り、沙汰致令む可き之状、仰せに依て執達件の如し。
しょうかにねんくがつにじゅういちにち むさしのかみ
正嘉二年九月廿一日 武藏守
さがみのかみ
相摸守
ぼうどの
某殿
参考@御教書は、文頭に「○○の事」と書き、文末に「執達件の如し」と書くのが、将軍家御教書の形。
参考A悪党警固は、悪党から警護する。
参考B拘へ惜むは、出し惜しみをしている。
解説悪党は、時頼・北条時宗の時代は、悪党前期で貧乏で尾羽打ち枯らした社旗秩序からはみ出した連中。貞時・高時の時代は、悪党中期できらびやかな馬などを持っている。南北朝内乱の悪党末期には、それぞれの兵士として互いに敵方を悪党と云っている。
現代語正嘉二年(1258)九月大二十一日丁宇。諸国で、はみ出し者の悪党が頻発していると噂が入って来ているので、特に警戒巡視をちゃんと実施するようにと、近頃会議でけっていしました。今日、将軍からの命令書を諸国の守護人へ発給しました。その内容は
それぞれの国で、悪党から庶民を警護する事
右の旨は、諸国で悪党が頻発し、夜討・強盗・山賊・海賊になっているのと聞いている。悪い連中の行動は戒めないわけにはいかない。見ないふりをしたり聞かないふりをしないように、何度も命令を出していまます。早く成敗をするべきである。犯人を捕まえた場合は、その身柄を捕えなさい。たとえ、権力者や貴族の領地であっても、守護人の命令に背いて、悪党を出し惜しみしていたら、書面に書き出し送りなさい。その罰を実行します。この内容で、担当の国中に知らせて、処分するように、将軍の命令を書いたのはこの通りです。
正嘉2年8月20日 武蔵守長時 相模守政村
どなた様へも
正嘉二年(1258)九月小廿九日乙亥。於御所。惜九月盡。有當座和歌御會云々。 |
読下し ごしょ をい くがつ お つく とうざ わか おんえあ うんぬん
正嘉二年(1258)九月小廿九日乙亥。御所に於て、九月を惜み盡し、當座の和歌の御會有りと云々。
現代語正嘉二年(1258)九月大二十九日乙亥。御所で、九月(秋の過ぎゆくの)を惜しんで、今日の日を題材に和歌の会がありましたとさ。