吾妻鏡入門第五十二巻

文永二年(1265)九月大

文永二年(1265)九月大一日丙申。陰。日中小雨降。今日辰刻。御息所有御産氣。群參人々不知其數。被行御占。或指申申酉剋。或可爲亥子剋之由申之。而頃之無御産氣。始如常時云々。仍諸人退出。縫殿頭師連。式部太郎左衛門尉光政等奉行此間事。光政輕服之間行有奉之處。亦服暇出來。而光政輕服日數馳過之間。如元所奉行也。

読下し                   くも    にちゅう こさめ ふ    きょう  たつのこく みやすんどころ ごさんけ あ    ぐんさん ひとびと そ  かす  しらず
文永二年(1265)九月大一日丙申。陰り。日中小雨降る。今日の辰刻、御息所御産氣有り。群參の人々其の數を不知。

 みうら  おこなはれ   ある   さるとり  こく  さしもう    ある    い ね   こくたるべ   のよしこれ  もう
御占を行被る。或ひは申酉の剋を指申す。或ひは亥子の剋爲可き之由之を申す。

しか  ころの  ごさんけ な    はじ    つね  とき  ごと    うんぬん  よっ  しょにんたいしゅつ
而る頃之御産氣無し。始めの常の時の如しと云々。仍て諸人退出す。

ぬいどののとうもろつら しきぶのたろうさえもんのじょうみつまさら  こ  あいだ こと  ぶぎょう
 縫殿頭師連・式部太郎左衛門尉光政等此の間の事を奉行す。

みつまさきょうぶくのあいだ ゆきありたてまつ のところ  まらふくか いできた
光政 輕服之間 行有 奉る之處、亦服暇出來る。

しか    みつまさきょうぶく にっすう  はせす     のあいだ  もと  ごと  ぶぎょう   ところなり
而して光政輕服の日數が馳過ぐる之間、元の如く奉行する所也。

参考輕服は、女房の七日等。重服は直径の目上の人など。

現代語文永二年(1265)九月大一日丙申。曇りです。日中に小雨が降りました。今日の午前八時頃に将軍の奥さんの産気があり、群れ集まった人は数えきれません。出産の時を占いました。ある人は午後四時から六時頃だと云い、ある人は午後十時から十二時になるだろうと云ってます。しかしその時間になっても産気はありません。最初の普段の時と同じ容態だそうです。それなので皆さん帰りました。縫殿頭中原師連と式部太郎左衛門尉伊賀光政がこの出来事の指揮担当をしました。光政は軽い喪に服しているので、二階堂行有が変わろうとしたが、やはり喪に服す事が出来てしまいました。それなので、光政は喪に服す日数が過ぎたので、元の様に指揮担当をしたのでした。

文永二年(1265)九月大廿一日丙辰。晩雨降。今日寅剋有御産氣。辰剋姫宮誕生。御驗者松殿僧正。安祥寺僧正尊家法印(良瑜?)。醫師長世朝臣。御秡リ茂〔束帶〕宣賢 業昌 リ長 リ秀 リ宗 泰房〔已上衣冠〕也。先陰陽師七人。自座上次第賜例祿〔白綾衣各一領〕。次御驗者三人。御衣〔重衣〕。御馬一疋〔侍六人着立烏帽子直垂引之〕。次長世朝臣於公卿御座之傍給御衣。八條三位取之。陰陽權助リ茂朝臣於同所給御衣。左近大夫將監公時役之。

読下し                     ばん  あめふ     きょう  とらのこく ごさんけ あ   たつのこくひめみやたんじょう
文永二年(1265)九月大廿一日丙辰。晩に雨降る。今日の寅剋御産氣有り。辰剋姫宮@誕生す。

 ごげんざ  まつどのそうじょう あんじょうじそうじょうそんけほういん  くすし  ながよあそん
御驗者は松殿僧正・安祥寺僧正尊家法印A。醫師は長世朝臣。

おんはら   はるしげ 〔そくたい〕 のぶかた  なりまさ  はるなが  はるひで   はるむね  やすふさ 〔いじょう いかん〕 なり
御秡へはリ茂〔束帶〕宣賢・業昌・リ長・リ秀・リ宗・泰房〔已上衣冠〕也。

ま  おんみょうじしちにん  ざじょうしだい  よ   れい  ろく 〔いろあやころもおのおのいちりょう〕  たま
先ず陰陽師七人、座上次第Bに自り例の祿〔白綾 衣 各 一領〕を賜はる。

つい  ごげんざ さんにん    おんぞ  〔ちょうい〕  おんうまいっぴき 〔さむらいろくにん  たてえぼし ひたたれ  き   これ  ひ  〕
次で御驗者三人は、御衣C〔重衣〕・御馬一疋〔 侍 六人が立烏帽子直垂を着て之を引く〕

つい  ながよあそん  くげ  おんざのかたわら  をい  おんぞ  たま     はちじょうさんみこれ  と
次で長世朝臣公卿の御座之傍に於て御衣を給はる。八條三位D之を取る。

おんみょうごんのすけはるしげあそん どうしょ  をい おんぞ   たま    さこんのたいふしょうげんきんときこれ  えき
 陰陽權助リ茂朝臣 同所に於て御衣を給はる。左近大夫將監公時之を役す。

参考@姫宮は、掄子女王(りんしおおきみ)。
参考A
安祥寺僧正尊家法印は、安祥寺僧正
瑜の間違いではなかろうか?
参考B
座上次第は、座席順に。
参考C御衣(おんぞ)は、「ごい」と発音し五衣とも書く。
参考D
八條三位は、不明。

現代語文永二年(1265)九月大二十一日丙辰。夜になって雨が降りました。今日の午前四時頃に産気づいて、午前八時頃に姫宮様が誕生しました。加持祈祷は松殿僧正良基と安祥寺僧正尊家法印で、医者は丹波長世さんです。お払いは、安倍晴茂〔束帯〕、宣賢、業昌、晴長、晴秀、晴宗、泰房〔以上は衣冠〕です。
まず、陰陽師七人は、座席順に従って何時もの褒美〔白の綾織の着物一着〕を与えられました。
次に、加持祈祷の修験者三人は、将軍からの着物〔裏付〕と馬一頭〔侍六人が立烏帽子に鎧直垂を着てこれを引いて来ました〕。
次に、医者の丹波長世さんは公家の座席の横で将軍からの着物を与えられました。八条三位が手渡しました。
陰陽権助晴茂さんは、同じ場所で将軍からの着物を戴きました。尾張左近大夫将監名越公時がこれを渡しました。

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