寛喜三年辛卯(1231)六月小
寛喜三年(1231)六月小一日丙辰。霽。武州御違例事復本給。午剋御沐浴云々。 |
読下し はれ ぶしゅう
ごいれい こと ふくほん たま うまのこく おんもくよく
うんぬん
寛喜三年(1231)六月小一日丙辰。霽。武州が御違例の事、復本し給ふ。午剋
御沐浴と云々。
現代語寛喜三年(1231)六月小一日丙辰。晴れました。泰時さんの病気が治りました。昼頃に病の穢れを洗い落とす沐浴をしましたとさ。
寛喜三年(1231)六月小六日辛酉。海路往反船。或漂渕。或遭難風。自然被吹寄之處。所々地頭等号寄船。無左右押取之由。依有其聞。雖爲先例。諸人之歎也。自今以後。可停止之由。可被仰遣諸國之旨。今日及評儀云々。 |
読下し かいろ
おうはん ふね ある ふち ただよ ある
なんぷう あ じねん ふ よ
られ のところ
寛喜三年(1231)六月小六日辛酉。海路往反の船、或ひは渕に漂い、或ひは難風@に遭い、自然にA吹き寄せ被る之處、
しょしょ
ぢとう ら よせぶね ごう そう な お と のよし
そ きこ あ よっ せんれいたり いへど しょにんの
なげ なり
所々の地頭等寄船と号し、左右無く押し取る之由、其の聞へ有るに依て、先例爲と雖も、諸人之歎き也。
いまよ いご ちょうじすべ のよし しょこく おお
つか さる べ のむね きょう
ひょうぎ およ うんぬん
今自り以後、停止可き之由、諸國へ仰せ遣は被る可き之旨、今日評儀に及ぶと云々。
参考@難風は、船の航行を困難ならしめる暴風。
参考A自然には、心ならずも。
現代語寛喜三年(1231)六月小六日辛酉。海運の船が、ある時は浦の淵を辿ったり、或る時は暴風に合ったりして、心ならずも予定外の場所へ着いてしまった時に、あちこちの地頭は、寄港船だと言って、理由もなく差し押さえてしまうと耳に入って来るので、先例はあっても、運航者にとってつらく悲しい負担である。今から以後は、止めるように諸国へ命令を出そうと、検討しましたとさ。
余談廻船式目が、貞応二年(1223)義時制定の奥書があるが、室町時代の文字が入っているので、実際には室町末期の慣習法らしい。
寛喜三年(1231)六月小十五日庚午。リ。戌剋。於由比浦鳥居前。被行風伯祭。前大膳亮泰貞朝臣奉仕之。祭文者法橋圓全奉仰草之。是於關東。雖無其例。自去月中旬比。南風頻吹。日夜不休止。爲彼御祈。武州令申行給之。將軍家御使色部進平内云々。武州御使神山弥三郎義茂也。今年於京都。被行此御祭之由。有其聞。在親朝臣勤行云々。 |
読下し はれ
いぬのこく ゆいのうら とりい まえ をい ふうはくさい おこなはれ
寛喜三年(1231)六月小十五日庚午。リ。戌剋、由比浦の鳥居の前@に於て、風伯祭Aを行被る。
さきのだいぜんりょう
やすさだあそん これ ほうし さいぶんは ほっきょうぜんえん
おお うけたまは これ そう
前大膳亮 泰貞朝臣
之を奉仕す。祭文者、
法橋圓全B 仰せを奉り之を草す。
これかんとう をい そ れい
な いへど さんぬ つき ちうじゅん ころよ みなみかぜしき ふ にちやきゅうしせず
是關東に於て、其の例無きと雖も、去る月
中旬の比自り、南風頻りに吹き、日夜休止不。
か おんいの ため
ぶしゅうこれ もう おこな せし たま
彼の御祈りの爲、武州之を申し行は令め給ふ。
しょうぐんけ おんし いろべのしんへいない うんぬん ぶしゅう おんし こうやまいやさぶろうよしもち
なり
將軍家の御使は
色部進平内Cと云々。武州の御使は神山弥三郎義茂D也。
ことし きょうと をい かく おまつり
おこなはれ のよし そ きこ あ ありちかあそん
ごんぎょう うんぬん
今年京都に於て、此の御祭を行被る之由、其の聞へ有り。在親朝臣E勤行すと云々。
参考@由比浦の鳥居の前は、鎌倉市由比ガ浜二丁目3−2地先で発掘された鳥居跡と思われるので、この辺りまで浦が入り込んでいたと推理されている。
参考A風伯祭は、鎌倉では初めて。風の神を祀って豊年を祈願する。
参考B法橋圓全は、式目執筆者の一人。
参考C色部進平内は、越後奥山庄内。色部氏は、戦国時代には上杉の重臣として、岩船郡小泉庄平林村の平林城主となる。
参考D神山弥三郎義茂は、駿河。現静岡県御殿場市神山。後に大森氏となり、小田原に居城する。
参考E在親朝臣は、賀茂氏。京都では彼が勤めた。
現代語寛喜三年(1231)六月小十五日庚午。晴れです。午後八時頃、由比浦の鳥居の前で、風の神に豊年を祈る風伯祭を行いました。前大膳亮安陪泰貞が勤めました。神にささげる文句は、法橋円全が命じられて草案しました。この儀式は関東では、今まで例がないけれど、先月中旬から南風が盛んに吹いて、日夜休みなしです。この祈りのために、泰時さんがこれを提案してやらせたのです。将軍頼経様の代参は色部進平内だそうな。泰時さんの代参は神山弥三郎義茂です。今年、京都でこの儀式を行ったと聞いたからです。京都では賀茂在親さんが勤めたそうです。
寛喜三年(1231)六月小十六日辛未。霽。今日風靜。去夜風伯祭効驗之由。有其沙汰。泰貞朝臣賜御釼等云々。 |
読下し はれ きょう かぜしず さんぬ よ
ふうはくさい こうけんの よし そ さた あ
寛喜三年(1231)六月小十六日辛未。霽。今日風靜か。去る夜の風伯祭の効驗之由、其の沙汰有り。
やすさだあそん
ぎょけんら たま うんぬん
泰貞朝臣
御釼等を賜はると云々。
現代語寛喜三年(1231)六月小十六日辛未。晴れました。今日は風が静かです。夕べの風の神への風伯祭の効果が出たようだと、決定しました。泰貞さんは褒美に刀を与えられましたとさ
寛喜三年(1231)六月小廿二日丁丑。高野法印〔貞曉〕去二月廿二日被入滅訖。其遺跡被奉讓補内府〔實氏公〕若公由。相副文書等。被申送武州之間。彼領掌任讓状不可有相違之旨。今日有評定。被成御下知。是備中國多氣。巨勢兩庄。和泉國長家庄。伊勢國三ケ山々田野庄等也。 |
読下し こうやほういん 〔
ていぎょう 〕 さんぬ にがつにじうににち
にゅうめつ され をはんぬ
寛喜三年(1231)六月小廿二日丁丑。高野法印〔貞曉@〕去る
二月廿二日 入滅 被 訖。
そ ゆいせき ないふ 〔さねうじこう〕 わかぎみ じょうぶ たてまつられ よし もんじょら あいそ ぶしゅう もう おくらる のあいだ
其の遺跡は、内府〔實氏公〕の若公に讓補し奉被るの由、文書等を相副へ、武州に申し送被る之間、
か りょうしょう
ゆずりじょう まか そうい あ べからずのむね きょう
ひょうじょう あ おんげち なさる
彼の領掌
讓状 に任せ相違有る不可之旨、今日 評定
有りて、御下知を成被る。
これ びっちゅうのくに たけ こせ りょうしょう いずみのくに ながやのしょう いせのくに みかやま
やまだのしょう ら
なり
是、 備中國
多氣A、巨勢Bの兩庄。和泉國 長家庄C。 伊勢國
三ケ山D、々田野庄E等也。
参考@貞曉は、頼朝の子。三月九日条参照。
参考A多氣は、岡山県加賀郡吉備中央町竹荘。
参考B巨勢は、岡山県高梁市巨瀬町。
参考C長家庄は、不明。
参考D三ケ山は、三重県津市白山町三ケ野。
参考E山田野庄は、三重県津市白山町山田野。
現代語寛喜三年(1231)六月小二十二日丁丑。高野山の法印貞暁が、先日の2月22日に亡くなられたそうです。その遺産は内大臣西園寺実氏様のお子様に譲渡し任命されるようにと、譲り状などの文書を添えて、武州北条泰時さんに送って来たので、その掌握していた地頭職は、譲渡状の内容通り相続するように、今日会議があって決定しました。それは、備中国竹荘・巨瀬庄の二つ。和泉国長屋庄。伊勢国三ケ野・山田野庄なのです。