吾妻鏡入門第四十九巻  

文應元年(1260)十一月大

文應元年(1260)十一月大八日辛未。深栖兵庫助孫平嶋藏人太郎重頼入小侍番帳。和泉前司行方奉仰。觸小侍云々。

読下し                    ふかすひょうごのすけ  まご  ひらしまくらんどたろうしげより こさむらいばんちょう い
文應元年(1260)十一月大八日辛未。深栖兵庫助が 孫、 平嶋藏人太郎重頼 小侍 番帳@に入る。

いずみのぜんじゆきかた おお うけたまは   こさむらい ふ       うんぬん
 和泉前司行方 仰せを奉り、 小侍に 觸れると云々。

参考@番帳は、班編成の名簿。

現代語文応元年(1260)十一月小八日辛未。深栖兵庫助の孫の平島蔵人太郎重頼が、将軍の身の回りの世話をする小侍所のメンバーに加えられました。和泉前司二階堂行方が将軍の命令を受けて、小侍に伝えましたとさ。

文應元年(1260)十一月大十日癸酉。明年御的始射手事被差定之。相摸太郎殿。越後守等被下奉書。

読下し                     みょうねん おんまとはじめ いて   こと  これ  さしさだ  らる    さがみたろうどの えちごのかみら  ほうしょ  くださる
文應元年(1260)十一月大十日癸酉。明年の 御的始の射手の事、之を差定め被る。相摸太郎殿・越後守等 奉書を下被る。

現代語文応元年(1260)十一月小十日癸酉。来年の弓矢初め式の射手について、これを将軍が指名しました。小侍所司の相模太郎北条時宗、別当の越後守金沢実時に公文書で与えました。

文應元年(1260)十一月大十一日甲戌。二所御參詣事。來十九日可被始之。仍供奉人間事。可被催促之趣。和泉前司行方奉仰。觸申越州并相摸太郎殿。而卿相雲客事者。就爲御所奉行沙汰。任例可令行方催促之處。加于小侍方。奉行事申可被催由之條。聊(背)宿徳令也。已背兩人所存之間。忽被返遣彼公卿等散状於行方云々。其状云。
 二所御參詣供奉人間事。仰給之趣。不得其意候之間。所給注文等返進候。恐々謹言。
    十一月十三日                     時宗
                               實時
    和泉前司殿〔御返事〕

読下し                        にしょ ごさんけい  こと  きた じゅうくにちこれ  はじ  らる  べ
文應元年(1260)十一月大十一日甲戌。二所御參詣の事、來る十九日之を始め@被る可し。

よっ   ぐぶにん   あいだ こと  さいそくさる  べ  のおもむき  いずみのぜんじゆきかた おお うけたまは   えつしゅうなら   さがみたろうどの  ふ   もう
仍て供奉人の間の事、催促被る可き之趣、 和泉前司行方 仰せを奉り、越州并びに相摸太郎殿に觸れ申す。

しか   けいしょう うんきゃく ことは   ごしょ ぶぎょう   さた たる   つ     れい まか  ゆきかた さいそくせし  べ  のところ こさむらいかた に くわ
而して卿相 雲客の事者、御所奉行の沙汰爲に就き、例に任せ行方 催促令む可き之處、 小侍方 于加う。

ぶぎょう  こともよおさる べ   よし  もう  のじょう  いささ しゅくとく そむ  なり
奉行の事催被る可き由を申す之條、聊か宿徳Aに背く也。

すで りょうにん  しょぞん そむ のあいだ たちま   か   くぎょうら  さんじょう を ゆきかた  かえ  つか  さる   うんぬん  そ  じょう  い
已に兩人の所存に背く之間、忽ち彼の公卿等の散状於 行方に返し遣は被ると云々。其の状に云はく。

  にしょ ごさんけい ぐぶにん  あいだ こと  おお  たま  のおもむき   そ   い   えず そうろうのあいだ たま    ところ  ちゅうもんら  かえ  すす そうろう
 二所御參詣供奉人の間の事、仰せ給はる之趣、其の意を不得B 候之間、給はる所の注文等 返し進め候。

きょうきょうきんげん
恐々謹言。

       じゅうちがつじゅうさんにち                                           ときむね
    十一月十三日C                     時宗D

                                                                 さねとき
                               實時E

       いずみのぜんじどの 〔 ごへんじ 〕
    和泉前司殿〔御返事〕

参考@之を始めは、参詣の精進潔斎を始める。
参考A
宿徳は、分担や権限。将軍の口出しを牽制しているようだ。
参考B其の意を不得は、意味が分からない。
参考C十一月十三日は、年号を書いていないので、私文書的に親しみを込めている。
参考D時宗と実名を書いているのは、へりくだっている。
参考E時宗・実時の順は、得宗家を立てている。

現代語文応元年(1260)十一月小十一日甲戌。二所(箱根・伊豆山&三島)詣でについて、来る19日に精進潔斎を始めます。そこで、お供の人について、前もって知らせるようにと、和泉前司二階堂行方が将軍の命令を受けて、小侍別当の越後守実時と所司の相模太郎北条時宗に伝えました。
しかい、公家や貴族については、御所奉行の担当なので、いつも通り二階堂行方が連絡するべきなのに、小侍に加えてしまって、御所奉行の分も処理するように言っているのは、分担や権限から逸脱しているんじゃないか。それは、小侍の二人の権限に反するので、すぐにその公家の名簿を二階堂行方に返させましたとさ。その添え書きの文章は
  二所詣でのお供について、命令された内容の意味が分かりませんので、頂いた名簿をお返しします。恐れ入ります。
   十一月十三日           北条時宗  金沢実時
     和泉前司二階堂行方殿

文應元年(1260)十一月大十六日己夘。リ。亥剋。雷鳴數聲。

読下し                       はれ  いのこく   らいめい すうこえ
文應元年(1260)十一月大十六日己夘。リ。亥剋、雷鳴 數聲。

現代語文応元年(1260)十一月小十六日己卯。晴れです。午後11時頃に雷が何度か鳴りました。

文應元年(1260)十一月大十八日辛巳。二所御參詣御精進事。明日者延引。可爲廿一日之由治定。仍武州被觸仰其趣於小侍所。周東兵衛五郎爲御使。又來廿二日御息所爲御見物始御濱出之躰。密々可令出于小山出羽前司若宮大路之家御。除二所供奉人外。可差進便宜供奉人之由。武州同令下知給云々。

読下し                        にしょ ごさんけい  ごしょうじん  こと   あす は えんいん   にじゅうちにち たるべ   のよしちじょう
文應元年(1260)十一月大十八日辛巳。二所御參詣の御精進の事、明日者延引す。 廿一日 爲可き之由治定す。

よっ  ぶしゅう そ おもむき を こさむらいどころ ふ  おおさる    すとうひょうえごろう  おんしたり
仍て武州@其の 趣於 小侍所に 觸れ仰被る。周東兵衛五郎A御使爲。

また  きた にじゅうさんにち みやすんどころ はじ  おんはまいでのてい  ごけんぶつ ため  みつみつ  おやまでわぜんじ   わかみやおおじのいえに いでせし  たま  べ
又、來る 廿二日  御息所B始めて御濱出之躰を御見物の爲、密々に小山出羽前司が若宮大路之家于出令め御う可し。

にしょ  ぐぶにん   のぞ  ほか    びんぎ   ぐぶにん   さししん  べ    のよし  ぶしゅうおな     げち せし  たま    うんぬん
二所供奉人を除く外は、便宜の供奉人を差進ず可し之由、武州同じく下知令め給ふと云々。

考@武州は、武蔵守で執権の極楽寺流北条長時。
参考A周東兵衛五郎は、上総国周淮郡(すえぐん)の東。先祖が一巻治承四年九月十九日条で上総広常に従っているようだ。
参考B御息所は、親王の妻なのでそう呼べる。

現代語文応元年(1260)十一月小十八日辛巳。二所(箱根・伊豆山&三島)詣での精進潔斎始めを明日は延期して、二十一日にするように決まりました。そこで、執権武州長時はその主旨を小侍所へ命じ伝えました。周東兵衛五郎が遣わされました。
また来る22日には、将軍の奥さん御息所が初めて将軍の浜での精進の様子を見るために、内々に小山出羽前司長村の若宮大路の家へお出でになります。二所詣でのお供以外で、適当なお供を指名するように、武州長時が命じましたとさ。

文應元年(1260)十一月大十九日壬午。來廿一日爲令浴精進潮御濱出事。御所中御精進。御息所明日可出他所給事。兩條有其沙汰。供奉人各可爲直垂折烏帽子之由。被相觸。且所被下御教書也。今夕。二所御參詣之間歩行供奉人等事。於御前有御沙汰。新右衛門督。花山院中納言。後藤壹岐前司。武藤少卿等候其砌云々。

読下し                        きた にじゅういちにち しょうじん うしお  あ  せし   ため  おんはまいで こと ごしょちゅうごしょうじん
文應元年(1260)十一月大十九日壬午。來る 廿一日 精進の潮を浴び令めん爲の御濱出の事、御所中御精進、

みやすんどころ あす たしょ   いでたま  べ   こと りょうじょう そ   さた あ
 御息所 明日他所へ出給ふ可き事、兩條 其の沙汰有り。

 ぐぶにん おのおの ひたたれ おれえぼしたるべ  のよし  あいふ  らる    かつう みぎょうしょ くださる ところなり
供奉人は 各 直垂折烏帽子爲可き之由、相觸れ被る。且は御教書を下被る所也。

こんゆう  にしょごさんけいのあいだ   かち   ぐぶにんら    こと    ごぜん  をい  ごさた  あ
今夕、二所御參詣之間の歩行の供奉人等の事、御前に於て御沙汰有り。

しんうえもんのかみ  かざんいんちゅうなごん  ごとういきぜんじ    むとうしょうきょうら そ   みぎり そうら   うんぬん
新右衛門督・花山院中納言・後藤壹岐前司・武藤少卿等其の砌に候うと云々。

現代語文応元年(1260)十一月小十九日壬午。来る21日に精進の海水で沐浴するための浜出について、御所での精進式、奥さん御息所は明日他の場所へ出かける事、の二つについて指示がありました。お供の人は皆、鎧直垂に折烏帽子にするように、おふれが出ました。命令書を下げ渡されたのです。
今日の夕方に、二所詣での歩行のお供について、将軍の前で命令が出ました。新右衛門督顕方、花山院中納言長雅、後藤壱岐前司基政、武藤少卿景頼が一緒にいましたとさ。

文應元年(1260)十一月大廿日癸未。御物詣供奉之間領状輩之中。一兩輩有申障事。所謂。
 後藤二郎左衛門尉〔只今輕服事出來之由申〕
 上総三郎左衛門尉〔俄所勞之由申〕

読下し                    おんものもうで ぐぶのあいだ りょうじょう やからのうち いちりょうやから さわ    もう  ことあ    いはゆる
文應元年(1260)十一月大廿日癸未。御物詣 供奉之間 領状の輩 之中、一兩輩 障りを申す事有り。所謂、

   ごとうじろうさえもんのじょう  〔ただいまきょうぶく  ことしゅつらい のよし   もう〕
 後藤二郎左衛門尉〔只今輕服の事出來之由を申す〕

  かずさのさぶろうさえもんのじょう 〔にわか しょろう のよし   もう〕
 上総三郎左衛門尉 〔俄に所勞之由を申す〕

現代語文応元年(1260)十一月小二十日癸未。二所詣でのお供を了承した連中の内に、一人二人支障を云いだしたものがあります。それは、
 後藤二郎左衛門尉〔現在軽い喪に服す事が出来たと云ってます〕
 上総三郎左衛門尉大曽祢義泰〔急に病気になったと云ってます〕

文應元年(1260)十一月大廿一日甲申。將軍家依可始二所御精進御。中御所入御陸奥入道亭。
供奉人
 相摸太郎           同四郎重(宗)
A
 同三郎時利          同七郎宗頼
 越前々司時廣         尾張左近大夫將監公時
 遠江右馬助C時        陸奥左近大夫將監義政
 彈正少弼業時         越後四郎時方
 木工權頭親家         壹岐前司基政
 上総前司長泰         武藤少卿景頼
 出羽大夫判官行有       式部太郎左衛門尉光政
 城六郎顯盛          和泉三(次)郎左衛門尉行章
 周防五郎左衛門尉忠景     武藤左衛門尉頼泰
 信濃次郎左衛門尉時C     大曾祢太郎左衛門尉長頼
 薩摩七郎左衛門尉祐能

読下し                       しょうぐんけ にしょ  ごしょうじん  はじ  たま  べ     よっ    なかごしょ むつにゅうどうてい にゅうぎょ
文應元年(1260)十一月大廿一日甲申。將軍家二所の御精進を始め御う可きに依て、中御所@陸奥入道亭へ入御す。

ぐぶにん
供奉人

  さがみのたろう                      おな    しろうむねまさ
 相摸太郎          同じき四郎宗政

  おな   さぶろうときとし                おな    しちろうむねより
 同じき三郎時利B       同じき七郎宗頼C

  えちぜんぜんじときひろ                おわりさこんのたいふしょうげんきんとき
 越前々司時廣        尾張左近大夫將監公時

  とおとうみうまのすけきよとき              むつさこんのたいふしょうげんよしまさ
 遠江右馬助C時       陸奥左近大夫將監義政

  だんじょうしょうひつなりとき               えちごのしろうときかた
 彈正少弼業時        越後四郎時方

  もくごんのかみちかいえ                 いきぜんじもとまさ
 木工權頭親家        壹岐前司基政

  かずさのぜんじながやす               むとうしょうきょうかげより
 上総前司長泰        武藤少卿景頼

  でわのたいふほうがんゆきあり            しきぶのたろうさえもんのじょうみつまさ
 出羽大夫判官行有      式部太郎左衛門尉光政

  じょうのろくろうあきもり                 いずみのじろうさえもんのじょうゆきあき
 城六郎顯盛         和泉次郎左衛門尉行章

  すおうのごろうさえもんのじょうただかげ        むとうさえもんのじょうよりやす
 周防五郎左衛門尉忠景    武藤左衛門尉頼泰

  しなののじろうさえもんのじょうとききよ         おおそねのたろうさえもんのじょうながより
 信濃次郎左衛門尉時C    大曾祢太郎左衛門尉長頼

  さつまのしちろうさえもんのじょうすけよし
 薩摩七郎左衛門尉祐能

考@中御所は、将軍の奥さんとその居場所を指す。
考A
同四郎重政は、四郎宗政の間違い。
考B同三郎時利は、後の時輔。
考C同七郎宗頼
は、北条時宗の弟。生まれ順は、時輔・時宗・宗政・宗頼の順。

現代語文応元年(1260)十一月小二十一日甲申。宗尊親王将軍家は二所詣での精進潔斎を始めるために、中御所奥さんは陸奥入道亭へ入りました。
お供は、相摸太郎時宗     同四郎宗政         同三郎時利(時輔)     同七郎宗頼
    越前前司長井時広   尾張左近大夫将監名越公時  遠江右馬助清時      陸奥左近大夫将監塩田義政
    弾正少弼業時     越後四郎時方        木工権頭親家       壱岐前司後藤基政
    上総前司大曽祢長泰  武藤少卿景頼        出羽大夫判官二階堂行有  式部太郎左衛門尉伊賀光政
    城六郎安達顕盛    和泉次郎左衛門尉二階堂行章 周防五郎左衛門尉島津忠景 武藤左衛門尉頼泰
    信濃次郎左衛門尉時清 大曽祢太郎左衛門尉長頼   薩摩七郎左衛門尉伊東祐能

文應元年(1260)十一月大廿二日乙酉。リ。將軍家被始二所參詣御精進。仍爲令浴潮御。有出御由比浦之間。爲御見物。中御所入御于小山出羽前司長村若宮大路之家。
御輿
 三浦六郎左衛門尉頼盛     遠江十郎左衛門尉頼連
 佐々木對馬太郎左衛門尉頼氏〔各列歩御輿左右〕
御後供奉人騎馬
 新相摸三郎時村        遠江七郎時基〔以上御輿寄〕
 宮内權大輔時秀        秋田城介泰盛
 對馬前司氏信         加賀守行頼
 丹後守頼景          城四郎左衛門尉時盛
 同弥九郎長景
申尅御出〔御手水。列騎馬〕。供奉卿相雲客皆着水干。其外。武州。相摸太郎殿以下者直垂。還御之時者。公私淨衣云々。

読下し                       はれ  しょうぐんけ にしょさんけい  ごしょうじん  はじ  らる
文應元年(1260)十一月大廿二日乙酉。リ。將軍家二所參詣の御精進を始め被る。

よっ うしお  あ   せし  たま    ため  ゆいのうら  しゅつご あ  のあいだ  ごけんぶつ  ため
仍て潮を浴び令め御はん爲、由比浦へ出御有る之間、御見物の爲、

なかごしょ おやまでわぜんじながむら  わかみやおおじ のいえに にゅうぎょ
中御所小山出羽前司長村が若宮大路之家于入御す。

おんこし
御輿

  みうらのろくろうさえもんのじょうよりもり          とおとうみのじゅうろうさえもんのじょうよりつら
 三浦六郎左衛門尉頼盛     遠江十郎左衛門尉頼連

  ささきつしまのたろうさえもんのじょうよりうじ    〔 おのおの おんこし  さゆう  なら  ある  〕
 佐々木對馬太郎左衛門尉頼氏〔 各 御輿の左右に列び歩く〕

おんうしろ  ぐぶにん   きば
御後の供奉人、騎馬

  しんさがみのさぶろうときむら                とおとうみのしちろうときもと 〔いじょうおんこしよせ〕
 新相摸三郎時村         遠江七郎時基 〔以上御輿寄〕

  くないごんのだいゆうときひで                あいだのじょうすけやすもり
 宮内權大輔時秀         秋田城介泰盛

  つしまのぜんじうじのぶ                    かがのすけゆきより
 對馬前司氏信          加賀守行頼

  たんごのかみよりかげ                    じょうのしろうさえもんのじょうときもり
 丹後守頼景           城四郎左衛門尉時盛

  おな   いやくろうながかげ
 同じき弥九郎長景

さるのこく おんいで 〔おんちょうず   きば   なら   〕    ぐぶ けいしょううんきゃくみなすいかん  き    そ  ほか  ぶしゅう  さがみのたろうどの いげ は ひたたれ
 申尅 御出〔御手水。騎馬を列ぶ〕。供奉の卿相雲客皆水干を着る。其の外、武州・相摸太郎殿以下者直垂。

かんご のときは   こうし  じょうえ  うんぬん
還御之時者、公私淨衣@と云々。

参考@淨衣は、清浄とされる白い着物。

現代語文応元年(1260)十一月小二十二日乙酉。晴です。宗尊親王将軍家は二所詣での精進潔斎を始めます。そこで、海水で沐浴をするために由比の浦へお出ましになるのを見物するために、奥さんは小山出羽前司長村の若宮大路の家へ入られました。
輿です。三浦六郎左衛門尉頼盛 遠江十郎左衛門尉頼連 佐々木対馬太郎左衛門尉頼氏〔それぞれ輿の左右に並んで歩きます〕
後ろに従うお供の乗馬 新相模三郎時村 遠江七郎時基〔二人は輿のそば〕
 宮内権大輔時秀 秋田城介安達泰盛 対馬前司佐々木氏信 加賀守二階堂行頼 丹後守頼景 城四郎左衛門尉安達時盛 同弥九郎安達長景
午後4時頃にお出まし〔手洗いです。乗馬の連中は並んでいます〕。お供の公家さん達は皆水干を着ています。その他の武州長時、相模太郎北条時宗以下の武士は直垂です。お帰りの時は、全員清浄な白い着物を着てましたとさ。

文應元年(1260)十一月大廿四日丁亥。天リ。將軍家中潮御濱出。

読下し                       そらはれ しょうぐんけ なかしお おんはまいで
文應元年(1260)十一月大廿四日丁亥。天リ。將軍家中潮@で御濱出。

参考@中潮は、みそそぎの事で、上の潮・中の潮・下の潮とそれぞれ三度づつ体を洗う。伊弉諾の尊が黄泉から帰った時以来そういうことになっている。

現代語文応元年(1260)十一月小二十四日丁亥。空は晴です。宗尊親王将軍家は、中の潮での精進に浜へお出ましです。

文應元年(1260)十一月大廿六日己丑。リ。玄番頭丹波長世去十五日敍從四位上。仍今日持參彼除書於御所。是去八月將軍家御惱之時施醫療之賞也〔其由有尻付〕。

読下し                       はれ  げんばのかみたんばながよ さんぬ じゅうごにち じゅしいじょう   じょ
文應元年(1260)十一月大廿六日己丑。リ。 玄番頭丹波@長世 去る 十五日 從四位上に敍す。

よっ  きょう  か  じしょ を  ごしょ  じさん
仍て今日彼の除書於御所へ持參す。

これ さんぬ はちがつしょうぐんけ ごのう のとき   いりょう ほどこ のしょうなり   〔 そ   よし しりつけ あ  〕
是、去る八月 將軍家 御惱之時、醫療を施す之賞也。〔其の由尻付A有り〕

参考@丹波は、医家で、和気と丹波が点薬頭で正五位上程度。
参考A
尻付は、官職や位が上がった理由。名前の右肩に書くのが肩書で、左下が尻付け。

現代語文応元年(1260)十一月小二十六日己丑。玄番頭の丹波長世は、先日の十五日に従四位上に任命されました。そこで今日、その辞令書を御所へ持って挨拶に来ました。これは、以前の八月に宗尊親王将軍家が病気の時に治療した褒美です〔その理由を辞令書に書いてあります〕。

文應元年(1260)十一月大廿七日庚寅。リ。夘剋。將軍家御參鶴岳宮。辰剋。二所御進發。
供奉人〔不被立行列〕
先陣随兵十騎
次御引馬
次御弓袋差
次御甲着
次御冑持
次御小具足持
次御調度懸
次御先達
 伊豫法眼教尊
次御駕
 後藤壹岐左衛門尉基頼     薩摩七郎左衛門尉祐能
 同十郎左衛門尉        周防五郎左衛門尉忠景
 上総太郎左衛門尉長經     甲斐五郎左衛門尉爲定
 大須賀五郎左衛門尉信泰    武石新左衛門尉長胤
 隱岐三郎左衛門尉行氏     同四郎兵衛尉行廣
 伊東次郎左衛門尉盛時     佐渡左衛門太郎基秀
 鎌田三郎左衛門尉義長     平賀四郎左衛門尉泰實
 葛西又太郎定廣        萩原右衛門尉定仲
 鎌田次郎左衛門尉行俊     小河左衛門尉時仲
 大泉九郎長氏         平岡左衛門尉實俊
  以上歩行。候御馬左右。
次御劔役人
 大宰少貳景頼
次御後
 新右衛門督〔顯方〕      花山院中納言〔長雅〕
 讃岐守忠時朝臣        中御門新少將實隆朝臣
 二條少將雅有朝臣
 陸奥左近大夫將監義政     彈正少弼業時
 越前々司時廣         尾張左近大夫將監公時
 相摸四郎宗政         同三郎時利
 同七郎宗頼          越後四郎時方
 武藏五郎時忠         壹岐前司基政
 木工權頭親家         刑部權少輔政茂
 伊賀前司時家         周防前司忠綱
 上総前司長泰         出羽大夫判官行有
 隱岐大夫判官行氏       甲斐守爲成
 千葉介頼胤
 圖書頭忠茂朝臣        權天文博士爲親朝臣
 玄番頭長世朝臣
 安藝右近大夫親經       能登右近藏人仲家
 上野三郎國氏         阿曽沼小次郎光綱
 大須賀新左衛門尉朝氏     鎌田圖書左衛門尉信俊
 進三郎左衛門尉宗長
後陣随兵十騎
今日。相州〔政村〕被頓冩一日經。是息女惱邪氣。依比企判官能員女子靈詫。爲資彼苦患也。入夜有供養之儀。請若宮別當僧正爲唱導。説法最中。件姫君惱乱。出舌舐脣。動身延足。偏似蛇身之令出現。爲聽聞靈氣來臨之由云々。僧正令加持之後。惘然而止言。如眠而復本云々。

読下し                      はれ  うのこく しょうぐんけつるがおかぐう ぎょさん たつのこく  にしょ  ごしんぱつ
文應元年(1260)十一月大廿七日庚寅。リ。夘剋、將軍家鶴岳宮へ御參。辰剋、二所に御進發。

ぐぶににん 〔ぎょうれつ たてられず〕
供奉人〔行列を立被不@

せんじん  ずいへいじゅっき
先陣の随兵十騎

つぎ おんひきうま
次に御引馬A

つぎ おんゆぶくろさし
次に御弓袋差

つぎ おんよろいぎ
次に御甲着

つぎ おんかぶともち
次に御冑持

つぎ おんこぐそくもち
次に御小具足持

つぎ ごちょうどがけ
次に御調度懸

つぎ ごせんだつ
次に御先達B

  いよのほうげんきょうそん
 伊豫法眼教尊

つぎ  おんが
次に御駕

  ごとういきさえもんのじょうもとより              さつまのしちろうさえもんのじょうすけよし
 後藤壹岐左衛門尉基頼     薩摩七郎左衛門尉祐能

  おな    じゅうろうさえもんのじょう           すおうのごろうさえもんのじょうただかげ
 同じき十郎左衛門尉      周防五郎左衛門尉忠景

  かずさのたろうさえもんのじょうながつね         かいのごろうさえもんのじょうためさだ
 上総太郎左衛門尉長經     甲斐五郎左衛門尉爲定

  おおすがのごろうさえもんのじょうのぶやす        たけいしのしんさえもんのじょうながたね
 大須賀五郎左衛門尉信泰    武石新左衛門尉長胤

  おきのさぶろうさえもんのじょうゆきうじ           おな    しろうひょうえのじょうゆきひろ
 隱岐三郎左衛門尉行氏     同じき四郎兵衛尉行廣

  いとうのじろうさえもんのじょうもりとき            さどさえもんたろうもとひで
 伊東次郎左衛門尉盛時     佐渡左衛門太郎基秀

  かまたのさぶろうさえもんのじょうよしなが         ひらがのしろうさえもんのじょうやすざね
 鎌田三郎左衛門尉義長     平賀四郎左衛門尉泰實

  かさいのまたたろうさだひろ                はぎわらうえもんのじょうさだなか
 葛西又太郎定廣        萩原右衛門尉定仲

  かまたのじろうさえもんのじょうゆきとし           おがわのさえもんのじょうときなか
 鎌田次郎左衛門尉行俊     小河左衛門尉時仲

  おおいずみのくろうながうじ                 ひらおかさえもんのじょうさねとし
 大泉九郎長氏         平岡左衛門尉實俊

    いじょう かち   おんうま  さゆう  そうら
  以上歩行。御馬の左右に候う。

つぎ  ぎょけん  えき  ひと
次に御劔の役の人

  だざいのしょうにかげより
 大宰少貳景頼

つぎ おんうしろ
次に御後

  しんうえもんのかみ 〔あきかた〕              かざんいんちゅうなごん 〔ながまさ〕
 新右衛門督〔顯方〕       花山院中納言〔長雅〕

  さぬきのかみただときあそん               なかみかどしんしょうしょうさねたかあそん
 讃岐守忠時朝臣        中御門新少將實隆朝臣

  にじょうしょうしょうまさありあそん
 二條少將雅有朝臣

  むつさこんのたいふしょうげんよしまさ          だんじょうしょうひつなりとき
 陸奥左近大夫將監義政     彈正少弼業時

  えちぜんぜんじときひろ                  おわりさこんのたいふしょうげんきんとき
 越前々司時廣         尾張左近大夫將監公時

  さがみのしろうむねまさ                  おな    さぶろうときとし
 相摸四郎宗政         同じき三郎時利

  おな    しちろうむねより               えちごのしろうときかた
 同じき七郎宗頼        越後四郎時方

  むさしのごろうときただ                   いきぜんじもとまさ
 武藏五郎時忠         壹岐前司基政

  もくごんのかみちかいえ                  ぎょうぶごんのしょうゆうまさしげ
 木工權頭親家         刑部權少輔政茂

  いがぜんじときいえ                    すおうぜんじただつな
 伊賀前司時家         周防前司忠綱

  かずさのぜんじながやす                 でわのたいふほうがんゆきあり
 上総前司長泰         出羽大夫判官行有

  おきのたいふhごうがんゆきうじ              かいのかみためなり
 隱岐大夫判官行氏       甲斐守爲成

  ちばのすけよりたね
 千葉介頼胤

  としょのかみただしげあそん                ごんのてんもんはくじためちかあそん
 圖書頭忠茂朝臣        權天文博士爲親朝臣

  ざんばのかみながよあそん
 玄番頭長世朝臣

  あきうこんのたいふちかつね               のとうこんくらんどなかいえ
 安藝右近大夫親經       能登右近藏人仲家

  こうづけのさぶろうくにうじ                 あそぬまのこじろうみつつな
 上野三郎國氏         阿曽沼小次郎光綱

  おおすがしんさえもんのじょうともうじ           かまたのとしょさえもんのじょうのぶとし
 大須賀新左衛門尉朝氏     鎌田圖書左衛門尉信俊

  じんざぶろうさえもんのじょうむねなが
 進三郎左衛門尉宗長

こうじん  ずいへいじゅっき
後陣の随兵十騎

きょう   そうしゅう 〔まさむら〕 いちにちきょう とんしゃ さる    これそくじょ  じゃき  なや    ひきのほうがんよしかず  じょし  れいたく  よっ    か   くかん  たす    ためなり
今日、相州〔政村〕一日經を頓冩C被る。是息女の邪氣を惱む。比企判官能員が女子の靈詫に依て、彼の苦患を資けん爲也。

 よ  い    くよう のぎ あ    わかみやべっとうそうじょう しょう しょうどう  な
夜に入り供養之儀有り。若宮別當僧正を請じ唱導を爲す。

せっぽう さいちゅう くだん ひめぎみ のうらん   した  だ  くちびる な     み   うご    あし  の      ひとへ じゃしん の しゅつげんせし      に
説法の最中、件の姫君 惱乱し、舌を出し脣を舐め、身を動かし足を延ばす。偏に蛇身之 出現 令むるに似たり。

ちょうもん ため  れいきらいりん    のよし  うんぬん  そうじょうかじ せし    ののち  もうぜん    て げん  と     ねむ  ごと    て ふくほん    うんぬん
聽聞の爲に靈氣來臨する之由と云々。僧正加持令める之後、惘然とし而言を止め、眠る如くし而復本すと云々。

参考@行列を立被不は、先頭に穢れ祓いの検非違使を付けない。
参考A
引馬は、乗り換え用の予備の馬。
参考B先達は、将軍の神仏の先生。
参考C
頓冩は、急いで写す。

現代語文応元年(1260)十一月小二十七日庚寅。晴れです。午前6時頃、宗尊親王将軍家は鶴岡八幡宮へお詣りして、午前八時頃二所詣でに出発です。
お供は〔
先頭に穢れ祓いの検非違使を付けない
前を行く武装儀仗兵十騎手
次に替え馬
次に将軍の弓の弦袋を提げている人
次に将軍の鎧を代わりに着てる人
次に将軍の兜を持っている人
次に将軍の小手やすね当ての小具足を持ってる人
次に将軍の弓を肩に掛けている人
次に、神仏の先生で案内人 伊予法眼教尊
次に馬上の宗尊親王将軍家
 後藤壱岐左衛門尉基頼    薩摩七郎左衛門尉伊東祐能
 同十郎左衛門尉伊東祐広   周防五郎左衛門尉島津忠景
 上総太郎左衛門尉大曾祢長経 甲斐五郎左衛門尉為定
 大須賀五郎左衛門尉信泰   武石新左衛門尉長胤
 隠岐三郎左衛門尉二階堂行氏 隠岐四郎兵衛尉二階堂行広
 伊東次郎左衛門尉盛時    佐渡左衛門太郎後藤基秀
 鎌田三郎左衛門尉義長    平賀四郎左衛門尉泰実
 葛西又太郎定広       萩原右衛門尉定仲
 鎌田次郎左衛門尉行俊    小川左衛門尉時仲
 大泉九郎長氏        平岡左衛門尉実俊
  以上の人は、歩きで、将軍の馬の左右におります。
つぎに、将軍の刀持ちの人 太宰少弐武藤景頼
つぎに将軍の後ろへ続くのは
 新右衛門督顕方       花山院中納言長雅
 讃岐守忠時さん       中御門新少将実隆さん
 二条少将雅有さん
 陸奥左近大夫将監塩田義政  弾正少弼北条業時
 越前前司時広        尾張左近大夫将監名越公時
 相模四郎北条宗政      同三郎北条時利(後の時輔)
 同七郎宗頼         越後四郎時方
 武蔵五郎大仏流北条時忠   壱岐前司後藤基政
 木工権頭中原親家      刑部権少輔政茂
 伊賀前司時家        周防前司島津忠綱
 上総前司大曽祢長泰     出羽大夫判官二階堂行有
 隠岐大夫判官二階堂行氏   甲斐守為成
 千葉介頼胤
 図書頭忠茂さん       権天文博士為親さん
 玄番頭忠茂さん
 安芸右近大夫親経      能登右近蔵人仲家
 上野三郎畠山国氏      阿曾沼小次郎光綱
 大須賀新左衛門尉朝氏    鎌田図書左衛門尉信俊
 後を行く武装儀仗兵10騎手

今日、相州政村は、一日で急いで写経をしました。これは娘に邪気が附いたからです。邪気は比企能員の娘が霊の託宣を伝えたので、彼女の苦しみを助けてやるためです。夜になって、写経の完成供養をしました。若宮別当の隆弁僧正をお招きして、称名を唱えてました。僧正の説法の最中に、政村の娘は錯乱して、舌をチロチロと出して唇をなめまわし、足を延ばして体で這いずっている姿は、まるで蛇が附いたみたいです。お経を聞くために霊が出てきているのだそうだ。僧正が加持祈祷をした後は、呆然として黙ってしまい、眠るようにして治りましたとさ。

文應元年(1260)十一月大廿八日辛夘。リ。御奉幣筥根御山。衆徒等湖上浮船延年。垂髪翻廻雪之袖。盡歌舞之曲。

読下し                       はれ  はこね  おやま   ごほうへい  しゅうとら こじょう  ふね  う     えんねん
文應元年(1260)十一月大廿八日辛夘。リ。筥根の御山へ御奉幣。衆徒等湖上に船を浮かべ延年す。

すいはつ かいせつ のそで ひるがえ かぶ の きょく  つく
垂髪@廻雪 之袖を翻し、歌舞之曲を盡す。

参考@垂髪は、お稚児さん。

現代語文応元年(1260)十一月小二十八日辛卯。晴れです。箱根神社へ幣の奉納です。坊さん達が芦ノ湖に船を浮かべて、芸を披露しました。お稚児さんは雪の様な袖を翻して踊りを踊って見せました。

文應元年(1260)十一月大廿九日壬辰。陰。夜半令詣三嶋社御。御奉幣曉天云々。

読下し                      くもり  やはん みしましゃ  もう  せし  たま    ぎょうてん  ごほうへい    うんぬん
文應元年(1260)十一月大廿九日壬辰。陰。夜半三嶋社へ詣で令め御う。曉天に御奉幣すと云々。

現代語文応元年(1260)十一月小二十九日壬辰。曇りです。夜遅くなって、三嶋大社へお参りしました。明け方に幣を奉納しましたとさ。

文應元年(1260)十一月大卅日癸巳。雨降。御參伊豆山。

読下し                     あめふる  いずさん  ぎょさん
文應元年(1260)十一月大卅日癸巳。雨降。伊豆山へ御參。

現代語文応元年(1260)十一月小三十日癸巳。雨降りです。伊豆山権現走湯山へお参りです。

十二月へ

吾妻鏡入門第四十九巻  

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