次に訪れたのは、仏像とは関係ないんですが、歴史好きとしてはやっぱり行かなきゃの江刺藤原の郷へいきました。
その辺から渡辺清衡や渡瀬秀衡が、和泉時宗や柳場泰盛が、さいきんでは松島おまつや唐沢利家も出てきそうです。
左の写真は、確か大河の「ほむら立つ」では、多賀城の設定で、「後三年の役」を朝廷がC原四郎家衡等の一族内の私闘として片付けられます。これを八幡太郎義家の公式な支配を遁れる為に藤原清衡が朝廷の役人に賄賂を使って工作した為に、佐藤義家が「渡辺清衡にしてやられたり。」と、じたんだを踏んだシーンが思い出されました。
右の砦は、「ほむら立つ」では伊治城として登場しますが、「利家とまつ」では、荒子城として登場しました。
岩手県といえば、やはり平泉でしょう。
秀衡建立の「無量光院」跡。二年前に行った時は、田んぼの稲を刈った後なので、島の形に浄土庭園が浮いた感じでしたが、今回は未だ稲刈り前なので分かり難いのですが、観光化していないだけに、静かな雰囲気が好きです。
次は一番有名な「中尊寺」ですが、当然金色堂は撮影禁止ですので、写真紙などでご覧下さい。変わりに一寸渋い経堂を撮影しました。
建物は一切ありませんが、浄土庭園が発掘された「毛通寺」へ行ってみますと、発掘された鑓水の遺構が再現されていました。
おなじみの立岩です。
岩窟に蝦夷の悪路王が隠れていたのを坂上田村麻呂が滅ぼし村人を助けたという伝説の達谷窟。
阿弥陀様と言われる磨崖仏も段々崩れてしまいます。
観光コースのとおり進むと、厳美渓です。水が長い年月をかけ溶岩の岩を削ってきた自然の芸術です。
五木寛之の百寺巡礼「毛通寺」偏で、五木さんが「かっこう団子」を食べていました。
写真の水の溜まっているのが、甌穴(ポットホール)と言われ小さな窪みに石ころが入って、水の勢いでクルクル回って長い年月をかけて窪みを深くしていきます。中には周りを削られ球体になった礫が見られます。
この日、最終の宿泊は遠刈田温泉のホテルさんさ亭でした。遠刈田といえば、こけしが有名なので、こけし工房を尋ね奥様が作られた優しい感じのこけしを買いました。
翌日の遠刈田温泉は深い霧につつまれていました。お陰でやっと暑さから遁れられました。国道4号線まではクーラーを入れず窓を開けて走りました。こんなに涼しいのは旅行始まっていらいでホッとしておりましたが、宮城県から県境を越えて福島県へ入ったとたんに天気がバカッパレになって暑いのなんのビックリしました。
翌日は、福島県に入って国見町の国道4号藤田駅入口を左へ県道320を3キロほど入ると「国史跡 安津賀志山防塁」の看板が右にありますので、これに添って行くと、文治五年頼朝の奥州合戦の際の最大の激戦地「阿津賀志山防塁」があります。
この遺跡は、文治五年(1189)の奥州合戦に、平泉の藤原泰衡がその異母兄「西木戸太郎國衡」を大将として、源頼朝の率いる鎌倉軍を迎え撃つため、築いた防塁跡である。吾妻鏡には、阿津賀志山において城壁を築き、要害を固め、国見宿とその山の中間に口五丈の溝を掘り、逢隈河の流れを堰を作って入れたとある。
ここを攻める鎌倉軍と守備隊の攻防のジオラマが会津の県立博物館にありました。
4頁 江刺藤原の郷・平泉・阿津賀志山防塁