平成11年2月に発売された、大矢邦宣さんの「みちのく古仏紀行」(ふくろうの本出版)の本に触発されて、夏休みを纏めて取り、11年のお盆を過ぎた夏の東北を廻ってみました。

その後と12年14年にも同じコースを回りました。

福島県の郡山で新幹線を降り、レンタカーを借りて会津へ向かいました。

右の写真は14年8月25日撮影の磐越道「磐梯山パーキングエリア」からの会津磐梯山です。

 

慧日寺跡

平安の初期に当時荒ぶれていた磐梯山を治めんが為に、奈良の興福寺で法相宗を勤めていた「徳一法師」が、はるばる会津まで来て建立した慧日寺跡を訪ねてみました。

 

左のような資料館も立ち、かつての本堂跡と伝えられる神社で発掘作業をしており、素人目にはよく分かりませんが、きっと本堂やなにかの建物の礎石を現しているのでしょうか。 

下は平成13年9月本堂跡の発掘調査中の写真です。

 

 

 

 

資料館の裏庭には一キロ程山際の磐梯西麓湧水郡龍ケ沢から湧水を引いてあり、とてもおいしいので夕方には近郊の方がポリタンクを持って汲みに来ていました。ぜひお越しの節は味わって下さい。

 

 

 

 

 

 

 

また、珍しい五輪塔を見かけたので写真を載せますが、五輪塔は平安末期から供養塔として立ち始め鎌倉時代には流行るんです。縦に長いんです。珍しいのは天辺の宝珠(空)とその下の受華(風)です。特に受華が、鎌倉のは少し肉厚のちょっと深い丸鉢の感じですが、会津のは和ローソクのように長いんです。きっと中央からの伝承が間違って伝わったのでしょう。五輪塔の詳しい説明は下の「仏像余談」に書きます。

 

     

詳しくは、磐梯町のホームページ 慧日寺資料館をみてください。

勝常寺・湯川

次は同じく「徳一法師」が建立したと伝えられる会津五薬師の中心薬師、湯川村の勝常寺です。お目当ての薬師如来は、残念ながら秘仏のため拝顔出来ませんでしたが、脇侍や四天王、同居の地蔵菩薩など多数拝観させて頂き、寺守の奥様から説明を受けました。脇侍の日光、月光共に優美で、腰の張りは優雅さとともに、東北地方のどっしりとした粘り強さがあります。それに、裳を紐で結わえているところが、キリッと肌に食い込んで腰に密着して色気さえ感じさせられます。

ご本尊の画像は、会津 勝常寺 仏像で検索してみて下さい。この時代のどんな人達のどのような願いが込められているのでしょう。

実は、後日福島県立博物館で本尊のレプリカにお会いしたのですが、まるで金太郎が出家したようなコロコロした体と童顔です。でも童顔に似合わない力強さと厳しさや抱擁感さえ与える立派な如来様でした。また、上野の国立博物館で「国宝展」の時に、はるばる会津からお出ましでしたので、実物を拝顔することも出来ました。

 

 

 

 

又、勝常寺の裏へ出て、田んぼの真ん中に立って会津盆地を眺めるとその大きさに驚きます。

このまったいらな広さに惹かれたのです。

土地の古老が言っておられました。

「会津は盆地と呼ばない。海と呼ぶんだ。霧が出た時、丘へ上ると海に見えるんだ。」

なお、2019年にスーパーでJA会津よつば 福島県会津<湯川村こしひかり>が美味しい。
特に「卵の黄身かけごはん」が最高!

 

 

 

立木観音・会津坂下

次に会津坂下町の恵隆寺の立木観音、まっ平な会津盆地の西のはずれにあります。

建物も大きいのですが、拝観してビックリです。なんと8.5bの巨大観音なのです。あまり大きすぎてどこを見たらよいのやら悩んでしまいます。

しかも人物大の二十八部衆が全部そろっているのです。本尊も立派ですが、二十八部衆のお一人お一人がとても丁寧にこしらえられていて、どれひとつ取り上げても重要美術品級の出来栄えです。福島県指定の重要文化財になっております。

いずれも像の巨大さよりも、上から見下ろされているおのれの小ささを感じさせられてしまいます。感動的な巨大さと現代にも通じるバランスの取れたスタイルのよい千手観音様でした。

仏像の画像は、このホームページでご覧ください。

1番が左と同じお堂の絵。2番が千手観音の絵です。

 

 

 

会津坂下

立木観音のそばで、あまりにも「民族衣装(野良着)?」がお似合いのおばあちゃんに出会ったので、

お願いして一枚シャッターをきらせて戴きました。

おばあちゃんは取れたての野菜を販売して歩いているようです。

枝豆がおいしそうでした。こんな服装も変わっていってしまうのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

会津喜多方長床

次に蔵の街で有名な、会津喜多方の西南のはずれの集落に新宮熊野神社があります。

この神社は源頼義、義家親子が「前九年の役」に戦勝を祈願して、紀州熊野神社から会津河東に勧請したのが始まりと伝えます。その後、「後三年の役」で再びこの地を訪れた義家が、現在地に新宮を移させ足掛け五年の歳月をかけ寛治三年(1089)完成したと謂われます。その後、文治五年(1189)の頼朝の奥州征伐後は会津四郡を佐原十郎義連に与えられ、社寺領の没収により衰退しましたが、建久三年鎌倉へ上って由緒を説明し社寺領の復活を願い出たところ、二百町分の社寺領を認められ宝物殿の文殊菩薩像を賜ったとされております。その後、戦国時代には衰退しましたが、豊臣秀吉に会津藩主に任ぜられた蒲生氏が慶長十六年(1611)の大地震で倒壊した長床を旧材を用いて一回り小さく再建しました。

これを直径一尺五寸(45.5cm)の円柱44本を十尺(303cm)の等間隔に5列に並べた旧来の姿に、昭和49年に解体修理復元をしました。この形が古様式を残しているとの事で、国の重要文化財になっております。詳しい写真は、「長床」で検索してみてください。その魅力に見せられた人々のホームページに沢山ヒットします。

 

 

 

佐原(三浦)十郎義連

会津から喜多方で新宮熊野神社の長床と願成寺の会津大仏と云われる丈六の阿弥陀三尊を拝顔してラーメンを食べて、地図を見たら「佐原十郎義連」の墓とあるので行ってみました。喜多方の西はずれの熱塩加納村に県重要文化財佐原十郎義連の墓となっています。

推測するに(義連は三浦大介義明の十男で横須賀市佐原を領したので「佐原」を名乗っている。)義連の子孫が会津芦名になっているので先祖の供養塔でも建てたのが始めと思われます。

会津北側は、佐原時連が納め新宮と名乗っていたそうで、会津黒川の宗家は同族ですが、横須賀市芦名を領していたので芦名を名乗っております。この両家は永享の頃にぶつかり合い、新宮氏は滅びています。

熱塩加納村教育委員会の資料によると

「中央にある宝きょう印塔が義連の墓と伝えられるもので、寛文8年(1668)保科正之が、山崎闇斎に命じて史実をさぐり、元禄8年(1695)松平正容が志を継いで「佐原義連之碑」をそばに建立した。」とあります。

http://www.fun.ne.jp/muni/atsushiokano/haka.html

 喜多方から熱塩温泉・日中ダムの真新しいトンネルのバイパスで、会津とお別れして米沢に向かいました。

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1頁 会津磐梯町・会津湯川村・会津坂下町。会津喜多方市

2頁 米沢・寒河江・湯殿山・羽黒山・酒田・象潟・角館・大湯

3頁 浄法寺町・天台寺・遠野

4頁 江刺藤原の郷・平泉・阿津賀志山防塁

5頁 二本松・安達・会津若松・須賀川・白河いわき

 

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