二本松・安達地区

別な年になりますが、福島県を訪れましたので、紹介します。前頁の阿津賀志山から南下すると福島市と郡山の中間に二本松市があります。

そうです、天正12年伊達政宗の父輝宗を人質にとったが、正宗に壮絶な打たれ方をした「畠山義継」の居城「二本松城」があります。

応永21年三代畠山国詮、四代満泰が白旗ケ峰に築いた霧ケ城は、上述の伊達政宗に天正14年落城しました。その後、寛永から承応にかけ二本松藩主丹羽氏によって築かれた霞ケ城の山城を公園にしております。

 

 

 

 

 

 

 

箕輪門

承応三年(1654)霞ケ城の築城の際に、箕輪村(現二本松)の山王寺山のご神木の樫の木で楼門を築き「箕輪門」と命名されました。

戊辰戦争で焼失してしまいましたが、昭和58年に二階櫓、多聞櫓、牆壁(しょうへき・土塀)と共に復元されました。

 

 

 

 

城内の途中に池があります、

 

 

 

二本松の名前の由来は、

城内の中腹に「笠松」と呼ばれる樹齢300年といわれる老松があります。別名「八千代の松」とも云われます。

昔、ここに「鶴松」と「亀松」の二本の霊松があり、この山を二本松と呼び旅人の目印となっていたそうです。

現在の「鶴松」と「傘松(亀松)」です。

 

 

本丸跡

の石垣が整備されていて、修復の際に蒲生氏郷の時代の石垣が丹羽氏の時代の石垣の下から発見されたそうですが、写真を撮り忘れました。

変わりに本丸から見た安達太良山(あだたらやま)です。(中央松ノ木の左)        

 

 

 

 

 

 

 

又、城の旧本丸下には日本三井のひとつ日影の井戸がありました。

日影の井戸

千葉県印西市の「月影の井」神奈川県鎌倉市の「星影の井」と並び「日本の三井」と称されています。
これは、「月影の井」縁起のなかの
「清水湧出して四時渇水することなし、伝言、大菅豊後守の水行場と又月かげの井と称して、鎌倉星の井、奥州二本松の日の井と共に日本三井一なりと言う」に由来しています。
昭和の初期頃までは俗称で「底なし井戸」と呼ばれ、また古老の伝えでは「ひのゐ」「陰の井」とも称されていたといいます。
井戸の深さは約十六メートルあり、さらに井戸底の岩盤をえぐって北方に約十四メートル達していますが、今でも豊富な湧水を溜めています。二本松市

月影の井    星月夜の井

 

 

 

 

 

 

安達太良山といえば「あれが安達太良山、あのひかるのが阿武隈川」の言葉で思い出すのが、高村光太郎の「智恵子抄」ですね。そこで

二本松市の隣の安達町にある「智恵子の生家」をたずねてみました。

もちろん二本松市のホームページでも紹介されています。

智恵子さんの生家は、つくり酒屋だったそうです。裏に大きな井戸がありまして、昔は清水が自噴していたと母に聞きました。今は、場所を変えたレプリカの井戸で鯉が泳いでいました。

生家の間取り図を見ると、ちょっと変わっていたのが、二階への階段が三つあることでした。

一つが、元の玄関を入ると(写真の大八車の所)すぐ左の小さな部屋の階段は杜氏さん等酒造りの男衆の部屋へ行く階段。

二つ目が、奥の台所から昇っている女中部屋への階段。

三つ目は、写真右端になる東側座敷から上がる家族用の階段。

それぞれの部屋は壁で仕切られて(写真の看板と酒林の間の柱)行き来ができず、階段ごとに独立した造りになっています。

生活の知恵の詰まった設計になっております。

三つ目の家族用の階段を昇ったすぐが四畳半の小部屋で、智恵子の部屋だったそうです。

記念館として整備する時に一間程後ろへ下げたそうなので、前は道路ぎりぎりに建ってたそうです。智恵子の部屋は写真の右端で二階の窓から目の前の奥州街道の人馬の往来を眺めては、楽しんでいたそうです。

なお、興味のある方は「智恵子抄」や「高村智恵子」で検索していただくと、沢山の方がHPで紹介しております。

 

会津若松

平成11年に初めて会津を訪れ、勝常寺薬師如来のレプリカを見るため会津若松城の三の丸にある県立博物館へは何度か足を運んだのですが、一般的な会津若松の街並や鶴ケ城など江戸期の観光箇所へは全然行ってみなかったものですから、二本松城を見て思いつき会津若松へ行くことにしました。

翌日福島県では、十何日ぶりという、お百姓さんにとっての恵みの雨の予報でした。郡山で折り畳み傘を買って郡山発の磐越西線は会津若松行「アカベー号」に乗り込みました。

電車が進むにつれて雨が降り始め中山峠へさしかかる頃は本降りになっていました。峠を上りきると今度は下り坂です。雨にけぶって会津磐梯山は見えませんでした。又、高速道路ができたために猪苗代湖も見えなくなりました。

車社会に押されているとはいえ、1時間に1本の磐越西線は座席が一杯になるほど混んでいました。

会津若松は雨の中でした。とりあえず駅の案内で宿泊先を聞くと「温泉」なら、JRビューで予約を取れると聞き東山温泉へ泊まることにしました。コインロッカーにリュックを預けパンフレットで見つけた市内循環のバスに乗ることにしました。

 

ハイカラさん

会津若松市内を循環するレトロバス「ハイカラさん」です。1回乗車は200円ですが、一日フリー乗車券だと500円で何度でも乗車できます。江ノ電の「乗り降りクン」と同じですね。運転手さんもレトロな制服のご婦人です。駅前を毎正時と半の1時簡に2本の運行です。

このバスのパンフレットが中々賢くて、1頁に全バス停の時刻表(列車の時刻表と同じ書き方)が掲載されていて、見学スケジュールを考えるのに好都合です。それにバスのコースの図には主なる観光箇所や歴史的景観建造物などや、お勧めコース、グルメ土産なども乗っており便利です。

バスに乗ってみると停留所の名前のアナウンスの際に観光ガイドも一緒に説明があるので結構楽しいです。もし時間があれば、まずバスに一周乗ってアナウンスやバスからの風景を楽しむのも名案です。それからパンフレットとにらめっこをして観光コースを考えるのも楽しそうです。

しかし、私は雨でした。雨だとあまり思考力が働かなくなって、とりあえず鶴ケ城北口でおりて、城へ向かいました。

天守閣へ上る前に、屋根のある休憩所で従兄弟の奥さんが握ってくれた「紫蘇葉のおにぎり」と叔母さんが作ってくれた胡瓜の浅漬けを食べていました。何故か雀が寄って来るんです。試しにご飯粒を投げたら食べるんです。

よく公園で鳩は餌をねだりに来ますけど、雀は初めてです。面白くて何度も投げていると雀も入れ替わり立ち代りにきます。

そのうち、ご飯粒がなくなってしまいましたので、天守閣へ向かいました。

鶴ケ城

 

1384年、葦名家が黒川城をつくり、1590年に秀吉から配置された蒲生氏郷が、城下の整備とともに、七層の天守閣の若松城を築いたそうです。空高く翼を広げたような天守閣の形から「鶴ケ城」と呼ばれ、後、加藤明成は五層の天守閣に改築しました。1ケ月も続いた戊辰戦争で籠城しましたが落城はしませんでした。しかし時の流れは無残にも明治7年取り壊しとなり石垣だけが残っていたそうです。

心の拠所を失った会津市民の要望で昭和40年に今の天守閣(鉄筋コンクリート)が復元されました。

最近、天守閣地下に塩蔵が再現され、一層には歴代藩主の変遷。二層目にはお姫様衣装仮装記念写真。三層には戊辰戦争。四層に城下の風物。そして五層目が展望台になっています。

下り階段で一層へ戻ってくると売店、その奥に最近になって、天守閣に続く「南走長屋」と「干飯櫓」が本格的木造建築物で最近復元されました。

古建築物マニアとしては、こちらの方の太い木材が気になる建物です。

次の観光名所は、

 

御薬園・御三階

 

 

左の建物の窓の上に蕪の模様があり、種屋さんです。

都会では、花屋さんの片隅に種を売っている程度ですが、さすがに会津ですね。種専門店です。

 

右は、英語で「Departmennt Store」と書かれています。ところがその右には「呉服百貨店」と左に「第二営業所」と右から左への文字が並びます。処が、下の文字は左から右への日本語なので、きっと後から付け足した看板なのでしょう。

 

 

下の写真は、福島県立博物館展示品、年号に注意「宝治元年12月」は三浦合戦のすぐあと。

左近将監は北條時頼、相模守は北條重時。

文頭に「陸奥国好嶋預所職事・・・」とあるので、

恐らく三浦一族から取上げた領地の預かり所職(地頭と同じ)を与えたと思われます。

好島庄は、福島県いわき市平一帯らしく、又その隣には好間町の名が残っている。

伊賀氏が「預所職(地頭と同じ)」拝領しているが、その現地代官として岩城氏がいたようである。

岩城氏は、鎌倉幕府が滅亡し南北朝の内乱期を迎えるとはじめ南朝方についたが、のち北朝に転向した。

岩城一族は次第に好島荘領所職の伊賀氏の支配を排除し、岩城惣領の隆泰は文和三年(1354)ころに伊賀盛光に代わって岩城郡の守護を努めていたとみられる。

 

 

雨の会津からとりあえず郡山へ戻った私は、磐城平の白水阿弥陀堂を見に行こうかと考えながら郡山のビジネスホテルに泊まりました。

夕飯代わりの飲み屋で「るるぶ福島」を読んでいるうちに、子供の頃東北本線の白河駅の前に聳えていた石垣が気になり、そうだ!白河城を見に行こうと気が変わりました、

そして翌日、途中の須賀川に伊達政宗に滅ぼされた二階堂氏の城があるはずだなー、それに芭蕉が数日間も泊まったっていってたよなー。何ぞと思いつき須賀川駅へ降りてみました。

須賀川翠ケ丘公園 左下の茶色の愛宕山が中世詰めの城跡

須賀川市立歴史民族資料館の説明版に

「文治5年(1189)、白尾三郎(二階堂行政)が源頼朝から釈迦堂川の西部を所領として与えられたころ、すかがわの中世の歴史が始まります。

行政は稲村に本城を構えましたが、鎌倉時代終わり頃には須賀川愛宕山に城を移し、それから約120年間、須賀川城はこの地にありました。

岩瀬山城(愛宕山) 〜二階堂時代の始まり・第1次須賀川城〜

博物館バルコニーから正面に見えているのが、岩瀬山城(愛宕山)です。この岩瀬山城を中心として、現在博物館のある場所には保土原館、守屋館など二階堂家臣の居館といわれる館が配置され、現在の翠ケ丘全体が二階堂氏に関する史跡です。

愛宕山の山頂には、土塁と虎口などが残るほか、江戸時代に松平定信が編集した文化財カタログ「集古十種」にも掲載された応長2(1312)年銘の板碑があります。」とあります。

 

 

 

 

 

 

 

詰めの城の土塁

愛宕山山頂の土塁 高さ2mほどの土塁がめぐり、東側に走っている東山道に向けて虎口がついています。

愛宕山から南へ下って、赤い欄干の太鼓橋で須賀川を渡り、ゆるい坂を上ると市立歴史民族資料館が建っている。

博物館展示品の詰めの城のジオラマ 右の山頂が愛宕山。左の山頂保土原館跡に歴史民族資料館が建っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

須賀川の一番繁華な町の真ん中に神社があります。

二階堂神社

 二階堂氏が戦国大名として台頭するのは、十二代二階堂行続(ゆきたか)、十三代二階堂為氏の時代である。「仙道表鑑」に、「鎌倉公方足利持氏の時、奥州岩瀬郡を二階堂三河守行続に恩賜あり、須賀川城を築き在城す」とある。その後、須賀川城は二階堂為氏によって、長禄年間(1457〜1460)、現在の市街地に改築された。このとき二階堂為氏は、陸奥守護職を務め、岩瀬郡のうち、約五万七千石を所領していた。

 為氏入城後の須賀川城は、現在の市街地全体に及んでいた。城の入口に当たる大手は本町、二の丸は中町、加治町、東町、三の丸は上北町、搦め手は北町、犬馬場は弘法担を本城とし、要所に出丸を築いた。西に八幡崎館、南に方八丁館、東に古館を置き、愛宕山の城は、詰めの城として、もしものときに、援軍を待つ間、籠城する役割をはたすものであった。

 二階堂神社は、元の本丸の場所に当たっている。

 

 

平成元年十月十四日設立 須賀川観光協会(この地図の右下が岩瀬山城(愛宕山)。上側の大きな川が釈迦堂川で、下に細いほうが須賀川。

駅は右側へ釈迦堂川を渡った先になります。

須賀川の街中には、あちこちに芭蕉さんの歌碑があります。なんでも、芭蕉さんの須賀川在住のお弟子さんが、句会を催した場所に、その時読んだ句を石碑にしたようです。

街中を歩くうちに、珍しい記念碑を見つけました。円谷英二生誕地モニュメント。ウルトラマンの生みの親です。

 

白河城本丸隅櫓

子供の頃、夏休みに母に連れられ福島の田舎へ毎年のように行っていました。C51という動輪の直系が1750mmもある蒸気機関車が十数両もの客車を引き、最後部には荷物車をつないでいました。私達貧しい家族は、当然各駅停車の青森行きの三等車でした。

その途中の白河の駅では、駅の直ぐ脇に大きな石垣がそびえており、昔の城跡なんだと教わっていました。
そうだと思いつき白河城に寄ってみました。私の記憶では、石垣と堀だけだと盛っていたら、平成になって三重やぐらや門が復元されておりました。詳しくは題名にリンクを張っておきましたので、そこから飛んでください。

 

それから、二年後になりますが、いわき市の「国宝白水阿弥陀堂」がどうしても気になっていました。2007年田舎で法事があったので、その帰りに郡山から磐越東線に初めて乗って、いわきへ出ました。まず、磐越東線は、とても素敵でした。
ディーゼルカーの二両編成で、休日のせいか、そこそこに人も乗り降りしていたし、単線だし、線路には草が生えているし、ローカル線マニアにはぴったりでした。

いわきから常磐線で一駅「内郷」で降ります。駅から歩いて30分「国宝白水阿弥陀堂」へ到着しました。

白水阿弥陀堂は、とても美しかった。

しかも、お堂の中で若い僧が熱心に説明をしてくれるのも結構よかった。
最初は、面白ネタも入れてたのですが、私が佛前を離れず何度も聞いていたら、だんだん、真面目な話だけになってしまい。話ずらそうでした。
国宝で、休日なのにそこそこしか観光客もいなくて、丁度良い雰囲気でした。

若い女性四人組が、お堂を見ただけで戻ろうとしたので、「お堂の中の仏像は平安時代の京様式の平泉金色堂と殆ど同じくらい素晴らしいから拝んでいくように、私なんかわざわざ横浜から来たんだから。」と云ったら、「私達も横浜でーす。」とやり返されました。でも後で、「拝観して良かった。」と、喜んでおられました。

この時は、眼鏡も双眼鏡もデジカメも忘れてしまい、あきらめていましたが携帯電話にカメラがついていたのを思い出し、僅かに撮ることが出来ました。

まずは、国宝の阿弥陀堂、屋根の先の微妙なそり具合がとても優雅なおしゃれ感を与えてくれます。軒下の垂木は二重垂木なのですが、上のほうの垂木は反り返った形に削り仕上げられているのです。平安時代の職人さんの「いい仕事していますねー。」でした。

 

   浄土庭園には景石や小砂利、砂で磯や州浜や波打ち際が、そして立石が表現されております。

  

1頁 会津磐梯町・会津湯川村・会津坂下町。会津喜多方市

2頁 米沢・寒河江・湯殿山・羽黒山・酒田・象潟・角館・大湯

3頁 浄法寺町・天台寺・遠野

4頁 江刺藤原の郷・平泉・阿津賀志山防塁

5頁 二本松・安達・会津若松・須賀川・白河・岩城

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